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北海道開拓の先覚者達(31)~井上長秋(よしたけ)~更新日:2014年09月15日

    

「わたしたちは、時計台の鐘がなる札幌の市民です」
 札幌市内では、地下鉄駅などの各所でこの札幌市民憲章を見ることができる。1963(昭和38)年11月3日、札幌をより豊かで明るく住みよいまちにすることを念願し、市民の総意で制定されたとのことだ。
 札幌時計台は1878(明治11)年、札幌農学校の敷地内に建てられた。それから140年近く経って、今は大都会となった札幌市の中心にあり、周りのビルの谷間で窮屈そうにしている。高知市のはりまや橋に次いで「日本3大がっかり名所」の第2位に選ばれている(因みに3位は長崎のオランダ橋)。
 札幌時計台の正式名称は「札幌農学校演武場」。入り口正面と2階の講堂正面に「演武場」という額が掲げられている。この立派な書は当時右大臣だった岩倉具視の直筆だ。岩倉はこの書のために、筆・硯・紙をすべて本場の清国から取り寄せた。
 明治の元勲・岩倉は一般にはあまり北海道と縁がなかったと言われている。しかし、調べていくと北海道開拓に岩倉の意向が大きく反映された形跡が見られる。68(明治元)年10月、岩倉は朝議にかける18カ条の中で蝦夷地に国名をつけること、およびその開拓の方策に関する考え方を記している。その骨格は「農業と漁業を奨励すべき」「天然資源を収穫するだけではなく器械化による物産の拡大を狙う」「内地からの移民は旧幕府の東北諸藩藩士・流罪に当たる者を入れ、おいおい良民も移るように説得」「骨を蝦夷地に埋める覚悟の人物を2、3人派遣し彼らに全権を与える」「常備兵を置く」「これらの施策により海外に皇威を示す」というものである。
 さらに、4カ月後の69(明治2)年2月28日に第2意見書を出す。その概要は「外交面ではロシアの進出を食い止め海外に力を誇る」こと、および開拓の順序として「布令・専任者の選別と派遣・有志者の扶助と土民の教諭・府か県を置き知事を任命する」ことなどであった。
 岩倉の蝦夷地開発に関する考え方の背景には、2つの建言(意見書)があったといわれている。1つ目は、前回掲載した清水谷公孝が高野保健とともに提出した建議である。この建議は岡本監輔と山東一郎の画策で実現したもので「維新の騒乱に乗じてロシアや東北諸藩の藩士が蝦夷地に進出する恐れがあり、今こそ北方を強化すべきである」との趣旨である(詳しくは前号参照)。
 この建議は岩倉が以前から抱いていた対外問題構想と一致しており、さらに開拓路線の基本方針が含まれている。これが68(明治元)年3月12日に出されると岩倉から明治天皇に上奏。翌月には箱館裁判所の設置が決まる。
 この時、岩倉は側近の井上石見(長秋:よしたけ)に意見を求めた。これが第2の建言で、井上は「箱館裁判所の設置には反対しないが、奥蝦夷地は箱館から遠く離れており、いずれ別の組織が必要になる。蝦夷地を開拓するには内地の民を移さなければならない。それにより内地が荒廃しないように配慮すべきで、蝦夷地では蒸気機関を製造・活用して生産性を高めることこそ必要である」と具申している。井上の見通し通り、箱館裁判所がその後、時を経ずして箱館府となり、さらに箱館戦争終了とともに開拓使に組織を変えている。また、その後の北海道開拓が機械式農業を基盤に推進されていったのも井上の先見の明であるといえよう。

 前書きが長くなったが、今回の主人公、井上長秋(通称は石見)について記述を進めていきたい。
「北の先覚」の著者、高倉新一郎は「井上は、36祭神(依田勉三が加わる前)の中で一番知られていないと思う」といみじくも書いている。彼は箱館裁判所の判事として清水谷を支えたが、38歳の若さで不慮の死を遂げた人物だからだ。

 井上は31(天保2)年、鹿児島藩島津家の先祖を祀る諏訪神社神職の子として生まれる。その体格や顔つきは人並みはずれて大きく、物事に対する心構えもしっかりしており、思慮深く、学識豊かな人物だった。成人すると尊王憂国の志を抱き、維新に活躍した志士たちと行動をともにした。
 62(文久2)年、井上は主君の島津久光が京都へ上洛する際に帯同し、国事掛に任ぜられる。京都では蟄居中の岩倉を訪ね、薩摩の中心人物、大久保利通との連携を説得し成功させた。まさに維新の基礎工事を成し遂げた人物だ。
 鳥羽伏見の戦いに端を発する王政復古で、当初圧倒的な勢力であった幕府軍を薩長軍が打ち負かしたのも、幕府側を賊軍とし薩長軍に錦の御旗を掲げさせのも岩倉によるものだ。
 岩倉はいかにも貧相な小男だが、公家に似合わないふてぶてしい面構え、刺すような眼光で、国家改革案を語り出すと止まらない。理路整然、しかも実行計画のための具体策は精密そのものである(永井路子著「岩倉具視」)。井上は、この岩倉と薩摩藩との連絡役を任された人物でもある。

 王政復古の大号令で68(明治元)年1月、井上は新政府の内国事務局権判事の役職を担う。当時薩摩藩から新政府に登用されたのは、小松帯刀(たてわき)、西郷隆盛、大久保利通ら9人で、その中に井上も加わっていた。いかに藩主や岩倉ら新政府首脳陣から厚い信頼を受けていたかが容易に想像できる。
 同年2月、清水谷が岡本監輔らの説を用いて蝦夷地鎮撫を建議すると、井上は岡本に会ってその説を聞き、北方の経営に加わる決心をした。同年3月には「蝦夷地開拓建言書」を奏上。その中で「器械を製造して労力に余剰を生み出さなければならない」と指摘している。また、その具体策として風車の活用を建議した(北海道の誇る再生可能エネルギー資産、風力の活用をこの時代から提言していたのだ)。
 井上は自らも清水谷ともに蝦夷地に行くことを岩倉に要請し、同年4月12日、箱館裁判所が設置されると同所勤務で参与内国事務判事に任命される。この年、井上38歳。26歳の若き総裁・清水谷を補佐する役として、その責任は重かった。
 井上がまず必要性を強く感じたのが蝦夷各地を渡航・物資輸送するための船である。続豊治の建造した函館丸を入手すべく、資金手当てに奔走した。血のにじむような努力で英公使から2万ドルを借り受け、その半分で石炭を掘り、経費の捻出に当てるような努力も重ねた。
 井上は欧米の農業技術を採用しようとし、プロイセン(ドイツ)人のガルトネルを箱館府雇いとした。同年7月ごろには七重(現渡島館内七飯町)で1万坪の土地を用意し、洋式農業が開始された。その後の北海道農業に与えた影響は大きかったといえるだろう。
 しかしながら、井上が不慮の死を遂げた後は「ガルトネル事件」として開拓使に重荷を背負わせることにもなる。

 少々脱線するが、ガルトネル事件について解説する。
 井上の死後、榎本武揚率いる幕府脱走軍が箱館を占拠、箱館府知事の清水谷公考一行は青森に逃亡する。ガルトネルは榎本総督の蝦夷島政府と交渉し、七重で300万坪を引き続き開墾する旨の許可を受ける。時代の変遷は猛烈なスピードで押し寄せ、1年も経たないうちに新政府軍が榎本軍を排撃し蝦夷地管轄の采配は再び箱館府に戻る。清水谷は、ガルトネルと七重300万坪の開墾契約に同意し署名捺印する。公家出身の若き知事を篭絡するのはガルトネルにとって容易いことだったのだろう。この約定には契約期限が示されておらず、また境界もあいまいで周辺住民とのいさかいが絶えない状況となった。
 また、新政府は蝦夷地が植民地化される恐れを抱き、この契約を破棄するよう開拓使に命じた。結局、東久世開拓使長官が6万2500ドルという多額の賠償金を支払うことで和解する。
 さて、井上は68(明治元)年8月8日、幾多の努力の末に買い入れた箱館丸に乗って根室に行き、その帰路、釧路を出港したがそれ以降行方不明になる。箱館裁判所内国事務判事に任じられてから4カ月足らず。井上は思いを遂げることなくこの世を去らねばならなかった。存命していたならば、北海道開拓の歴史も変わっていたかもしれない。
 岩倉は井上が箱館裁判所に任官した直後、その労をねぎらい「裁判所(今は箱館府か)も速やかに設置され、業務が順調に開始されたこと全くご努力によるところ、遥かに感銘の至り承(うけたまわ)り候」と手紙を送っている。しかし井上がこれを読むことはなかった。

 本ブログが掲載される5日後(日本時間9月19日)にスコットランドが英国から独立するかどうかの住民投票が行われる。スコットランドは人口526万人(北海道は550万人)、面積7万9000平方キロメートル(北海道は8万3000平方キロメートル)と、似通った地域だ。同じ北に位置していることからその結果にも興味津々である。
 スコットランドは北海油田や農業生産の経済力を背景に、独立を通じて物事を自分たちで決めようとしている。北海道も自然エネルギー(風)、森林資源(林)、水資源(水)、水産・農業資源(菜)を一層強化することで、親方日の丸から脱却し自分たちで決める体制に持っていきたいものだ。