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北海道開拓の先覚者達(62)~高松凌雲(2)~更新日:2016年01月01日

    

 明けましておめでとうございます。今年は申年で荒れた年になると言われています。昨年末はエルニーニョの影響なのでしょうか、ホワイトではなくダークなクリスマスイブを迎えました。このまま地球温暖化が進むとどんな世界になってしまうのか心配になってしまいます。財政の規律もなく、GDP600兆円を目指したバラマキ型予算も気にかかるところです。

 ここ数年、所得格差が著しくなり、温かい手が届かない人たちが増えてきています。前回に続き高松陵雲を取り上げますが、彼は今から150年も前、赤十字精神で人々を救った人物です。

 前号で紹介したように、高松凌雲は気骨のある武士であり、先進的西洋医学を学んだ医師であり、敵も味方も貧しい人たちにも医療を施した博愛者でもあります。彼は箱館病院の頭取として激戦の中多くの傷病者を救い、さらに薩摩藩の使者村橋久成の要請を受け入れ、旧幕府軍総裁榎本武揚に書状をしたため戦争終結に多大な貢献を果たした。このような人物が北海道(箱館)を舞台に活躍し、歴史にその名を残したのだ。開拓神社には祀られていないが、北海道の近代化に貢献した先覚者の一人として、その人間像を忘れてはならない。

 高松は1836(天保7)年、筑後国恩原郡古飯(ふるえ)村(今の福岡県小郡市)で貧乏な庄屋の家に生まれた。幼名は権平といい、後に荘三郎と名乗った。20歳で久留米藩家臣・原弥兵衛の養子となり、武術・漢書にいそしんだ。

 次兄の勝次は極貧の中、漢学、算術、蘭学を学び、旗本の川勝広業(かわかつ・ひろわざ)に認められ、長女の婿として医師を目指し江戸にいた。高松は衣類を質に出して得た5両を持って勝次を訪ねる。勝次は婿の身でもあり受け入れることに躊躇したが、義理の母の助力で川勝家での居住が許された。

 1860(安政7)年、桜田門外で井伊直弼が暗殺された。その翌年、高松は天下の大蘭方医・緒方洪庵の適々斎塾(適塾)に入門する。塾には箱館戦争の同士である大鳥圭介、官軍の総大将・大村益次郎、五稜郭を設計した武田斐三郎(たけだ・あやさぶろう)、福沢諭吉など多士済々が集っていた。高松もその中で頭角を現し、医学に優れた才覚を発揮。オランダ語を自由に読み書きしたほか、ロシア語、英語も学んだ。

 1865(慶応元)年に徳川家茂が死去し、一橋慶喜が徳川家を継承。第15代将軍に就任する。学才が認められて一橋家の表医師になっていた高松は、慶喜の就任に伴って幕府の奥医師になる。薩摩の貧乏な庄屋の生まれだった高松が、将軍の診療も担う幕府の医師になったのだ。

 翌1866(慶応2)年4月、パリで開催される万国博覧会に日本から将軍の親族の参加が求められ、高松は将軍の弟で14歳だった徳川昭武に従い、医師として同行。パリ万博が終わると留学生としてパリに残るよう言い渡される。留学先は「オテル・デユウ(HOTEL DIEW:神の館)」という病院兼医学校だった。この留学が、高松の医師としての生き方へ決定的な影響を与えることになる。オテル・デユウは設備が整った病院で、貧しい人たちに無料で診療を施している民間病院。その資金は貴族、富豪、政治家などからの寄付で賄っていた。高松は医学が博愛を基盤としなければならないことを強く感じた。

 しかし、幕末の激流は彼をフランスに止めることを許さなかった。鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大敗したことで、急遽帰国の途に着く。江戸に戻った高松は、世情の急激な変化に胸を痛めることになる。幕府に恩義を受けた者たちの大半は薩長両藩に媚びを売り、官軍の兵たちは略奪・強姦の不祥事をしばしば起こし、婦女子は避難している有様だった。高松は横暴きわまりない彼らに激しい怒りを覚え、榎本武揚の下で官軍と戦うことを決意。品川沖に停泊している開陽丸に乗り込み、仙台を目指す。榎本軍は仙台で新撰組などを加え3000人を超える勢力となり、箱館で薩長を中心とした官軍と壮絶な戦いを繰り広げていた。箱館における高松の奮闘については前回を参照されたい。

 なお、凌雲が頭取を務めた箱館病院では、箱館戦争で1338人を治療し、そのうち亡くなった者は133人と記録されている。

 箱館戦争が終結した1869(明治2)年10月、高松は徳島藩預かりとなり、謹慎蟄居の身となる。食事は1日におにぎりと梅干2個、たくあん2切れ。せんべい布団でネズミが群がる部屋に置かれ、まるで罪人扱いだった。その後、蟄居は解かれ、水戸家の御用医となる。水戸藩では高松が徳川慶喜の医師であったこと、フランスで修業したこと、箱館戦争で多くの傷病者の治療に当たったことが評判になり、診療を受ける藩士らが後を絶たなかった。

高松は水戸藩に籍を置きながら1人の医師として生きていこうという思いを固めた。だが政府の組織下で働くつもりはなく、兵部省や開拓使に勤めよとの要請を断った。1民間人として医療に専念する道を選んだのだ。

 翌1870(明治3)年4月には、フランスに同行した徳川昭武とともに来道。函館や苫前を訪れている。この時、高松の脳裏には箱館戦争後、埋葬されることなく野にさらされた、おびただしい数の榎本軍兵士の光景が写っていた。

 高松の頭に常に重くのしかかっていたのは榎本武揚の処遇であった。高松が届けた書状で榎本は降伏を決断。しかし敗戦後東京で投獄され、悲惨な状況に置かれていた。長州藩出身の木戸孝允らは、死刑にすべきとも主張していた。しかし「榎本ら有意な人材を失うのは国家の損失である」と、自らの頭を丸めて懇願した黒田清隆らの助命運動が功を奏し、1872(明治5)年3月に榎本らは特命で出獄。さらに開拓使四等として出仕することとなった。そこに至ってようやく、高松の心にかかっていた暗雲が晴れた。

 その後も高松は市井の医師として患者を治療し、高い評判を得た。1878(明治11)年には東京・浅草と下谷両区の医師会会長に就任する。ただ高松は開業医になって以来、治療を受ける患者が恵まれた収入を得ているものに限られていることに苛立ちを感じていた。薬一服も口にできず死を迎える者が多い現状は変わらず、親を医師に診せるため、娘が自らの身体を遊女屋に売る例も数知れない。高松には常にオテル・デユウのことが頭にあった。会長就任後、医師会でその思いを説明したところ、所属医師たちもこれに賛同。彼の思いは「同愛社」として結実し、10カ条からなる規約が掲げられた。これが日本で最初の赤十字精神による医療活動機関となった。

 1882(明治15)年3月、総会が開催され、榎本武揚ら70人が参加した。その中には榎本軍副総裁の松本太郎の顔もあった。治療をおこなう救療社員と、金銭的援助をおこなう慈恵社員に分け、渋沢栄一、松平太郎、榎本などが喜んで幹事の役を引き受けた。慈恵社員には徳川昭武、大隈重信、勝海舟、伊達宗成、陸奥宗光、安田善次郎、宮中女官ら各界の有力者が率先して参加し、高松らの活動を資金面から支援した。1883(明治16)年には明治天皇から金1000円(現在の価値で2000万円)が下賜され、これを「同愛社」活動の基金とした。

 1879(明治12)年の同愛社創立から1906(明治39)年9月までの施療患者数は3万7573人で、延べ数は65万9168人と記録されている(大日本施療院小史)。

 同愛社をさらに発展させるため、高松は社長を辞し、子爵となっていた榎本に後任を委ねた。榎本は薩長中心の政府で、逓信、農商務、文部、外務の各大臣を歴任し、さらに天皇の諮問機関である枢密院の顧問官に任ぜられていた。榎本は1908(明治41)年、73歳で死去するまで同愛社の社長を務め、その後は高松が社長に復帰。榎本と高松の男と男の同士愛を感じる話だ。

 さて、1892(明治25)年10月に「村橋久成の末路」という記事が日本新聞に掲載されていた。村橋こそ、高松に榎本宛の箱館戦争終結(降伏)の書状をしたためるよう依頼した人物だ。(村橋久成については本ブログ2015年6月15日より4回の連載で詳述したので、こちらを参照されたい)。

 村橋はなぜ、裸同然の姿で野垂れ死してしまったのだろうか。高松は、戦争で焦土と化した箱館の情景が目に浮かんだ。当地では榎本軍のおびただしい遺体が散乱し、それを野犬が食いあさり、鳥の群れもそれらを覆っていただろう。村橋もそれを眼にしたのだろう。その悲惨な情景が村橋の目に焼き付き、離れなかったのではないだろうか、と吉村昭の著した「夜明けの雷鳴」と記されている。

 1912(明治45)年4月27日、高松の喜寿を祝う会が催され、男爵の渋沢栄一が祝辞を述べた。その年の7月、明治天皇が崩御。元号が大正と変わり、その後1916(大正5)年10月12日、高松凌雲は家族に見守られながら81歳でこの世を去る。長男は東京帝国大学医学部を卒業して医師となり、父と同じ道を歩んだ。
 
 毎日ラジオ体操に行く北海道神宮は新年を迎える準備が進み、多くの屋台も既に軒を並べている。2016年はどのような年になるのだろうか。不安と新たな期待が交々に去来している。