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北海道開拓の先覚者達(76)~アイヌ民族―1更新日:2016年08月01日

    

 旭川市を中心とする上川地方の文化の殿堂が、忠別川沿いの「クリスタルパーク」内にある大雪クリスタルホール。前庭の大きなモニュメントが、初夏の日差しで輝いている。開拓のために流した先人の汗と涙をデフォルメしたという。同ホールは多目的施設で、音楽堂や国際会議場とともに、旭川市博物館も常設されている。同博物館は1階と地下の二層構造で、広いスペース内に貴重なアイヌ民族の暮らしや歴史をあらわす資料が陳列されている。

 旭川博物館の現館長・瀬川拓郎氏は考古学・アイヌ史の専門家で、この分野では第一人者として評価されている。本年(2016年)2月には「アイヌと縄文」をちくま書房から上梓。私も購入し数度読み返した。

 同書には旧石器文化(3万5000年前)、縄文文化(1万5000年前で気候温暖化の時代)、続縄文文化(3000年前:本州では水稲耕作の弥生文化)、オホーツク文化(サハリンから南下してきた人々が北海道東部・北部に進出してきた時代)、擦文(さつもん)文化(本州の奈良・平安時代のアイヌ文化)、ニブタニ文化(本州の鎌倉時代の鎌倉文化)から松前藩の成立、さらに現在に至るまでのアイヌ民族の生き方と苦悩を詳しく記述している。先日、旭川博物館を訪れた際に瀬川氏とお会いすることができ、ご多忙の中、館内をご案内していただいた。

 館内で最初に目を惹いたのが「アイヌ文化の精華‐知里(ちり)幸恵と“アイ神謡集”」のパネルだ。知里幸恵は1903(明治36)年登別生まれ。キリスト教伝道師で伯母、そして育ての親である神成マツのもとで育った。ユーカラの吟踊者だった祖母のモナシノウクから口承文芸(ユーカラ)を受け継ぐ。金田一京助博士にその才能を見出され「アイヌ神謡集」を記録するが、刊行する前年にわずか19歳でこの世を去った。

「アイヌ神謡集」には、「原始林の中に溢れる生命。森にも川にも数えきれない命が溢れ、冬には極寒になる北の大地で、2万年以上もの長い時をかけて築かれたアイヌの文化には、様々な知恵がありました。ヤウンモシリ(北海道)の主であるアイヌたちは、自然界をカムイ(神)として尊び、祈り、歌い、踊り、命を輝かせ、賑やかで、笑い、泣き、怒り、喜び、まことに豊かな暮らしを送ってきました」と、アイヌの人たちの暮らしが、美しい表現で書かれている。

 かつては天真爛漫な稚児のように美しい大自然に抱擁されて生活していた彼らだったが、時代の流れの中で自然環境を破壊され、生活の糧を奪われ、文化も押し付けられたものを受けざるを得ない状況に追いやられた。しかし、知里幸恵は「太古ながらの自然の姿もいつの間にか影薄れ、野辺に山辺に嬉々として暮らしていた多くの民の行方もまた何処(いずこ)。時は絶えず流れる。世は限りなく進展してゆく。激しい競争原理に敗残の醜をさらしている今の私たちの中から、何時かは二人・三人でも強い者が出てきたら、進みゆく世と歩を並べる日もやがて来ましょう。それは本当に私たちの切なる望み、明け暮れに祈っていることで御座います」と、希望を捨てずその日の来るのを祈っていたという。
 
 一方、アイヌ民族の方々の人柄について、松浦武四郎は150年前に次のように絶賛している。
「心情の素直で淳朴なことは例えようがない。世の方々にアイヌ民族の美しい心を知っていただきたい」(新日高町、シャクシャインの像近くに建てられている碑)。

 アイヌの人々に導かれ、蝦夷地内部まで調査した松浦武四郎が残した150冊超もの調査記録には、随所にアイヌ民族が大地で育んだ生活の知恵と文化が記され、残された地図には9800ものアイヌ語地名が収められている。アイヌ民族はまさに北海道の先住民族であるとともに、現在の北海道の礎を担った先駆者といえるだろう。

 1869(明治2)年、蝦夷地を改称するにあたって松浦武四郎は「北加伊道」と選定した。これは、「ここはアイヌ民族が暮らす大地」という思いを込めたものである。今から2年後の2018年、北海道と改称されてから150年目を迎えるにあたり、道民として、アイヌの方々の歴史・生活・文化、そしていかに苦しめられてきたかを学ぶ必要があるだろう。

 先日(2016年7月20日)の北海道新聞に「アイヌ民族遺骨12体 85年ぶり故郷の大地に」と題した記事が掲載されていた。「北海道大学が研究目的で墓から持ち去ったアイヌ民族のお骨が、日高管内浦河町のアイヌ民族に返還された。」という内容だ。

 アイヌ民族にとって、人は亡くなると再び生まれた大地に戻すというのが埋葬儀式であり、遺体が85年ぶりに故郷に戻されたというのは誠に遅きに失したことである。さらに、札幌地裁の和解勧告でようやく実現したというのも、アイヌ民族の方々に対して極めて失礼なことだろう。全国の大学には今なお1200体の遺骨が保管されているという。

 天上の神の国(カムイモシリ)、太陽の神(トカッチュプカムイ)、集落の神シマフクロウ(コタンコロカムイ)、魚を司る神(チャップコロカムイ)、鹿を司る神(ユッコロカムイ)、魂を司る神(ラマッカラカムイ)など、アイヌ民族は天上・地上のすべてのものを神として敬っていると聞く。信仰心の篤いアイヌの方々にとって、先人のお墓からお骨を持っていかれたことは、痛恨極まる思いであったことだろう。

 旭川市博物館には、全国的に見ても縄文時代(3千年より以前)最大の共同墓地といわれる千歳キウス環状土籬(どり)の模型が置かれている。キウス土籬からは、村おさ(酋長)を中心地に弔い、その周りに階層に応じて遺体が葬られており、また様々な儀礼の痕跡も見られる。これらから、当時の複雑な社会の有様がうかがわれるとのことだ。

 死者を土憤墓に葬る習慣は、土器が使われ始めた頃から認められ、3000年前から石を環状に配したストーンサークルが造られていたという。研究者にとって、土器や石器などの副葬品からも、当時の人々の精神的豊かさが思い浮かばれるとのことである。

 なお、ストーンサークルはイギリスの巨石を使ったものが有名だが、日本では東北から北海道にかけて縄文時代中期から後期にかけて造られたといわれ、特に北海道では渡島半島を中心に道北を除く各地で発見されている。

 古代にストーンサークルを造るほどの文化度を持ち、環境対応性が優れ、オホーツク海から東北地方まで交易の地域を広げ、優しい人柄であるアイヌ民族が、松前藩の成立による場所請負制度と明治以降の「旧土人法」で、塗炭の苦しみを長きにわたって受けなければならなかった。どのような歴史があったのだろうか。次回以降では、瀬川氏の著書「アイヌと縄文」を中心に縄文文化以降のアイヌ民族の生活について書いていきたい。

 毎朝ラジオ体操に通う道すがら、円山公園の周所々にエゾオオウバユリが見られる。派手さはないが、可憐な野の花である。アイヌの方々の食を支えていたのが、春から秋に捕らえるシカ、秋には遡上するサケ、そして初夏に採集するエゾオオウバユリから採るデンプンだった。エゾオオウバユリは初夏に薄黄色の花を咲かせるが、花の咲く茎の下に、つややかな葉が開いている。これを雌のトウレプと呼び、その下の球根を掘りだす。これは鱗茎(りんけい)と呼ばれ、ユリの根のようなものだろう。6月から7月にかけて鱗茎を採取し、つぶしし、おろすとデンプンが出来上がり、シト(だんご)にしたり、サヨ(おかゆ)に入れて食べるそうだ。(旭川博物館資料より)

 アイヌの人たちは家の周りで畑を耕し、アワやヒエなどの穀類を栽培するとともに、山野でギョウジャニンニク(プクサ)、ニリンソウ(プクサキナ)、フキ(コルコニ)などの山菜を採集し、茹でたり乾燥させ保存し、厳しい冬に備えていた。

 北海道神宮では、7月26日から250人を超える小学生も加わり、総勢800人が境内一杯にラジオ体操を繰り広げている。首にかけたカードに判を押してもらい、記念品をもらう子どもたちの笑顔を見ると、心が和らいでくる。