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北海道開拓の先覚者達(77)~アイヌ民族―2更新日:2016年08月15日

    

「アイヌ民族の人達は、川上のコタンで、自分たちの生活に必要な範囲の資源をつましく狩猟・漁撈(ぎょろう:漁業)し、決してそれ以上を望まず、自然環境を大事にする循環型の生活を営んでいた」。

 今まで、私のアイヌ民族の方々に対するイメージはこのようなものだった。実際、天上・地上のすべてを神として敬い、そのために自然を大切にした生活を営んでいたことは間違いないだろう。今回、旭川市博物館を訪れ、多くの歴史的資料を閲覧し、館長の瀬川先生のお話をお聞きすることで、アイヌ民族の力強さと、交易民としてのたくましい活動力をさらに強く感じることになった。

 アイヌ民族は、北海道のみならず、東北地方北部、カラフト、チシマにもその居住地域を拡張し、オホーツク北部、アムール川河口(黒竜江、かつてのモンゴル、明国、清国)、さらにカムチャッカ半島の東オホーツク海に暮らす先住民と交流していた。広域な北方圏の文化を受け入れるとともに、多様な物品を交易していたのだ。このことを考えると、アイヌ民族の行動力は、鎖国で長い間外国との関係を絶っていた日本人を上回っていたのではないかとさえ思えてくる。

 旭川市博物館陳列資料の中で、思いもしなかった歴史的事実に驚かされた。「アイヌとモンゴルの戦い」というパネルに出合ったときだ。モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハンは、現在の中国からヨーロッパの東部までその支配領域を拡大し、世界の覇者として君臨していた。5代目のクビライ時代(1260~1294)には、日本建国以来の国難といわれる蒙古襲来(元寇)があった。クビライ皇帝時代の1264年と1285年、元は2度にわたってアイヌ民族を排除するため、1万人の兵士と1000艘からなる船団をサハリンに投入したと記録されている。我々がイメージする温厚なアイヌの人々を、なぜこのような大軍で元(蒙古)は攻めてきたのだろうか。

 パネルによると、1264年、元の国に支配され服従していたサハリン(樺太)のニブフ(サハリンの原住民:ギリヤーク人)が「アイヌ民族が毎年この地にやってきて境界を侵す」と元の国に訴えた。隷属(れいぞく)していたニブフを支援すべく、元は軍隊を派遣しこれを攻撃した(元史巻2)。

  1265年、アイヌの人がニブフを殺害する。
  1285年、元軍が1万人の兵でアイヌを攻撃する(元史巻13)
  1286年、元軍1万人と千艘の船でアイヌ民族を攻撃

 その後、アイヌ民族は毛皮などを納めることを条件に、元に降伏。40年以上続いた戦いは収束したと、説明されている。

 当時、元は世界最強の国であり、元寇の時、もし台風(神風)が吹き荒れなかったら、日本が敗北し攻め取られていたかもしれない。これほどの強国と、アイヌ民族はなぜこのような戦いをしたのだろうか。アイヌは9世紀後半には北海道全域、10世紀にサハリン南部、11世紀にクナシリや択捉に進出。活動の範囲を急速に広げていった。13世紀には大陸にも出かけ、交易の範囲を拡大していったが、この時期大陸を制圧していたのが元(モンゴル)である。

 アイヌ民族の活動領域の拡大には、交易品として本州で珍重されたタカやワシを狩る目的があったと思われる。元軍が大軍を動かしたのも、支配下のニブフを捕虜にし、タカを奪い取るアイヌ(樺太アイヌ)民族の行為を座視できなくなったからだと考えられる。

「至高の宝・ワシ羽」と銘打った展示物を次に閲覧した。見事なワシの尾羽14枚が、半円状に飾られている。パネルには、「聖徳太子の事績を絵解きした“聖徳太子絵伝”に、太子に退治された蝦夷(アイヌ人)が登場する。彼ら(蝦夷人)は、日本で矢羽として珍重されたワシの羽と、高級品であったアザラシなど海獣の毛皮をまとった人々として描かれている。古代・中世アイヌの本州中央への主な移出品はワシの羽と海獣類であり、中でもワシの羽が重要な産物となっていたようだ」と、説明文が添えられている。

 10世紀になると、本州ではオオワシの尾羽が珍重されるようになり、伊勢神宮の式年遷宮(20年ごとに本殿を新たに造営)でも、オオワシ尾羽の矢は欠かせない宝になっていたそうだ。これらオオワシ尾羽は北海道からもたらされたもので、その交易に携わっていたのは擦文人(さつもんじん:本州で奈良・平安時代に北海道を中心に活動するアイヌ人)と考えられる。

 オオワシは産卵場に遡上するサケを捉えようとするので、そこで待ち伏せして狩猟したのだろう。本州との貴重な交易品である尾羽を、食料、鉄器、宝飾品と交換するため、命懸けでオオワシを捕まえたのだ。

 北海道でワシ尾羽資源が減少するに伴い、サハリンまで進出して捕獲したのではないだろうか。そこで原住民のニブフとの軋轢が生じ、彼らの訴えにより宗主国の元がアイヌ討伐に大軍を派遣したと考えられる。その後、本州で武士が勢力を増すようになり、オオワシの尾羽に加え、鷹狩りに用いる生きた鷹やワシも交易品として登場してくる。

 アイヌ民族は、水耕農業で米作が始まった弥生時代の文化を受け入れず、この時代を続縄文文化として狩猟・採集を中心とする生活を続けていた。これは、北海道の地が米作に適していないという側面もあるが、半面ではこの地に本州で珍重される多くの産物があったからだということができる。この時代の遺跡からは、弥生文化の鉄器・宝飾品など、当時としては高価な品が多く見つかっている。アイヌ民族はこれらの品を入手すべく、北海道を中心にサハリン、チシマ、時には大陸までその行動範囲を広げ、交易の対価を求めていった。その対価として本州の弥生人と交易していたのが、ワシの尾羽に加え、ヒグマやアザラシ、ラッコの毛皮などだ。特に、北海道に住むヒグマの毛皮は、権力を示すものとして王侯貴族に珍重され、高価なものとして交易されていた。

「北海道の続縄文人(アイヌ民族)は、寒冷な北海道で二流の農耕民になる道ではなく、弥生文化の宝を手に入れるため、毛皮生産としての狩猟に特化していく道を選択したと考える」(「アイヌと縄文」瀬川拓郎・著)。すなわちアイヌは、古代の縄文文化から進化しなかった「未開」の民族では決してなく、本州の弥生人との交易を主業とする商業的狩猟民といえるであろう。

 2014年2月1日付けの本ブログで、間宮林蔵を取り上げた。その中で、彼が間宮海峡を発見した後大陸に渡り、1709年にデレン(黒竜江の河口を溯った場所、現在はロシア領となっているがこの地は地図上から消えている)に赴いた話を書いた。その当時、デレンでは清国の役人が出張して「交易所」を管理しており、山丹人が朝貢する黒テンなどの毛皮に対し、絹織物(古着)などが清国人から報酬として山丹人に与えられていた。また細かく刺繍の入った絹織物は「蝦夷錦」として日本で珍重されていた。これを入手すべく、北海道のアイヌの人々は黒テンを狩猟し、それをカラフト・アイヌ、山丹人を通じて清国役人に供出していたのである。清国人、山丹人、カラフト・アイヌ、北海道アイヌ(道央、道東、道南の各アイヌ民族)を通じ、本州へと交易ルートが出来上がっていたのだ。

 13世紀から17世紀にかけ、大陸ではモンゴル、明国、清国と統治者は変わっていき、日本では鎌倉時代から江戸時代へと変遷していく。しかし、この間アイヌ民族はほぼ一貫して大陸との交易を続けていた。歴史に詳細を留めることなく、「北のシルクロード」が、300年前~900年前に存在していたかと思うと、いささかのロマンを感じざるを得ない。

 鎖国時代をも含んだ時代の日本で、このような交易ルートが出来上がっていたということは、いかにアイヌ民族が商業的狩猟民としてたくましく生活していたのかが窺われる。しかし、このルートも松前藩の利益至上主義による専横で、アイヌの方々に多くの犠牲をもたらした。次号以下でこのあたりをお伝えしたい。

 札幌も夏本番、最高気温も30度を超える日々が続いている。