社長ブログ

北海道開拓を担った各地からの移住者に学ぶ (34) ―京都府民の北海道開拓

 渡島半島の北端、瀬棚郡今金町に「神丘」という地があります。1933(昭和8)年に神丘と改名されましたが、それまでは「インマヌエル」が地名でした。アイヌ語ではなくヘブライ語で「神我と共にあります」の意味。神とはキリストです。

 1891(明治24)年、京都・同志社大学学生で新島譲から洗礼を受けた志方之善(しかた・ゆきよし)は、まだ17歳の丸山要次郎とともに北海道にキリスト教の理想郷を建設すべく瀬棚郡目名(現:神丘)に渡りました。そこに小屋を建てて生活の場を確保した上で、翌年には家族などを呼び寄せます。

 一方、埼玉県熊谷の天沼恒三郎は、かねて同志12人とともに北海道に移住すべく候補地を探していました。志方は会衆派(組合)教会でプロテスタント、天沼は聖公会(英国国教会)でピューリタンと、キリスト教の会派は分かれています。天沼は目名で志方に逢い、その後犬養毅の支援も得てともにこの地で開発を進めることになります。

 1893(明治26)年、会衆派と日本聖公会の教徒約60戸が目名に入植。志方は一同に諮り、この地を「インマヌエル」と定め、教派を超えたキリスト教徒の村にすべく、村の憲法ともいえる各種規定を定めます。その中には、「他愛主義」「艱難辛苦に助け合う」「各自の独立」「禁酒や生活上の規律」など、キリスト教に則った項目が挙げられておりました。当初、両派は礼拝や集会を共に行っていましたが、次第に礼拝形式などの違いが意識され、教会を別々に立てるなど分離していき現在に至ります。

 瀬棚郡今金町神丘には、インマヌエル教会とともに「今金町発祥の地碑」があります。碑文には「先祖が苦労と孤独を克服し堅い信仰と不屈の闘志を持ち開拓の使命を果せしことにあり、北海道教区宣教百年の歩みは荒野に鍬を振った開拓者というべし(一部)」と記録。この地には「組合協会」「聖公会」両派の子孫が今も多く残り、キリスト教信者として生活しています。アメリカ大陸発見早期に移住したピルグリム・ファーザー一団と重ねて、そのご苦労が思い浮かばれます。

 なお、近代日本における最初の女性医師として知られる萩野吟子(はぎのぎんこ)は、13才年下でまだ同志社の学生だった志方之善と夫婦になり、明治29年にはインマヌエルで一緒に生活していました。

 北海道においては江戸時代中期「場所請負制度」が始まり、それ以降アイヌ民族は過酷な扱いを受け、搾取され、最近に至るまで差別を受けていました。眼を道外に向けても「人種や民族の違い」「出身や職業の違い」「性の違い」など生活全般で不利益な扱いを受ける「差別」が行われています。とりわけ、被差別部落の出身であることを理由とする差別が関西を中心に長きに渡って行われていました(す)。この問題の改善に尽力したのが上田静一です。

 上田は1884年大阪府河内郡東條村に誕生。京都師範学校卒業後、被差別部落にある田中尋常小学校教員になるとともに京都市内の田中部落に入り込み、「親友夜学校」を開設して教育活動に携わるとともに部落解放事業に尽力。また部落民衆の北海道移住を推進し、自らも部落民衆(京都団体)を引き連れて北海道に移住しています。

 1917(大正6)年春、部落の数家族を率いて北海道十勝の本別村大誉地原野へ。上田は青年会や縁者「30余人」をまず引き連れ、1月28日京都を出発、2月1日函館上陸。融雪期を待ち、十勝清水の製渋工場(樹皮からタンニンを抽出する工場)で50日間働いた上、3月大誉地市街に到着。上田の手配した小屋に宿泊し、若者達が原野の小屋を整えた上、4月25日に全員が大誉地原野の入植地へ。大誉地原野は十勝地方に属し、今の陸別付近に位置します。冬季は日本で最も気温の低い厳寒地です。

 1907(明治40)年に狩勝峠トンネルが開通、1910(明治43)年には網走線で池田から北見網走方面にも鉄道が敷かれ、陸別周辺は木材の伐採・製剤が活発化しました。京都団体の入った区画は大誉地原野の奥であったものの市街や最寄駅(大誉地停車場)からは必ずしも遠くなかったそうです。子どもたちの教育は、1917(大正6)年7月に大誉地特別教授所が京都団体入植地から2~4キロ程度の場所にでき「学童16人を対象に授業を始めた」と記録されています。

 京都団体北海道移住にあたっては帝国公道会との連携がみられます。公道会は1914(大正3)年、板垣退助等により創立され、被差別部落の改善を目指し、部落に北海道への移住を奨励していました。京都団体移住にあたっても、北海道庁への貸付地の申請、金融機関への資金支援要請等の支援をしていました。

 かつて「東北・北海道一」と言われた書店がありました。その書店は「富貴堂」。明治・大正・昭和と札幌・北海道の文化振興に貢献してきました。富貴堂は京都出身の中村信以(のぶしげ)が1898(明治31)年に開店。順調に業績を伸ばしていきましたが、明治40年5月の札幌大火で店舗は消失。だが、中村は培った信用で石造二階建店舗を再建。更に昭和12年には鉄筋コンクリート四階建てビルに改装しています。「札幌というとき、私は何を置いても富貴堂を思わずにいられない」と、札幌出身の文学者島木健作が回顧録に書いたように、多くの北海道人に親しまれ、札幌の文化発展に貢献してきました。

 屯田兵として京都から北海道に移住した人達は83戸334人と記録されています。明治25年、上旭川屯田兵村に18戸、下旭川屯田兵村に27戸が入植。平民屯田制度が始まったのが明治24年ですので、農民が中心と思われ、耕作適地に入植し好成績を収めました。上川地区の美唄、高志内、茶志内、剣淵、オホーツクの湧別、野付牛(北見)の屯田兵村にも入営しています。