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北海道開拓の先覚者達(11) ~伊達邦成、田村顕允①~更新日:2013年11月01日

    

 9月末、柔らかな秋の日差しの下、伊達市「総合公園だて歴史の杜」で大勢の市民が集い「あおぞらフリーマーケット」に店を出していた。その中には1870年(明治3年)から9回かけて北海道に集団移住した亘理(わたり)伊達家武士団とその家族2700人の子孫が含まれているのだろうか。大学時代、伊達高校出身の友人がいたが、彼も凛々しい顔をしていたのが思い出される。

 今回は、藩を挙げて北海道に移住し、幾多の困難を乗り越え、今の伊達市を開拓した亘理伊達藩藩主 伊達邦成(くにしげ)公と、家老として移住に身をもって貢献した田村顕允(あきまさ)について取り上げる。
 伊達邦成は伊達藩の支藩岩出山城主の二男として生まれた。19歳の時、亘理伊達藩の養子に迎えられ15代目亘理城主になる。ちなみに、当別村(今は町)の開拓に奮闘した伊達邦直は邦成の実の兄である。
 田村顕允は亘理村に生まれ、家は代々亘理藩の家老を務めていた。邦成の北海道開拓に従って困難な事業に奔走し、多大な功績を残している。第1期道議会議員にもなった人だ。
 伊達・当別両町の開拓こそ北海道農業開拓の先駆であったといえるだろう。今回及び次回は、彼ら移住者たちの開拓がいかに困難なものであったか、それをどう克服していったのかを具体的に見ていきたい。

 さて、NHK大河ドラマ「八重の桜」で放映されたように戊辰戦争の際、仙台藩(伊達藩)は奥羽連盟の主唱者となって官軍に対抗した。伊達藩の支藩「亘理伊達家」藩主伊達邦成は勤皇を唱えたが勢いに抗すること難しく、宗藩(伊達本家)と行動を共にし、官軍と戦わざるを得なかった。
 戦況おもわしくなく、邦成は宗藩をうながし新政府に帰順するよう働き、官軍の軍門に伏した。しかし、戊辰戦争後に明治新政府が下した沙汰は、宗藩を60万石から28万石に、伊達邦成の率いる亘理藩は1万2千石からわずか65石に藩収入を減らせよという厳しいものであった。
 これでは部下はもちろん、邦成一家だけでも食べていけない。さらに、旧地は南部藩に与えられ明け渡しを要求された。家臣は路頭に迷う窮状に追いやられてしまった。
 この時、家老常盤新九朗(後の田村顕允)は、当時新政府が押し進めていた蝦夷地開拓計画で亘理藩丸ごと自費移住し、開拓に従事することを邦成に建議。明治新政府は北辺(ロシアから)の脅威に多大な懸念を抱いており、また蝦夷地を日本の土地として多くの人が住めるように開拓しようとしていた。この点に家老の常盤新九朗は亘理藩の存続をかけたのだ。
「蝦夷地に行って警備と開拓を担うことで、戊辰戦争における朝敵の汚名も晴らすことができる」と藩主伊達邦成を説き、亘理藩の蝦夷地移住が決意された。

 明治政府に対する家老常盤新九朗の懸命な働きかけにより、1869年(明治2年)8月23日、北海道開拓の辞令を得、「胆振国有珠郡支配」を命じられる。ちなみに同年8月15日、蝦夷地は松浦武四郎の提案により北海道と改称された。
 同年9月、常盤新九朗改め田村顕允を開拓執事として北海道に先発させ、伊達邦成自らも続いて支配地に入り実地を視察。有珠紋別の地はうっそうたる原始林や背の高さほどもある雑草に覆われ開拓の困難さをうかがわせたが、土地が肥沃であることからこの地を移住の根拠地に決めた。
「春に見し都の花に勝りけり蝦夷か千島の雪のあけぼの」
 邦成は藩没落の危機に追い込まれ暗い心でいたが、新移住地を決めたことで安堵と共に明かりの差すのを覚えたのだろう。

 帰国後、邦成は家臣一同を集め、視察状況を克明に説明し一同の覚悟を確かめた。家臣全員、邦成自ら現地を検分した大移住計画に賛同し、ここに例のない大武士集団の北海道移住が開始されるのだ。
 移住にあたり孤独に耐えかねて逃亡・脱落する者を出さないとの強い方針で、戸主の単独移住を許さない事が決められた。所帯を持っている家族だけの集団移住であり、覚悟のほどがうかがわれる。
 移住に当たって第1に必要なのはその費用だ。ひなびた藩にその余裕があるわけではなく、邦成は先祖代々の茶器などの什器を売り払ってその費用にあてた。

 1870年(明治3年)3月29日、第1陣の移住民220人と大工・土方30人を載せ、船は出発し4月6日室蘭港に到着した。この日から苦難の開拓の歴史が始まるのだ。
 その後の様子については伊達開拓歴史画「樹海を拓く」の絵画を見ながら紹介したい。
 この画集は、訪れた開拓記念館に残っていた最後の一冊で、幸いにして手に入れることができた。「小野ふかし遺作集」と副題がついており、「絵画」によって先人の苦労を後世に伝えたものだ。
 小野ふかしは第3回移民団の長男として1876年(明治9年)に生まれている。昭和の始めに家業を長男に譲ると、かねてより念願としていた伊達開拓の様子を画として残すべく制作に取り組み、その作品は伊達開拓の歴史書に多く掲載されている。

■「第一回移住者室蘭に到着」:この画には、汽船長鯨丸に乗船した男女250人の第一回移住者が8日をかけて室蘭に到着した様子が描かれている。60センチの雪がいまだ残り、ムシロの上で婦女子は泣いたという。浜辺には桟橋もなく舟をつけられぬため、アイヌ人たちに背負われるなどして上陸した。アイヌ人たちが親切に世話をしている様子が描かれている。この画以外にも、アイヌの人々が移住者に協力する姿や日常生活が画集には多く登場している。移住者はアイヌの人たちの助けを受け開拓を進めたのだ。

■「小屋づくりに取り組む」:最初に取り組んだのが住居の小屋づくりだ。木を切り倒しわら草を集め、男も女も一緒になって粗末な小屋を建てた。女性は作業に邪魔になる長袖を刀で切り裂き男達の手伝いをしている。

■「開拓のはじまり」:4月17日には最初の鍬が打ちおろされた。この日から来る日も来る日も星がまだまたたく朝から、月が空に浮かぶ夕方まで1日16時間以上も働いた。画にはうっそうたる原始林の中、邦成公が馬に乗り家臣たちを励ましている様子が描かれている。

■「鍬を担いだ開拓侍」:明治維新の改革によって領地を失い、新天地を求めて北海道に渡った侍たちは、北辺の守りに任ずるという気概に燃えていた。鎚を担いだ武士を描いた画には「刀を
売り子牛を売り北の地を拓く 兵役と農業は両の腕にはきついがこれもまた楽し 意気は天を衝き侍の魂は活力に満ち溢れている」と書かれている。

■「蕗(フキ)や野草を食べる」:第3次移住には786人が参加し、その中には邦成の家族も含まれていた。乗船する人数が多すぎ、什器や農具さらには食糧も載せることができず、別の帆船で送ることになる。しかし、この船が数十日も遅れて到着。この間喰うに食なく器なく、寝るに布団なく、開拓する農具もない日が続いた。次第に苦しい状況に追い込まれ、ついには野山に自生する蕗(フキ)などを毎日食べて飢えをしのいだ。アイヌ人たちは「仙台人がやってきて開墾するのは良いけれど、フキばかり食うゆえにお尻までフキになる」と歌ったといわれている。

■「漁業の調査」:一族がこの地に入植し始めた数年間、苦難に満ちた毎日が続いた。幾度か食糧の危機に見舞われたが、噴火湾内は魚類の宝庫で移住民の食を支える大きな役割を果たした。有珠には多くのアイヌ漁業者がおり、彼らから漁法を学び、漁船や漁網づくりも進んで大いに漁業の発展を遂げた。この図には、藩主邦成と家老顕允がアイヌの人の漕ぐ小舟に乗って、漁場を視察している様子が描かれている。

次回は伊達開拓が進んでいく様子を書いていきたい。