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北海道開拓の先覚者達(69)~松浦武四郎(補筆2)~更新日:2016年04月15日

    

 前回、松浦武四郎がアイヌ民族の過酷な生活に深く同情し、彼らの純粋な生きかたをいかに愛おしいと思ったかを記した。今回もその続編を綴っていきたい。

 武四郎は6度も蝦夷地に行き、未開の内陸に至るまでを詳しく調査し、多くの文献を著している。今回は、3回目と4回目の蝦夷地調査で明らかになったアイヌ民族の悲惨な状況について、武四郎の著した文献から紹介していきたい。

 第2回の蝦夷地調査を終え、江戸に帰った武四郎は「再航蝦夷日誌」の執筆に取り組むとともに、この間アイヌ語の勉強も欠かさず相当な実力を備えるようになっていた。また水戸藩からの支援もあり、蝦夷“通”としての武四郎の名は天下に知れ渡るようになっていた。
 1849(嘉永2)年、33歳になった武四郎は3度目の蝦夷地調査に向かった。

 当時西洋では、“北緯23度以南、北緯42度以北の人たちは総じて純朴であり、我と我が身を偽ることはなく、畜生(獣)に騙されることはない。一方、42度と23度の間にいる人たちは、「よろしき国に生まれ、知恵も才覚もあり、誰にも負けることのない最高の民族である」と傲慢になり、自分を見失うことが多いので、畜生にまで騙される”という諺があるそうだ。武四郎は3度目の蝦夷地訪問を記した「3航蝦夷日誌」で、「42度以南にある日本は、まだ迷いから覚めず、外国の教えを素直に受け入れようとしていない」と述べ「本邦(42度以南の日本)のキツネは人を欺く(あざむく)のではなく、人がだまされるのだ」と書いている。北緯42度以北に住むわれわれ北海道人は、純朴に自然と向き合って生きていくのが大事と教えてくれているようだ。

 今回の調査で武四郎はトマリ(クナシリ島最南端の村)を訪れた。ここに住むアイヌの人たちはすべて、道東のシャリから移された者たちだった。アイヌの人たちの話によると、以前、ここクナシリに住んでいたアイヌは、そのほとんどが飛騨屋の番人に強殺されたり「クナシリ・メナシの戦い」で殺害されたのだという。彼らが話す「クナシリ・メナシの戦い」の概略は次の通りである。

 蜂起は1789年に起こった。当時飛騨屋の番人たちはアイヌ女性への姦淫や陵辱は目に余るものがあり、妻も娘も見境なく勝手次第に慰みものにし、抗議すると打ちたたかれ、髭を剃り落としてしまう有様だった。また、肥料にする魚粕をゆでる大釜に、大人ばかりか子供まで放り込み煮殺しにすると脅かす。このような乱暴狼藉が続く中、クナシリの乙名(酋長)マケメリの妻が、番人からもらった飯を食べて亡くなってしまう。マケメリの息子はこれに激怒し、仲間とともに蜂起。飛騨屋の支配人・番人ら23人を殺害する。次いでメナシ(今の羅臼)のアイヌも呼応し、番人や舟子50人を殺害。蜂起したアイヌ総勢はおよそ200人といわれる。

 この事態に驚いた松前藩は鎮圧にあたるべく、260人の藩兵をこの地に派遣した。この事態に動いたのがアッケシの大酋長イトコイとクナシリの乙名ツキノエであった。2人はアイヌ側に勝目がないと判断し、山に隠れていたアイヌの若者たちを諭す行動に出た。アイヌたちは乙名たちの説得に応じ、やむなく降伏。松前藩は首謀者29人を牢に入れ、武器をことごとく没収した。

 まず、蜂起の主犯とされた8人が首を斬られ、その首は藩士により足蹴に。これを見た牢にいるアイヌたちは怒り狂い牢を壊し、材木を武器に陣屋に乱入する。しかし、戦力の差は歴然としており、再び捕らえられ、耳を削がれ目玉をくりぬかれ、息のある者たちは手足を順に切り取られる残虐さだ。

 部族の若者たちを松前藩に差し出し、このような残酷極まる死に追いやったイトコイ等は松前藩の居城福山城に呼ばれ、松前公にお目見えして、労をねぎらわれたという。その時の彼らの出で立ちは蝦夷錦を着用し、返却された自慢の大槍を持った姿である。この時の乙名たちを描いたのが蠣崎波響の「夷酋列像」である。

 クナシリ・メナシの戦いは、すべてを飛騨屋のせいにし、松前藩は「夷酋列像」を各地の大名に寄贈することでその罪を免れたのである。武四郎はアイヌの人たちから詳しく聞き、クナシリ島に昔からいたアイヌの人たちが、シャリから連れてこられた実態を知ることができたのだ。

 蜂起の後飛騨屋は没落し、10年後の1799年に東蝦夷地は幕府直轄となった。しかし、その後を継いだ場所請負人の粕谷喜兵衛は、引き続きアイヌの人たちを酷使。婦女子の強姦は日常茶飯事で、病人の遺棄までするという飛騨屋と変わらぬ暴挙を続けていた。

 武四郎は「近世蝦夷人物誌」で次にように、アイヌ民族の人口減少を嘆いている。「文政のお引渡し(1821年に幕府が直轄していた蝦夷地一円の支配を松前藩に戻した)時点では、シャリ会所には戸数366、人口1326人がこの地に住んでいた。しかし今(武四郎が訪れた1849年)は、戸数173、人口350人と4分の1に減っている。

 この地の夷人(アイヌ民族)は、16~17歳になると男女の区別なくクナシリやリイシリ(リシリ)等へ強引に移動させそこで使役させる。女は番人・稼人等の妾とし、その夫は離れた土地の漁場に追いやり働かせる。アイヌの男性は昼夜の別なく酷使され、その苦しみに耐えられず病に就くものは倉に放置し、一服の薬も、一切の食事も与えない。ただ、身寄りの者が食事を運んで生きながらえさせる生活をするのみ」武四郎に語るアイヌの人たちは、アヨタコタン(地獄だ)と、悲しげに言葉をふりしぼっていた。

 武四郎は江戸に戻った1850(嘉永3)年に「蝦夷大概之図」を完成させた。これは30センチ四方の小図ながら、樺太・クナシリ・エトロフを含む北緯42度から51度までの蝦夷地全図で、北海道の全体図が発行されたのはこれが初めてだ。

 武四郎はこの図の左上余白に、数百字におよぶ次のような檄文を書いている。

「藩主ハ頗ル(すこぶる)権ヲ弄シ、欺瞞ヲ事トス:藩主は権力をほしいままにし、家老や請負人は人を欺(あざむ)き騙(だま)している」

「街頭ノ女ヲ相携ヘ矯姿ヲ衒テラ)ウ:街頭で女性をたずさえて、矯正をあげてみせびらかしている」

「幾多ノ人口日々ニ損ジ欠キ、志士ハ嗟詫(さたく)易シ:アイヌの人口は激減しており、心ある者たちは悲憤を感じている」

 このあと、蝦夷地改革について提言しており、1634(寛永11)年に幕府が蝦夷地を直接管轄した時点に戻し、松前藩から蝦夷地をことごとく取り上げ、幕府なり志ある藩なりが仁政を敷かなければならない。また場所請負人制度は廃止しなければならないと訴えている。

「蝦夷大概之図」は、木版図で多く印刷発行され、松前藩の目にも当然触れることは予想される。武四郎はその時の覚悟を次のように図面上に記している。

「出言スレバ忽ち諠訴(けんそ)サレン。腰間ノ孤剣(こけん)ヒトタビ鳴レバ、空虚ニシテ思ヒ深シ:これが世に出れば松前藩から訴えられ、藩士によって斬り殺されかねない」

 自分の命を賭した武四郎の覚悟がにじみ出ている文だ。「蝦夷大概之図」はこの年の4月に江戸市中に出回る。これを見つけた松前藩士は、すぐさま藩主松前崇広(たかひろ)はじめ重役たちに送り届ける。「不埒(ふらち)な、捨て置けぬ」。松前藩は武四郎を抹殺すべく刺客を送った。

 4月に入り、穏やかな日が続いている。円山公園の雪のほぼ消え、氷が張りつめていた池も水面が現れ、早速マガモのつがいと、オシドリのつがいが一組ずつ仲良く水面で戯れている。木々の芽も膨らみだし、間もなく一斉に花を咲かせようとしている。

 新年度に入り、アベノミクスの限界がほの見えてきた。マイナス金利も導入した大胆な金融緩和策もその効果は実現せず、むしろ副作用があちこちに出てきている。このままでは選挙目当ての財政出動で、限界まできている国の借金を更に増やすだけだ。次の世代に負いきれない借金を遺していいのだろうか。