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北海道開拓の先覚者達(72)~屯田兵制度(琴似屯田兵村―2)~更新日:2016年06月01日

    

 140年前の建築時そのままの姿で、屯田兵屋(へいおく)が琴似駅前のビル街に遺されている。この建物は1874(明治7)年11月28日に建設されたものの遺構で、1964(昭和39)年に建設当時の資料にもとづいて復元された。開拓使時代の屯田兵屋の形態を伝える貴重な建築物であり、北海道教育委員会の文化財として遺構に指定されている。

 兵屋は5間に3間半の純木造で柾葺(まさぶき)屋根。内部は8畳と4畳半の部屋、および台所と土間からなっている。内部を見学すると、居間の正面に明治天皇の写真と並んで一幅の書が飾られていた。

明治初期今思起古来未踏此荒野
北方守備開拓使道無林野屯田兵
艱難辛苦目的果大札幌濫觴長伝

 私なりに訳すると、「今思い起こすに、明治の初期、この地は古来より未踏の荒野だった。屯田兵は北方の守りと開拓を任務として、道なき林野に取り組み、艱難辛苦(かんなんしんく)を重ね、見事その目的を果たした。今大きく発展した札幌の濫觴(らんしょう)を後の世まで永く伝えたい」という内容だろうか。なお濫觴は孔子の言葉「大河もその源は觴(さかずき)を濫(浮かべ)るほどの小さな流れである」から、起源を意味するそうだ。

「屯田兵屋遺構」のそばに「屯田兵の一日」を現した説明版が掲げられている。「(1)朝、起床ラッパと共に起きます。(2)朝6時、お父さんは軍事訓練に、お母さんは農作業。(3)お父さんは昼休みを除いて厳しい訓練です。(4)お母さんは農作業を一日中続けます。(5)訓練を終えてお父さんが畑仕事の手伝いに行きます。(6)畑をつくるのに邪魔な木を伐採します。これはかなり危険な仕事です。木が倒れる時に下手に遠くに逃げると危険です。なるべく木のそばにいた方が安全です。(7)熊がたまに農家を襲いました。その時は家族全員で立ち向かいました。(8)上官が1週間に1回、屯田兵の家や暮らしぶりを検査に来ました。一番緊張する時です。(9)夕方6時のラッパで家に帰ります。(10)夕方です。一日で一番楽しい時です。辛い仕事を終えて思い出すのが故郷です。冬がもうすぐそこまでやってきています。」と、図とともに説明されており、当時の屯田兵の生活が垣間見られる。

 琴似屯田百年を記念し、1974(昭和49)年に「百年史」が刊行されている。そこには移住屯田兵の子や孫の方々が、当時の生活を思い起こして語った生々しい記録が綴られている。

 屯田兵の孫、山田信子さん(山田貞介の妻)は「屯田兵村の生活」と題し、戊辰戦争で敗れた会津から移封地の斗南(となみ:下北半島)に追われ、その悲惨な生活から琴似屯田村に再度移った様子を次のように書いている。

「福田せい(山田信子さんの祖母)はその時11歳、弟善八の手を引いて越後の塩川から舟に乗った。津軽海峡を回って青森の下北、三万石の移封地(斗南藩)へ行くのである。男はわらじ、女はわら草履で、会津から塩川まで歩いた。青森の生活は厳しい自然の不毛の地で、水も出ない。1年余の惨憺たる苦労の果てに、やっと得たのはわずかな芋であったという。せいの願いは“白いおまんまが食べたい”というから、斗南の生活がこの人達を琴似の開拓に定着させたといえるのではないだろうか。」

 やっとの思いで不毛の地・斗南から琴似に着いた屯田兵村の女性たちは「朝早くから夜までよく働いた。薄暗いランプの下で縫い物をし、日々、あかぎれでささくれた指は寸暇を惜しんで動いていた」と、祖母との思い出を述べている。祖母は機織りの名人で、近くの桑畑のかいこを育て絹を織り、今の琴似神社の場所が藍(あい)畑で、その藍で染めた祖母手製の絹織物は最高品だったそうだ。

 しかし、屯田の人々は質素で、夜具もゴワゴワの手織り木綿で、祖父も木綿の衣服を身に着けていた。祖母は「発寒川に足を入れると向う脛(むこうずね)に鮭の頭がごつごつ当たって痛かったものだ」と語っており、野生の果物や川魚など、春から秋を通じ自然の恵みは豊かだったようだ。

 琴似に入った屯田兵の多くは元の会津藩や仙台藩の士族で、とくに会津藩から斗南や余市を経て琴似屯田村に移住した人たちは52戸になる。その中で、斗南から琴似に入営した屯田兵の三女・百瀬スエさんが、元会津藩士だった父から聞かされた話を「屯田兵村百年史」に紹介している。

「父は戊辰の役に敗れ南部(斗南)に移り数年おりました。そこで琴似屯田兵を志願して有志の方々と北海道に参りました。船で小樽に上陸し、乗り物もなく、山の麓伝いに細い草道を歩いてようやく琴似に着きました。大森林の中に二百戸の屯田兵屋が建っていました。家に入ると、食料・鍋釜・夜具などがきちんと揃えてあり、先輩の方が作った夕食も用意してありました。それからは毎日訓練と開墾の日課が続きました。朝早く起床ラッパで起き、厳しい軍隊訓練、終わって朝食をいただき、一同そろって森林の開墾に従事しました。笹を刈る人、木を切る人、耕す人、皆が分担して慣れない仕事をよくしました。このような皆の努力が実って、大森林は次第に明るい新天地にかわっていったのです。」と、入営時の様子を記している。

 北国とはいえ、東北から移住した方々にとって、北海道の冬の厳しさは想像を絶するものであったろう。屯田兵の長男竹内茂さんは「百年史」で次のように記している。

「冬の寒気は厳しく、酒は勿論、醤油・石油も凍結し、夜間にランプの油が凍り灯りが消えたことも。暖房はストーブもなく、日中は大きな炉に薪を燃やし、外での仕事に従事している者は、各自藁(わら)で「ツマゴ」という履物を作り、家族の者は藁で作った深靴を履いていた。小学校の生徒もこの深靴で、遠隔の人は2里も歩いて通学していた。吹雪などひどい時は親が馬橇(ばそり)で迎えに来た。夜は各家庭とも「こたつ」に入り、夜具を敷き、足を温めて寝ましたが、掛け布団の衿(えり)が吐く息で真っ白になった例は少なくありませんでした。薪を燃やしているので、家中煙におおわれ、家具や柱は真っ黒になり、漆喰(しっくい)のように光っていた」そうだ。

 この様な屯田兵村で子どもたちはどのように生活していたのだろうか。屯田兵の次女だった伊藤サトさんは「昔の子どもの生活」をこのように記している。

「春には発寒あたりで蕨(わらび)採り、東八軒で芹(せり)摘み。桑の実がなると男も女も木に登って口元を赤くして食べたものです。だから木登りは上手でした。家では春にブドウの芽を摘み塩漬けにして食べました。夏には野イチゴを採りに行くのが楽しみでした。二十四軒にきれいな湧水があって、やつめうなぎやカジカが沢山いて、男の子も女の子も魚すくいに行くのが何よりの楽しみでした。秋には茸(きのこ)採りがありました。遊びといえば、男の子は竹馬を自分で作って乗っていました。女の子はマリつき、お手玉などでした。」と、大自然の中で元気に飛び回っている子どもたちの姿が思い浮かぶようだ。

 ほかに、兵隊ごっこ、春のフクジュソウ掘り、冬の雪ダルマづくり、雪合戦、そり滑りなどがあり、元気な子どもたちの声が聞こえてきそうである。

 ただ、学齢期の子らを放置するのは将来のためにならないと、寺子屋式の教育施設を兵村内に設け始めた。学齢期の子どもたちは出身地別に、会津系、仙台系などそれぞれ平屋で読書、手習い、算盤の稽古をするようになった。

 その後、中隊本部近くに木造2階建てで、当時北海道一の規模となる校舎が完成した。今の琴似小学校で、札幌第一学校に続いて道内で2番目にできた学校として記録されている。昨日5月28日(土)には、開校139年の大運動会が開催され、生徒たちの元気な声が響き渡った。

 円山公園の池にも渡り鳥が数羽訪れているが、その中に2羽のオシドリが仲良く一緒に池に浮かんでいる。ところが、2羽とも美しい羽根で飾ったオスのようだ。鳥の世界にもLGBTが押し寄せているのだろうか?