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北海道開拓の先覚者達(21)~岡本監輔(けんすけ)~更新日:2014年04月01日

    

「春は名のみの風の寒さや 谷の鶯歌は思えど 時にあらずと声も立てず」
「氷解け去り葦は角ぐむ さては時ぞと思うあやにく 今日も昨日も雪の空」
お彼岸の中日(21日)は朝から雪が降り続き、神宮のラジオ体操に参加するのもひと苦労だった。今年の春は来るのだろうかといささか不安な気にもなった。しかし、先人から語り続けられた「暑さ寒さも彼岸まで」は言葉通り生きていた。彼岸明けの3月24日からは一気に気温が上昇し、道路脇の雪山もどんどん小さくなっている。東京では桜が開花した。神宮の桜もあとひと月。
まだまだ春の訪れが遠い樺太。この地に男子一生の夢を抱き、世界で始めて樺太一周をやり遂げた開拓使判官、岡本監輔を取り上げる。

岡本は奇しくも松本十郎と同じ年1839年、阿波国(徳島県)に生まれる。父親は博識で農業を営むかたわら医師も営んでいた。
他の開拓の先覚者たちがそうであったように、岡本も幼少時から学問を好み、長じるに至って儒学や漢学を学んだ。頑固で一途な性格だったといわれているが、気宇壮大で生涯を開拓者精神で貫いた異色の人物である。
 青年時代にある儒学者のところに居候していた岡本は、たまたま訪ねてきた漁師から「遠く北にサガレンという大きな島がある」と聞き、異常なほどの関心を持った。これが岡本の運命を決めた出来事と言えよう。
 その後、大阪や京都で「サガレン」を調べ回ったが、ヒントさえも得ることができなかった。江戸に出た際に下谷の書店で偶然にも間宮林蔵の「北蝦夷図説」を手にし、ようやく自分の目指している島がサハリン(北蝦夷)であることが分かった。
さらに、蝦夷地開拓者の先達である松浦武四郎とも会うことができ、話を聞くうちにいよいよ冒険心が募っていった。むさぼるように松浦の著書「蝦夷日誌」や「蝦夷紀行」を読み、蝦夷とサハリンに関する知識を高めていった。
 サハリン開拓の思いはやがて達せられるときが来た。岡本の並外れた能力は、目的遂行のためにありとあらゆる人脈を利用し説得する力である。
 岡本は寄寓していた幕府の下級役人にサハリン開拓への強い思いをぶつけ、その意気込みに圧倒された役人は箱館奉行所の組頭、平山謙二郎に添え書きを送り、岡本は平山の食客として箱館に行くことができた。平山も岡本のサハリンに対する強い思いに喜び、サハリン詰所役人に紹介状を書いた。
 63年、岡本は念願のサハリンに向けて単身出発する。
 サハリンの南端、白主に着くと早速、地元民の言葉を学び、ロシア兵が広大な兵舎設けている様子や、石炭採掘をおこなっているロシア人の動きを見るなどの調査をして10月に箱館に戻った。このサハリン渡航で、ロシアの勢力拡大に対する岡本の憂国の思いは募るばかりである。一方、サハリンの土地は肥沃で漁業も豊かで移住するのに適する地であることも理解した。
 箱館では奉行所要職の面々にサハリンの事情を説いて回り、その熱心さと説得力が功を奏し、岡本のサハリン在住願いは許可される。
 65年4月1日、岡本はサハリン一周を極めんとして現地人を雇ってクシュンコタン(サハリンの南岸)を出発した。前人未到の調査で辛苦を極めたが6月末に最北端ガオト岬に至り、この地に天照大神を祀った。7月には間宮林蔵の探検した最北の町ナニオーに着いた。その後、西海岸を南下し、ここに日本人による最初のサハリン一周が達成された。
 こうした調査を通じ、岡本は樺太や千島の開拓に大きな理想を抱く一方、ロシア勢力の南下に対して深刻な危機感を抱く。
 66年、岡本はサハリン開拓がいかに喫緊かつ重要であるかを幕府最後の箱館奉行、杉浦誠に説くが、時は幕末の混迷の最中。杉浦は動くことができず、岡本は江戸に赴きサハリンの窮状を訴えようとする。世の中は勤皇か佐幕か、攘夷か開国かと国が揺れ動いていた時、まったく別の思いを持った男である。

 興味深いのは、岡本は67年に坂本龍馬と会い、熱くサハリン開拓を訴えたことである。龍馬も「ひと区切りついたら、わしもひと肌脱がせてもらおう」と応じたとのことであるが、その年坂本は暗殺される。同年、徳川慶喜は大政を奉還することになるが、岡本はこの大混乱の時期に蝦夷やサハリンを開拓する目的で「北門社」という結社を立ち上げる。あくまでも目的を達成しようとする岡本のすさまじいばかりの執念がうかがわれる。
 次に岡本が打った手は、貧乏公家の侍従、清水谷公考(きみたか)にサハリン開拓を吹き込むことであった。「北辺のロシアの進出が懸念される中、急ぐべきは蝦夷地全島の人民の安寧を図ることである」と熱弁をふるい、清水谷をその気にさせる。戊辰戦争が始まったばかりの日、清水谷は新政府に岡本が原案をしたためた建議書を提出する。これが新政府の北方開拓の方針とも一致し、新たな組織を箱館に設置することが認められる。68年設置の箱館裁判所(道庁の役割)がそれだ。清水谷は総督、岡本は権判事・樺太担当に任命され、従来の箱館奉行所は廃止され奉行だった杉浦は追い出される。
 念願かなった岡本は、食いつぶしの浪人数百人を引き連れて樺太に渡り、クシュンコタンに公儀所を設置し、サハリン開拓を開始する(なお箱館裁判所は後に「箱館府」となり、清水谷は知事になる)。
 同年10月、榎本武揚が艦船を率いて蝦夷地に来襲、箱館戦争が始まる。予期せぬ来襲に新政府が設置した箱館府は劣勢になり、清水谷は青森方面に退却する。その後新政府は箱館を制圧するが、逃走した清水谷の箱館府運営に新政府は疑念を抱き、清水谷は失職。翌年新たに「開拓使」が創設される。この時、サハリンは松浦によって「樺太」の名前が付けられた。岡本は開拓使判官に任命され担当となる。

 さかのぼって55年、江戸幕府とロシア政府の間で「日露通好(和親)条約」が締結された時、サハリンは「両国の共同居住地」とあいまいにされていた。岡本の主張は「この条約は旧政権である幕府が結んだものであり、この地は元来日本人の居住地」である。開拓使判官として交渉するに当たって、ロシア側とはそもそも食い違いが生じていた。さらに幕末の混乱期に、ロシアは着々とその地歩をサハリンに築いており、岡本の主張に聞く耳ももたなかった。70年の正月には部下6人がロシアに捕縛されるという事態も発生。岡本はロシアとの交渉で厳しい状況に立たされることになる。
 71年5月、黒田清隆が開拓使次官としてこの地の問題解決に当たることになった。黒田はサハリンを視察するが、彼我の勢力差が著しく大きく、国力の差も如何ともしがたく、サハリンを放棄して北海道に力を注ぐべきとの結論に至った。これに憤慨した岡本は判官を辞職する。

 その後岡本は自由民権運動への参加や清国視察、東京大学予備門(夏目漱石も生徒)の教授就任などをへて91年、53歳で千島開拓を企てる。同志を集めて「千島義会」結成し、択捉島を目指すが船が沈没。計画は頓挫してしまう。
岡本は思いを果たすことのないまま1904年に東京で病死。66歳だった。ちなみに当時は日露戦争のまっただ中。日本軍がサハリンを占領して戦争は終結し、ポーツマス条約でその南半分を得るが、岡本はそれを知ることもなかった。

 エピローグとして岡本と関係のあった2人の開拓者について触れたい。

その1:小野淳輔(坂本直)
 岡本が坂本龍馬に会ったことは先に触れた。坂本は岡本のサハリン開拓という野望に刺激を受けたが、その年に暗殺され、北方開拓の夢を果たすことができなかった。その坂本の遺志を継いだのが、甥の小野淳輔(後の坂本直)である。
小野は海援隊・隊士であったが、龍馬が殺された直後に新政府に登用され、蝦夷地開拓のために設置された箱館裁判所判事に任命されている。箱館裁判所は先に触れた通り清水谷公考の建議により設置され、清水谷が総督、岡本が権判事・樺太担当として運営した組織。坂本の志を甥の小野が受け継いだとしたら、北海道と坂本の絆が感じられる。何か心温まる思いだ。

その2:前野五郎
 前野五郎は岡本と同じ阿波国(徳島県)の出身である。京都で新撰組に入隊するが、近藤勇と意見が合わず、永倉新八たちと靖兵隊(せいへいたい)に参加し、幕府軍とともに東北各地を転戦する。その後、薩摩軍に投降するが、同郷だった岡本が「日本人同士が争っている場合か、ロシアの暴挙が見えぬのか」と主張してサハリンに渡ったのを耳にし、自分も1868年に樺太へ向かう。すでに述べたように、岡本は黒田次官の方針に憤慨して判官を辞職。前野も辞職願を出して札幌へ行く。
その後、前野が札幌で始めたのが、何と遊郭。薄野(ススキノ)で前野は金を稼ぎまくる。
 91年、前野を訪ねた岡本は「大事なサハリンを放棄して千島を得たが、千島はいまだ手付かずのままだ。千島義会を結成して開拓する」との決意を述べた。前野は感激して遊郭を閉め、すべての金を千島義会に投じる。しかし、前野は択捉島の海岸を調査中に丸太橋から転落し、川で流されるうちに自分が所持していた猟銃が暴発して死んでしまう(殺害されたともいわれる)。

 お彼岸で義父の墓参りに里塚霊園を訪れた。1メートルもの積雪で、腰まで雪に埋まりながらお参りしたが、里塚霊園には前野の大きな墓が、雪に半分覆われながら鎮座していた。かくもすさまじい生き様をみせた前野が今は雪の中で静かに眠っていた。

 次回はブラキスト・ラインで知られるトーマス・ブラキストンを取り上げる。