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北海道開拓の先覚者達(73)~屯田兵制度―3~更新日:2016年06月15日

    

 私が、1966(昭和41)年に大学を卒業後入社した会社の札幌営業所が、中央区南9条西12丁目にあった。当時では珍しいコンピュータセンターが2階にあり、1階の展示室には当時最新の会計機や窓口機が並べられて、近代的な雰囲気をかもしだしていた。

 営業所の前の道路が西屯田通りと教えられた。当時は、札幌のほぼ中心にあるのに、なぜ屯田という名前が付けられているのか不思議に思っていた。この地が、1875(明治8)年の琴似屯田兵村に続き、翌年9月に開村された山鼻屯田兵村であることがわかったのはややしばらく経ってからだった。

 中央区南14条西10丁目の山鼻公園に「山鼻村開設碑」があるということで、先日訪れてみた。碑は札幌軟石を積み上げた台座を含め、高さ7メートルで、屯田兵司令官永山武四郎の筆による「山鼻開設碑」の題字が掘られている。「碑」の横には、開墾をやり遂げた屯田兵の名前が刻まれており、今でもはっきりと読み取れる。この「碑」は、開村20年を記念して1894(明治27)年9月30日に建てられたもので、記念祭が毎年この日に執りおこなわれているそうだ。

 山鼻屯田兵村は本願寺道路(今の国道230号線、石山通)に沿って、現在の南8条から南23条間の西8丁目と西9丁目を「東屯田」、南6条から南21条の西12丁目と13丁目を「西屯田」として設営された。したがって、入社時の札幌営業所は、西屯田兵村の真っただ中だったのだ。

 130万坪に及ぶこの地に東・西120戸ずつ、合計240戸の屯田兵屋が建てられ、家族を含め1,114人が東北各地から入植した。琴似兵村と同様、150坪の敷地に15坪の兵屋が建てられたが、住居が隣り合わせだった琴似村の密居型から、開拓を重視した粗居型になっており、夫々の兵屋と地続きに1,500坪の土地が与えられていた。

 山鼻地区は現在、便利な住宅地であり、また札幌南高校など数多くの高校・大学がある文教地区でもある。だが当時はうっそうとした原始林と多くの野獣の遠吠えが聞こえる地域であったらしい。
 
 山鼻兵村への移住者は琴似屯田村と同じく士族出身が主体で、戊辰戦争で朝敵として汚名を着せられた会津藩、伊達藩、庄内藩出身者が多く、更に戊辰戦争の後期に奥羽越連合から離れ新政府に加わった津軽藩、秋田藩出身者もこの地に移住している。

 県別では宮城県(伊達藩)103戸、福島県(会津藩)53戸、青森県(津軽藩)52戸、秋田県(久保田藩)21戸、山形県(庄内藩)9戸など。
官軍に徹底抗戦した会津・伊達出身者と、官軍についた津軽藩・秋田藩出身者との間で、気まずい関係もあったとのことだ。

 「山花公園」横の行啓通りに面して、2対のとんがり屋根が印象的な「山鼻屯田記念館」があり、当時の屯田兵の生活ぶりを窺わせる資料や、多くのパネルが並べられている。

 屯田兵制度は1874(明治7)年に規則が制定されたものの、具体的な制度はなく、試行錯誤の繰り返しだったという。しかし、山鼻地区は豊平川など多くの河川で育まれた肥沃な広々とした平野で、交通の要衝でもあり、琴似兵村と比べると幾分恵まれた土地だったといえよう。さらに、前年琴似に入植した屯田兵の方々および兵村運営の経験が、大いに山鼻兵村入植者の参考になったと思われる。

 パネルの一つに、後の第七師団長・男爵、永山武四郎が示した「屯田後備役下士兵卒心得(とんでん・こうびやく・かしへいそつ・こころえ:1897年1月発令)」があり、屯田兵士の常日頃心掛けるべき21カ条の規範が記載されている。

 その第1条は「勅諭(ちょくゆ)の五カ条は軍人の精神なるをもって、常に之を遵奉服用し」から始まっている。勅諭五カ条は1882(明治15)年に軍人に通達されたもので、「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」を尊び・守ることを訓示したもので、「屯田兵の本分を守りかつ一般人民の規範となって、衆人に敬愛尊重されるよう、心がけるべし」と続いている。

 第2条は「屯田兵は北海道の警備に任ずるものなれば、例えその農業に従事する間といえども、自己は勿論その家族に至るまで、皆、常に戦時の覚悟あらしむるとわきまえるべし」と、あくまでも軍人であることが、屯田兵の基本であるとしている。

 第5条では「屯田兵の子弟も兵村第二の代表者であり、その教育には最も重きを置き……」と、子弟の教育について触れている。

 しかし、1876(明治9)年に移住した時点で、屯田兵が困ったのは学校が無く、子どもの教育ができなかったことだった。有志の家を寺子屋として10人程度の子どもがそれぞれ読み書き・算盤を学んでいた。

 翌1877(明治10)年5月、木造2階建てのアメリカ式学校の建設に取りかかり、2,800円(現在の4,500万円)かけて小学校が完成した。いざ開校式というところで九州・西南戦争がおこり、山鼻兵村から出征した屯田兵から多数の戦死者・負傷者が出た。これにより開校式は予定から遅れて1878(明治11)年4月18日に挙行された。この日が山鼻小学校の開校記念日となっている。

 山鼻公園に隣接している現在の山鼻小学校には、開校138年周年の垂れ幕がかかっており、歴史を感じさせる。東北諸藩士族の子弟であり、軍人の子として教育を重視してきた屯田兵制度の歴史が、北海道民の根底にある向学心や倫理観を高め続けてきたのだろう。

 屯田兵たちは冬季を除き朝4時にはラッパの音とともに起床し、午後6時まで軍務や開墾に就いた。軍務と平行して開墾作業がおこなわれたが、小隊長や下士官は開墾成績を上げるため、兵士に開墾競争をさせることもあり、道具が少ない人力での開墾作業は軍務に劣らず厳しいものであった。

 農作業は屯田兵の奥さんや家族が主に担ったが、士族出身の家族は開墾や農業の仕事に慣れておらず、また指導すべき開拓使の役人たちも経験が無く、試行錯誤の連続であったという。その様な中、お互いに励まし合って土地を拓き、そこに麦類、大麻、トウモロコシ、林檎などの果物を植えていった。また、桑の木が多かったので蚕を飼って絹糸をつくるなど、たくましく生活していった。

 一方、農作物が鹿に荒らされたり、害虫に食われたり、度重なる水害に苦労が絶えなかった。その中でもイナゴの大群による被害が最も激しく、空が暗くなるほど襲って来て、あらゆる作物があっという間に食べつくされたそうだ。

 苦労が続く日々ではあったが、山鼻地区は大消費地札幌の近郊という立地条件に恵まれており、やがて農産物の生産基地として重要な役割を担うことになる。4年後の1880(明治13)年には山鼻と円山を管轄する役場が山鼻に置かれ、リンゴや野菜を多く産出する農村として発達していく。

 交通の要衝の地という面では、本願寺道路について少々書き加える。先日ルスツまで国道230号線で往復したが、札幌の中心から定山渓までのほとんどが片側2車線で、快適なドライブだった。この道路の始まりが本願寺道路である。

 東本願寺は徳川家と関係が深く、大政奉還されると新政府からにらまれることになる。謹慎の意を新政府に示すため、東本願寺は「如何なる御用も謹んで承け賜る」との書状を提出した。

 財政が困窮していた新政府は、この書状をたてに北海道の道路建設をほぼ強制的に東本願寺にやらせたのだ。開削ルートは松浦武四郎が「川に沿い有珠・虻田に道を拓けば、北海道開拓にとって極めて有益である」との意見を取り入れ、有珠山の東(尾去別、オサルベツ:伊達市)から中山峠を越えて札幌を結ぶもので、今の国道230号線の基礎となった。

 1870(明治3)年2月、まだ厳しい北の冬のなか、僧侶たち178人が出発し、途中寄進を受けながら、5カ月かけて函館に到着。早速工事に着工した。冬期間に作業はできないので、実質半年の突貫工事で道路は開通した。僧侶たちだけでこのような難工事ができるわけもなく、多くのアイヌの人たちが集められ苦役に加わったと言われるが、その記録は明らかにされていない。

 本願寺道路の開通で、以前取り上げた美泉定山の開発した定山渓温泉にも多くの湯治客が訪れたが、1873(明治6)年にケプロンの提案による「札幌新道(今の国道36号線)が開通すると、本願寺道路の通行量は一挙に減っていった。

 私が札幌営業所勤務の時期、中山峠を越えて何度も札幌・函館間を往復したが、その頃の230号線は曲がりくねった砂利道で、ハンドルを取られて道路わきに落ちたこともあった。しかし、その後中山峠を越える道は大幅に改修され、今、多くのインバウンド客を迎えるルスツ・ニセコ、絶景の中山峠、湯の里定山渓、拡大が続く札幌市南区を通る幹線道路になっている。東本願寺の僧侶たちとアイヌの人々に感謝しなければ。

 次の日曜日(19日)は小樽運河ロードレースに参加を申し込んでいる。途中で棄権することのないよう、屯田兵のみなさんの気骨に学ばなければ。