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北海道開拓の先覚者達(74)~屯田兵制度―4(新琴似兵村・篠路兵村)更新日:2016年07月01日

    

「百年の基を開きし農魂ぞ 命絶やすな 先達の声」 
「この地に育つ若人よ 今日を創りし先人の 自耕自拓の精神を継いで努力の人となれ」

 地下鉄麻生駅から徒歩15分の処に新琴似神社があり、その境内に新琴似屯田兵中隊本部の建物が復元されており、現在は札幌市指定・有形文化財として、入植時の各種資料が展示されている。

 1875(明治8)年の琴似、翌年の山鼻に遅れること10年あまり、札幌地区3番目の兵村として1887(明治20)年、新琴似屯田兵村は開村した。同年に146戸、翌21年に74戸、合計220戸が入植している。

 冒頭の句は中隊本部建物の近くに、開村100年を記念して建立された「拓魂碑」と「百年碑」に刻まれている碑文で、新琴似の人たちがいかに先人の労苦を偲び、開拓の偉業を崇拝しているかがうかがえる。

 琴似や山鼻の屯田兵は東北諸藩藩士出身の方々が多かったが、新琴似は佐賀県(61)、福岡県(55)、熊本県(41)、大分県(19)、鹿児島県(11)と、全体の85%が九州諸藩の藩士出身である。温暖な地域からの移住だったわけだ。初代中隊長として、220人の屯田兵を率いることになったのが三澤毅中尉。彼は、1875(明治8)年に琴似へ入植した屯田兵経験者で、第1陣が到着した翌日、中隊長は以下の訓示を述べた。

「おまえたちの故郷である南国の気候風土は十分承知している。それに反して、昨日おまえたちが入植したこの未開地は北国の一大湿地帯である。さぞかし驚いているだろう。だが、これからのお前たちの一鍬一鍬によってこの大地は第2の故郷の礎(いしづえ)となるのだ。困苦欠乏に堪えて団結し開拓せよ」

 この訓示に感銘を受けた新琴似兵村の全屯田兵とその家族は、無我夢中で働いたといわれる。だが新琴似兵村の一帯は泥炭層が多く湿地帯であったため、屯田兵たちはまず排水事業に取り組まなければならなかった。三澤中隊長は、屯田兵が入植する前年の1886(明治19)年に屯田兵本部で排水溝構想を提案し、これが現在の新川(13km)として残っている。その後、第3代中隊長の安東貞一郎大尉が三澤の構想を受け継ぎ、発寒川に注ぎ込む排水溝「安春川」を完成させている。この「安春川」は現在、住民が憩うウォーターフロントとして整備されている。

 5月に入植した屯田兵および家族は7月になり、なんとか三反歩ほどの荒地を開拓することができ、そこにソバの種を蒔いた。1年目は気候不順で、霜が例年になく早かったが、ソバの実は多少なりとも収穫することができた。屯田家族たちは涙を流して喜んだという。

 琴似兵村が1戸当たり150坪の土地が隣り合った「密居型」であったのに対し、新琴似兵村では入植時にまず1戸あたり4000坪を給予。そして給与地に兵屋を置く「粗居制」を採用した。入植時はうっそうとした原始林の真ん中にあり、自分の兵屋を探すのにも苦労した者もいたそうだ。そんなありさまだから、毎朝6時の集合時は、中隊本部から遠い居住者は往復がさぞ大変だったことだろう。

 給与地は開拓完了時には各戸6000坪、さらにその地も開墾すると5000坪が追加給与され、当初の4000坪を含めると1万5000坪になった。この給与地は入植の年から30年間は譲り渡しが禁じられていた。だが故郷に帰る者は、買い入れ人を自分の養子とした上で譲った。そうしたことから「株養子」などといわれたそうだ。

 入植当時の農業は養蚕と麻の栽培が主で、その他に大麦・小麦、大豆・小豆、馬鈴薯などを耕作していた。軍馬の飼料としてエン麦の需要が増加し、亜麻やビール麦とともに、新琴似兵村の主要農産物となっていった。米作は1892(明治25)年に始まり全村に広がっていったが、凶作や洪水被害が相次ぎ、大正時代には大きく減少していった。

 新琴似屯田兵村でも子弟の教育は最優先課題で、入植した年の暮れには私立新琴似小学校が開校。40人の児童が入学したという。現在は札幌市立新琴似小学校として、新琴似神社の向かいに立派な校舎があり、子供たちの元気な声が聞こえている。

 新琴似屯田兵村に第2陣が入植した2年後の1889(明治22)年、220戸(家族を含め1056人)が篠路屯田兵村に入植した。出身地は北陸(福井・石川)、近畿(和歌山)、中四国(山口、徳島)、九州(福岡、熊本)と、西日本を中心に広範囲な地域からの応募者であった。後に日露戦争の旅順攻撃で、港湾封鎖の為自沈させられた相模丸(1885トン)が入植者の輸送に使われた。

 一番遠い徳島から山口、博多、熊本を順次経由し、小樽で北の大地に足を踏み入れた。篠路の地に着いたのは7月15日である。

 篠路は母なる石狩川に創成川、発寒川、旧琴似川、伏古川、篠路川など多くの河川によって育まれた広大な原野。江戸時代は石狩13場所の中心として漁業が盛んであった。その後、幕府箱館奉行堀織部正(ほり・おりべのしょう)の方針で、荒井金助、草山(そうやま)清太郎、大友亀太郎らが荒井村、篠路村、札幌村の開発に取り組んだ地だ(この4人についてはそれぞれ過去に本ブログで詳細を記した)。

 屯田兵村が設営された地は石狩扇状地の端で、海抜2~5メートルという低い土地。篠路(屯田)の長い歴史は水との戦いの連続でもあった。雪解けによる石狩川の氾濫、秋の長雨、台風に伴う大雨。毎年決まって水害に見舞われたという。

 特に1902(明治35)年9月の大洪水では村のほとんどが水で埋まり、多くの屯田兵の家・食料田・田畑が流出してしまった。生活のすべを失い、3年間の給与期間(この期間には扶助米、や塩菜料:おかず代が支払われていた)を過ぎた屯田兵は次々と故郷に戻ったりほかの仕事に就くなどして、入植20年後の1909(明治42)年には220戸から72戸に減っていった。

 しかし「石狩川の氾濫洪水の惨禍を受けしも、土を愛するのは農民の魂である。天災は必ずしも自然の暴威ばかりでなく、人為の貧困が天災を生むものである(屯田兵顕彰之像の碑文から)」と励まし合い、畑作主体の農業から、稲作への取り組みを始めた。

 兵村の公有財産を売却して資金を作り、1913(大正2)年、篠路兵村土功組合を創設し、新川・創成側から水利をはかって約670ヘクタールの水田を造成した。この偉業を讃えて「水田開発記念碑」が、札幌市北区屯田7条7丁目の「屯田開拓顕彰広場」に建立されている。屯田村の米作はその後、道央随一の収穫量を誇るまでになった。

 なお、顕彰広場(屯田兵第一大隊第四中隊本部跡)には、制服を着た屯田兵が遠く(故郷か?)を指さしている「屯田兵顕彰の像」や、立ち上がっていなないている「馬魂の像」もあり、兵村の存在感を今に遺している。「馬魂の像」の碑文には「人間と馬が一体となって開墾がおこなわれ、その馬が唯一の原動力として駆使されて緑豊かな沃土に変貌したことにより、屯田地区住民が今日の近代的かつ文化的生活の御恩恵に浴することができた」と刻まれ、農耕馬・軍馬の労役に感謝の気持ちを現わしている。

 新琴似神社を立ち去る際、1羽のカラスが何度も急降下して、私に攻撃を仕掛けてきた。多分、近くの巣には生まれたばかりの七つの子がいたのだろう。

 一方、円山公園の池には、札幌祭りの前後に生まれたオシドリの赤ちゃん13羽が、1羽も欠けることなく元気にエサをついばんでいる。円山のカラスは温和なのだろうか、赤ちゃんオシドリを襲うことなく、おとなしく見守っているかのようだ。まあ、いたいけなオシドリの子を攻撃するより、先の短い老人(筆者)を攻撃する方がまだ許せるか。