「国家のために一緒に闘うあなたを必要としていた」 安倍晋三が友人・中川昭一の葬儀で読んだ弔辞全文公開
7月8日、元総理の安倍晋三氏は、奈良県内の演説会場で凶弾に倒れた。安倍氏と同様に日本を代表する保守政治家だったのが、元自民党政調会長・中川昭一氏だろう。
中川は2009年10月に急逝。翌月、月刊誌「財界さっぽろ」は「中川昭一、死の真相を追う 政治に殺された親子」という増刊号を刊行した。
中川氏と安倍氏は親子二代の深いつながりがある。中川氏が1983年の衆院選で当選。30歳で赤じゅうたんを踏んだ時、中川氏の後見人になったのが、安倍氏の父・安倍晋太郎だった。
晋太郎氏と中川氏の父・中川一郎氏は、「イッちゃん」「アベちゃん」と呼び合う仲だった。お互いの長男を連れて、よう一緒にゴルフに行くなど、昭一氏が政界に入る前から両家は親子ぐるみの付き合いだった。
ちなみに晋三氏は昭一氏の初陣の前年、外務大臣だった晋太郎氏の秘書官になっている。
道内の政界関係者は記憶をたどる。
「昭一さんの“政治の父”は安倍晋太郎さんで、“政治の兄”は平沼赳夫さんです。昭一さんと晋三さんは“兄弟分”というより“兄弟”なんです。だから昭一さんはよく『俺は安倍晋三内閣をつくって幹事長をやりたい』と言っていましたね」
07年、昭一氏が呼びかけ人となり、真の保守政治を目指す「真・保守政策研究会」がスタートした。安倍政権で掲げられた「戦後レジームからの脱却」を継承し、「伝統的価値観」に基づく政治を志すのが目的だった。
そんな昭一氏が09年10月、志半ばで非業の死を遂げた。友人代表として、昭一氏の葬儀で弔辞を読んだのが晋三氏だった。
本誌は増刊号を発刊するにあたり、晋三氏に弔辞を掲載したい意向を伝え、快諾いただいた。
晋三氏は弔辞で「まだまだ国家のために一緒に闘ってほしかった。私達はあなたを必要としていました」と語りかけている。
いま、晋三氏の死に直面し、そんな思いにかられている国会議員は少なくないのではないか。以下、晋三氏の弔文全文を公開したい。
◇ ◇
故中川昭一 元自由民主党政調会長の御霊に額ずき、ここに哀悼の誠を捧げます。
昭一さん、きょうは昭一さんと呼ばせて下さい。
私と昭一さんとは、お互い父親が親しい政治家同士という関係もあり、家族ぐるみのお付き合いをさせていただきました。私が父の秘書となり、政治の世界に足を踏み入れてから今日まで長く親交を深めることができたことは、私の喜びとするところであります。
先般の総選挙直後、お目にかかった時には、さすがにお疲れの様子でしたが、2週間ほど前、電話で話した際は大変元気で「安倍ちゃん、保守再生のために頑張ろうよ」と語りかけてくれました。激励しようと思った私が逆に励まされました。
その矢先の突然の訃報に私は愕然とし、言葉を失いました。再起を目指していた昭一さんの意欲に、多くの人達が期待していただけに無念であります。かえすがえすも残念であり、本人もさぞかし悔しい思いであったことでしょう。
私が初めて選挙戦に挑んだ際、昭一さんは当選3回でした。まだ、ご自分の選挙に集中しなければいけない中で、あなたは私の選挙区に足を運び、心にしみる応援演説をして下さいました。
当選後は国家の基本問題で大きな議論が起こった時、私は昭一さんと行動を共にしてきました。常に昭一さんはリーダーでした。〝颯爽〟とした若武者ぶりは、当時の私達若手議員を奮い立たせる魅力と力にあふれていました。
いまでも忘れません。自由民主党の党綱領から憲法改正の柱が削除されそうになった時、昭一さんは当時の党の重鎮を向こうに回し、堂々と論陣を張りましたね。
時は村山政権時代。このままでは日本は危ないという危機感の中で、教科書問題にも取り組みました。中学校の歴史教科書すべてに従軍慰安婦強制連行の記述が載ることになりました。このような自虐的な歴史観を何とか正し、子供達が日本に生まれたことに誇りを持てる教育に変えたい。その一心でした。
当時の政治状況、マスコミの報道ぶりから考えれば、圧倒的に不利な情勢であり、まさに多勢に無勢でした。
その中で私達は「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を立ち上げ、メンバーの総意で昭一さんに会長をお願いしました。批判の矢面に立たされる危険がある中、俗に言えば票にもつながらない、政治キャリアにはマイナスかもしれない役職を、昭一さんは「俺がやらねば」という思いで引き受けてくれました。
拉致問題でも全力投球でしたね。憲法改正問題も同様でした。
今から思えば全て困難な問題ばかりで、私がまだ当選1、2回の頃、若手の仲間と「昭一さんに、こんなに何でも押し付けていいのかなあ」と話し合ったことがあります。
しかし、責任感の強い昭一さんは自ら困難な問題に立ち向かい、その後、教科書の記述は改善されました。
難局に立ち向かうことで世の中を変えていく。そのためには全力で闘う。私も昭一さんの“驥尾”(きび)に付し、「闘う政治家」の姿をあなたから学びました。
小泉内閣時代、昭一さんは経済産業大臣、農水大臣を歴任されました。その間、海外出張は何と43回にのぼりました。
東シナ海のガス田問題で、あなたの毅然とした外交姿勢は資源外交の重要性、国益を守るとは何なのか、ということを私達に身をもって示してくれました。
安倍内閣が誕生した時、私は迷わず、あなたに政調会長就任をお願いしました。平成19年1月、通常国会で昭一さんは代表質問の壇上に立ちました。奥様のお話では、まじめな昭一さんは深夜まで何回も“推敲”を重ねたそうです。
その冒頭、昭一さんは張りのある声でこう切り出しました。
「国の骨格をなすものは、憲法、安全保障、教育であります」。そして結びで
「アインシュタインが称賛した日本人の謙虚、質素などの美徳を保ちつつ、誇りと自信を持った国民によって、見える部分、見えない心の部分も、ともに真に美しい国、日本が実現されるよう全力を挙げて努力することをお誓いします」と述べられました。
私は代表質問に聞き入り、昭一さんと共に歩んできた道、闘ってきた道に思いを馳せました。
あなたの歩んできた道は国家のため、まさにその一筋で貫かれていました。
お別れの時がきました。
私は残されたご家族、ご参列の皆様に改めて申し上げたいと思います。
「中川昭一は立派な政治家でした」
まだまだ国家のために一緒に闘ってほしかった。私達はあなたを必要としていました。
こんなことを申し上げていると、あの魅力的で、誰をも虜にする、はにかんだ笑顔で「そんなにほめるなよ。安倍ちゃん」という昭一さんの声が聞こえてくるようです。
国家の行く末、残されたご家族、昭一さんにとって心残りだと思います。
しかし、ご長女の眞理子さんはジャーナリストとして活躍され、将来が“渇望”(かつぼう)されています。高校2年生のご長男、峻一君はスポーツで鍛えられた精神と肉体を持った優秀な青年に成長されました。
お2人とも中川昭一の娘、息子であることを誇りにし、人生を切り拓いていくことでしょう。
昭一さんの最愛の奥様、郁子さんと昭一さんはかねてからの夢だったエジプト旅行に来週、出発することを決めておられたと、伺いました。本当に楽しみにしていたことでしょう。
郁子さんは、昭一さんとの幸せな日々を胸に、お2人のお子様と中川家を守っていかれると思います。
そして残された私達は、あなたが目指した誇りある日本をつくるため、保守再生に向けて全力で取り組むことをお約束し、弔辞といたします。
昭一さん、さようなら。安らかにお眠り下さい。
平成21年10月9日
友人代表
衆議院議員 安倍 晋三