社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (47) ―薩摩国(鹿児島県)民の北海道開拓

 鹿児島県は本土(薩摩・大隅地方)と、605もの離島からなっています。1871(明治4)年、廃藩置県で鹿児島県が成立。西郷隆盛・大久保利通・森有礼など、明治政府の中核を担う人物を輩出し、また日露戦争の英傑である大山巌や東郷平八郎も薩摩出身です。

 1967(昭和42)年10月、北海道100年を記念し、高倉新一郎北大名誉教授監修による「北海道のいしずえ四人」が出版。その四人とは黒田清隆、ホーレス・ケプロン、岩村通俊、そして永山武四郎です。

 高倉はあとがきの中で、「明治以降、北海道開拓に尽くした人々は数限りもなくあるが、その中で万人が指を折るのはこの四人であろう。北海道開拓に対する熱情においても、その仕事においても比類する者がない人々である」と記しています。また当時の北海道知事・町村金吾は序の言葉として「今日の北海道の礎を築いた数々の先駆者の中でも、黎明期の偉材といわれる四氏の功績を忘れることはできません」と称えています。

 四氏の中で、黒田と永山は薩摩国(鹿児島県)出身。黒田は開拓使次官・長官として実質北海道開拓の指揮を執り、永山は二代目北海道長官兼屯田司令官として北海道開拓の基礎となる屯田兵を率いました。

 北海道は一時黒田王国とも言われ、開拓使の主要な官僚は約半数が薩摩出身者で占められていました。北海道の今あるのは、薩摩藩出身者に大きく委ねられたと言っても過言ではないでしょう。今回は黒田清隆と永山武四郎を中心に取り上げます。

 黒田清隆(了介)は1840(天保11)年、薩摩藩士の長男として下級武士の多くが住いを構える鹿児島城下新屋敷で誕生。黒田が北海道・日本の歴史に今も名を留めているのは、以下の功績によるものではないでしょうか。

 1、弱冠25歳にして覇権を争っていた長州に入り、木戸孝允らと交渉。薩長連合の密約を結ぶ役割を果たしたこと。

 2、戊辰戦争・箱館戦争で、敵方であった松本十郎(庄内藩士)、榎本武揚、大鳥圭介、松平太郎などの命を救い、さらに明治政府の要職に採用したこと。榎本武揚等、箱館戦争で戦った敵の幹部を助命するため、頭を丸めて公家たちに嘆願。助命された彼らの多くが北海道開拓の主要な役割を担っています。

 3、北海道開拓の実質責任者になると渡米し、南北戦争の英雄である米国大統領・グラント将軍に北海道開拓における指導者の派遣を要請。時の農務局長だったホーレス・ケプロンを招聘することとなります。この時、黒田29歳、ケプロンは67歳。親子ほどの年の差を超えた人間関係を築き上げました。

 4、ケプロンの指導を受けながら、10年間に1000万円(現在の2000億円)の予算を北海道開拓に投じるとの「開拓使10年計画」を作成、日本国の基幹事業の一つとして認められたこと。これにより、札幌本道を始めとした道路の敷設、札幌府の建設、農学校の開設、産業の振興が進められていきます。そして、西郷隆盛の意を受け、開拓次官と屯田憲兵事務総理になると、屯田兵制度を推進しました。

 さて、1871(明治4)年、廃藩置県制度が施行され、これに反発する士族の乱(佐賀の乱、萩の乱など)が発生。この際、永山武四郎は開拓使に入り、北海道屯田兵の設置を建白します。黒田は永山の意見を受け入れて明治政府に建言。1874(明治7)年に細則が定められ、翌年に屯田兵制度が開始されます。

 同年、戊辰戦争により生活に窮した藩士を募集。東北地方から198戸(後に204戸)の屯田兵とその家族が琴似屯田兵村に入村。屯田兵制度は、1904(明治37)年に解散するまでの間、道内各地に37の中隊を配置。7337人の屯田兵及び家族、およそ4万人が北海道に入植しました。本格的な北海道開拓が展開され、屯田兵による耕作地は7万5000ヘクタールにも及び、今日の北海道の発展の礎になりました。この間、屯田兵制度を中心となって指揮してきたのが永山です。

 永山は1837(天保8)年、鹿児島郡西田村(現在の鹿児島市薬師馬場町)に生まれます。文武の道に励み、特に槍術では宝蔵院流槍術の免許皆伝の腕前。その後の永山の一生は、北海道における屯田兵制度の育成に終始したと言えます。

 1887(明治20)年、永山はロシアに赴いてコサック兵制度を調査。その規模の大きさに驚き、屯田兵拡大策を計画。翌年には屯田兵部長を兼務しながら岩村通俊の跡を継いで2代目の北海道長官に就任。屯田兵制度の改革と増強計画が急速に進んでいきます。士族に限られていた屯田兵応募資格を農民にまで拡張。ここに後期屯田兵制度(平民屯田)が始まります。また、囚人による全道の道路網開削が進められ、北海道への移住者は年間4000戸を超えるまでになりました。

 また、永山は岩村とともに、自然豊かで涼やかな上川の地に「北京(ほっきょう)」を設置し、夏季には天皇陛下に「上川離宮」でお過ごし戴きたいと建議。宮内庁の賛成も得、時の総理大臣黒田清隆の裁可も得ます。この計画は札幌・小樽の反対や日清戦争の勃発で実現しませんでしたが、今で言う首都機能の移転をこの時期に提起しています。優れた先見の明と言えるでしょう。上川神社境内には「上川離宮予定の地」の標識が建てられています。

 永山は1896(明治29)年、第七師団長となり、1899(明治32)年には札幌に置かれていた師団本部を旭川に移転させます。いずれかの日に「上川離宮」が置かれ、その警備を強固にするという思いもあったのではないでしょうか。1904(明治37)年、桂太郎内閣総理大臣から従二位が与えられ、重い病状の中、正座して拝受しましたが、その一月後に逝去しました。享年67。遺体は生前の「北海道の土となり、死後も北海道を守る」との本人の遺志で、上野から列車で札幌に移送。儀仗兵一個大隊に守られた棺は、会葬者で埋め尽くされた道を通り、平岸墓地に埋葬されました。

 黒田や永山が心血を注いだ屯田兵制度で、その要ともなるのが屯田兵村であり屯田兵屋です。屯田兵村第一号は琴似屯田ですが、兵村と兵屋を設計・建設したのが鹿児島県薩摩藩士の村橋久成です。「札幌近郊に屯田兵村を建設せよ」との黒田の命を受け、村橋は琴似を選択。原生林に多くの人夫を送り、測量、立木の伐採、道路の敷設、兵屋建設を推進。1874(明治7)年、琴似屯田兵村が完成。琴似屯田兵屋はその後各兵村のモデルとなっています。村橋は更に麦酒工場の建設を命じられ、1876(明治9)年、現在のサッポロファクトリー近辺に総工費8348円余りの予算で工事に着手、同年9月8日に竣工。これがサッポロビールの始まりです。

 1881(明治14)年、開拓使の廃止まで残り1年となった年、村橋は突然行方不明に。11年後の1892(明治25)年、神戸郊外の路傍で行き倒れの男が保護されます。所持品はなく、下着だけの裸同然の姿。男は当初偽名を使っていましたが、その後「自分は鹿児島県塩谷村の村橋久成」と名乗り、その2日後に帰らぬ人に。黒田清隆は新聞で村橋の死を知り、神戸から遺体を東京に運び、自ら葬儀を行いました。北海道知事公館庭園に村橋の胸像が置かれています。

 鹿児島県から屯田兵として北海道に入営したのは112戸約500人です。そのほとんどが士族屯田の時期で、1885(明治18)年には現在の江別市近郊の江別兵村に16戸、篠路兵村に5戸、野幌兵村に30戸が入植。1890(明治23)年から翌年にかけては上川道路沿いの北滝川・南滝川兵村にそれぞれ9戸と10戸、高志内兵村に3戸、茶志内兵村に2戸が入植し、また永山師団長のおひざ元である東永山兵村に23戸、下旭川兵村に1戸。1893(明治26)年とその翌年には新琴似兵村に11戸、南江部乙兵村に1戸が入植しています。

※本連載は今回で終了します。新シリーズにもご期待ください。