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北海道開拓の先覚者達(28)~続 豊治~更新日:2014年07月15日

    

 函館市大町西埠頭には、2本のマストを持った堂々たる帆船が展示されている。実に157年前の1857(安政4)年、つまり明治に時代が変わる11年前に建造された「箱館丸」の復元された姿である。「箱館丸」は日本人によって独自に設計・製造された最初の「スクーナー」(2本以上のマストがある様式帆船)だった。
この船は1988(昭和63)年、青函トンネル開通記念博覧会に展示する目的で、建造当時の姿そのままに復元されている。広げると9枚の帆を張ることができ、その勇姿は今でも感動的である。西埠頭の近くには「函館どっく」が日本屈指の造船地・函館の名を今も引き継いでいる。さて、箱館丸はどのようにして建造されたのだろうか。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)・・・」。1853年、浦賀沖に黒船が現れると日本中が大騒ぎになった。翌54年3月31日に日米和親条約が締結されて下田と箱館が開港。262年続いた日本の鎖国に終止符が打たれた。
5月17日にはさっそくマシュー・ペリー率いる米国艦隊の帆船が2隻、続いて3隻の蒸気船が箱館湊へ入港、測量などをおこなった。箱館の町中はその脅威に恐れをなし、町民は皆家に引きこもり、役人は度肝を抜かれて声も出なかったそうである。同年6月には箱館奉行所が開設され、蝦夷地における米国との交易準備があたふたと始められる。
 さてその喧騒の中で1人、体の中から燃え上がってくる熱い思いを抑えかねている人物がいた。彼こそ今回の主人公で、箱館丸を設計・建造した続豊治(つづき・とよじ)である。

 続は1798(寛政10)年、船大工の子として松前城下に生まれる。2歳で父親を亡くし叔父の続五郎冶の養子となり、船大工の腕を磨く。
気づかれた読者もおられると思うが、続が生まれた年は、幕府の蝦夷地巡検隊が調査に赴いた年で、最上徳内が足軽として加わり、高田屋嘉兵衛が彼らを東蝦夷地に送り届けた年である。この年に続が生まれている。どこか歴史の巡り会わせを感じないわけにはいかない。
 嘉兵衛は1827年に亡くなり、高田屋は弟の金兵衛に引き継がれていた。金兵衛は続の才能と熱心な仕事ぶりを高く評価し彼を重用する。30(天保元)年には金兵衛から特別に指名され江戸、京都、大阪、日光への旅に同行する。この歴訪で美術・工芸を見学する機会が与えられた。続の喜びはひとしおで、この旅で金兵衛への忠節が一層高まり、彼の才能も啓発され磨かれていった。
 歴訪の翌年、金兵衛が亡くなり、高田屋は没落の一途をたどる。以前に書いたが、高田屋はロシア艦隊艦長ゴローニンを松前藩の幽閉から救い出し、その功でロシア側から最優遇措置を受けていた。双方の船が洋上で出会った際には手旗信号で合図を取り交わし、友好関係を確認していたのだ。これが松前藩から密貿易をしているとの嫌疑をかけられ、高田屋は取り潰しになったのである。
 続は大いに落胆し、さらに大恩のある高田屋に殉ずる気持ちで、船大工とは縁を切り仏壇屋に転向した。髪を切り、失意の中で日々をすごす毎日が続く。20年という年月が経ち、続はすでに56歳になっていた。

 1854年の箱館開港は、そんな続にとっては運命の巡り合わせとも呼べるできごとだった。続はかねてから西洋型船をこの目で見たいと思っていたわけだが、その夢は長いこと眠っていた。それが目の前に現れているのだ。
「この機を逃さず西洋船の見取り図を描く。捕まったときは見取り図を船底に隠しておくから頼む」――続は親友で造船業を営んでいる辻松之丞にこれから自分がしようとすることを打ち明け、万が一の時に見取り図を取り出すことを依頼した。
ペリー一行が下船している夕刻、続は磯船に1人で乗り込み、アメリカ船バンタリア号の周囲をまわって図の作成を急いだ。闇夜になり、細部を調べようとしてアメリカ船に近づきすぎて船員に見つかり、警鐘が乱打されボートに取り囲まれ番所に突き出された。
 取り調べの場に引き出されたとき、続はもはやこれまでと死を覚悟した。函館奉行の堀利煕(としひろ)によって取り調べられたが、なんと堀奉行の言葉は「豊治か、お前大それたことをしてくれたな。それだけ箱館のため日本のため、責任を取らなければならないぞ。仏壇師の足を洗って船大工に戻れ。アメリカ船の見取り図をもとに、名人船大工としての仕事を残すのだ」というものだった。奉行の言葉に続は耳を疑うとともに、感極まって胸が熱くなった。
 その翌月、堀奉行から「異国船応援方従僕」という役が与えられ、この肩書きによって入港する西洋帆船の船体構造を堂々と観察することができた。
造船にかけては天才的なひらめきのある続だ。彼の頭にはその設計が組み立てられていた。手始めに和洋折衷の運搬船をつくると、従来とは比べ物にならない性能で奉行を喜ばせ、続はさらに「船工頭取」の役職が与えられた。いよいよ西洋型船の建造である。

 そして1857年、2本マストの美しい船体を持つ「箱館丸」がついに箱館港に浮かんだ。
 堀奉行が「箱館丸」で江戸に戻る際、続も同行した。途中で暴風雨に逢いながらも船体にはまったく損傷がなく、当時としては想像もつかない17日という短い日数で品川に到着した。洋風のスマートな船体が滑るように走って品川に着いたとき人々は目を見張ったが、これが蝦夷地でしかも日本人がつくったと聞いてさらに驚き、江戸中の話題になったという。
 1858年、続は堀奉行の計らいもあり「幕府船工棟梁」という船大工として最高の地位を得るに至った。60歳の時である。

 翌年には、改良を加えたスクーナー船「亀田丸」を、そして和洋折衷型で自分の名前がついた「豊治丸」も建造している。その後、函館戦争や明治初期の混乱で造船は沙汰止みとなったが、1875(明治8)年、開拓史が今までの和船に代わって西洋型船の建造を奨励したことで、続は80に届かんとする年齢にもかかわらず洋船の建造に取り組んだ。
 1880(明治13)年に83歳で亡くなるまで、この4年間になんと12隻の大小各種スクーナーをつくった。56歳から本格的にスクーナー船の建造に取り組み、83歳まで仕事をやり続けたのだ。

 60歳で定年、65歳ですべての仕事はやめ、後は年金暮らし。これでは続に合わす顔がないし、さらに子や孫に申し訳ない。私も仕事は“続”けなければと思い知らされる。

 続の長男七太郎は後継者として洋式造船術を学んでいたが、32歳で死去。英語を習得中の次男卯之吉が急遽、続の跡を継ぐこととなった。
この卯之吉こそ、新島襄が米国に密航を企てた時に助けた人物である。新島は同志社大学の創始者であるとともに、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公八重の2人目の旦那として知られている。
 函館市大町11番地の「箱館丸」が係留されている場所の近く、緑の島が近くに見えるところに「新島襄海外渡航乗船之処」という碑が建っている。新島は新しい知識を海外に求め、この地から海外に渡航した。江戸より箱館に着いたは1864(元治元)年6月14日の深夜、外国商館の支配人だった福士卯之吉(後の福士成豊)の協力により、夜半に禁を犯してアメリカ商船ベルリン号に乗り込み密航に成功した。もし表沙汰になれば新島はもちろん、卯之吉も死罪になったところだ。続豊治の男気が息子の卯之吉に受け継がれたのだろう。
 碑には漢詩が刻まれている。訓読すると「男児志を決して千里を馳(は)す 自ら苦辛を褒むあに家を思わんや 却って笑う春風雨を吹く夜 枕頭尚夢む故園の花」  次回は樺太開拓に尽力した松川弁之助について調べてみたい。