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北海道開拓の先覚者達(19)~松本十郎~更新日:2014年03月01日

    

 1872年7月に開拓使が設置され、肥前藩主鍋島直正を長官として新政府による北海道開拓の第一歩が踏み出された。
 しかし、江戸幕府から新政府へという激動の時代の中で、北海道開拓の使命に燃えた開拓使の面々にも予期せぬドラマが待ち受けていた。そこには、さまざまな人間模様が浮かび上がってくる。
 初代長官鍋島直道は病弱で、蝦夷地に赴任することなくひと月余りで大納言に転任。長官の座を東久世道嬉(ひがしくぜ・みちとみ)に譲った。東久世は公家出身でかつ官僚色が強いため、武人や探検家といった一匹狼の判官たちと意見が合わず、2人の開拓使が役職を辞することになった。最初に辞したのが「北海道」の名付け親、松浦武四郎。松浦は「場所請負制度」の廃止を強く主張したが、東久世は優柔不断な態度に終始。松浦はこれに抗議し1年もたたずに開拓使判官の役職を辞している。
 次に職を免ぜられたのが島義勇主席判官である。札幌本府建設にあたり予算を大幅に超過し、これが東久世の逆鱗に触れた。
 島の後を継いで本府建設にあたったのが岩村通俊判官(のちに大判官)。しかし岩村は東久世の後任、黒田清隆開拓使次官を批判し、1876年に解任される。
 もう一人、黒田と意見が合わず職を辞したのが、岩村の後任として大判官になった松本十郎である。根室・釧路の開拓に多大な貢献をし、その後黒田の推挙で開拓使大判官として北海道開拓の責任者にもなった人物である。しかしながら、松本は北海道開拓神社に祀られている37柱に加わることはなかった。何があったのだろうか。今回はその松本十郎を取り上げたい。

 1878年5月22日、「樺太・千島交換条約」が締結された。日本側の交渉責任者は、黒田の盟友・榎本武揚駐ロシア公使である。
 この契約により、樺太アイヌの人々は日本・ロシアのどちらに住むか自由に選択できることになった。選択の期限は3年以内。結局、樺太北部のアイヌは残留し、南部のアイヌ108戸841人が宗谷に移住した。
 アイヌの人たちは故郷の樺太が遠望できサケやニシンの漁獲も見込まれる宗谷への移住を希望し、大判官の松本も強く彼らの意見を支援した。
 だが、開拓使の一部に移住民を農作業、もしくは空知の炭鉱で働かせるべき(榎本)との意見があり、黒田はこの意見を取り入れることとなる。
 黒田は松本に相談することなく、彼らを江別市対雁(ついしかり)に強制移住させ土地を与える決断をする。
 1875年秋、南部アイヌの人たちを乗せた船が宗谷に渡り、その地でいったん在留する。何も知らされていない彼らは新天地に到着しひと息ついたが、翌年に不幸が始まったのだ。
 年が明けると、黒田に指示された判官が巡査20人に銃を持たせ宗谷沖に現れた。船に据えられた大砲から空砲を発射してアイヌの人たちを威嚇した上、宗谷の一時居住地に上陸。脅迫して船に乗せ、小樽を経由して石狩に向かった。
 小樽では、アイヌの人たちが最初の約束と違うということで酋長を攻め立て、酋長はついに気が狂い、血を吐いて死ぬことになる。移住民841人は石狩川河口上流の対雁に強制移住させられ、彼らの悲惨な生活がこの時から始まる。
 狩猟民族であるアイヌの人たちは環境の激変についていけず、1880年にはコレラが、1886年には天然痘が流行し300人もの尊い命が失われた。

 当初から北見(宗谷)への移住を主張していた松本は、自分に相談もせず強制移住を断行した黒田に対する憤りを抑えることができず、開拓使大判官を辞する覚悟を固めた。松本は長文の手紙を黒田に残している。概要は以下の通りで、その覚悟が偲ばれる。
「今回の樺太土人(アイヌの人々)の移住に関しては閣下の意見とは違います。たとえ閣下の逆鱗に触れてお怒りを受けることになろうとも、私は断固として閣下のご命令を受けることはできません。樺太アイヌは北見(宗谷)に移りたいと願っております。ところがどうしてなのか、石狩川の上流に移し空知の夕張鉱の仕事に従事させようとしています。石炭鉱は終身刑者を働かせるところではないですか。これを聞いた時私は非常な驚きでした。閣下は樺太土人を蛮民だと言ったそうですが、閣下が移民を蛮民と呼んだということは私が最も納得できないところです。」
 松本はひと月ほど道内を回り覚悟を固めるとともに、親しかった人たちに別れを告げ故郷の鶴岡(山形県庄内)に向け函館を出発した。
 その日は明治天皇が初めて北海道開拓の状況視察に来道した日であり、盛大な歓迎式典が函館でおこなわれていた。松本38歳の時である。

 戸田惣十郎(松本の旧名)は1839年に庄内藩士の長男として生まれ、15歳ごろから庄内藩の藩校「到道館」で学び、抜群の成績で頭角を現す。
 1863年、父に従い百数十人の庄内藩士とともに留萌地方の苫前、そしてその後浜益で蝦夷地の開拓と警備の任にあたる。ここで、アイヌの人々とその生活を理解することになる。
 1868年から始まった戊辰戦争で庄内藩は幕府軍側につき、戸田は2番隊長として活躍し最後まで新政府軍と戦うが、圧倒的な新政府軍の兵力に抗しきれず敗北。
 戊辰戦争の後、新政府に抵抗した会津藩は石高を30万石から3万石に減らされ、今の青森県むつ市の戸南(となみ)に移封された。一方、会津藩降伏の後も最後まで新政府軍と戦った庄内藩は、西郷隆盛や黒田の配慮で石高も13万8千石から12万石に減らされただけで、厳しい処罰は免れることができた。
 その直後、戸田は京都に行く事を命じられたが、この時に朝敵藩士の身分を隠すため、名を松本十郎に改める。

 黒田は松本が賊軍の武将であったにもかかわらずその才覚を認め、北海道開拓使判官に推薦する。箱館戦争で幕府残党の榎本の命を自分の政治生命をかけて救ったように、松本を有能な人材と認めたのだろう。
 1872年9月21日、「大国魂命」「大己貴命」「少彦名命」という「開拓三神」と東久世以下の開拓使を乗せたテールス号は品川を出航し函館に到着。その後松本は130人の配下を連れて根室に向かう。
 松本はマゲを落としてザンギリ頭となり、アイヌの織物「アッシ」を着用し、当時ほとんど手つかずの状態だった根室の開拓にまい進する。
 税制を改め、出納を厳格にし、学校・病院・牢獄を次々建設。アイヌの人たちとも分けへだてなく接し、「アッシ判官」と呼ばれ親しまれた。「請負人制度」も廃止して「漁場持」とし、数々の有力商人を管轄下に置いた。
 1873年、岩村が黒田から罷免されると、松本は大判官に抜擢され北海道開拓の全権を任されることになる。
 当時、北海道開拓使は大幅な赤字に苦しんでいたが、松本は事業全体を見直し、開拓使の役人を700人から300人に削減、綱紀の引き締め、徹底的なムダの排除をおこない、わずか2年で累積赤字を解消している(なぜ、近年の北海道でできないのだろうか)。
 自らも質素倹約に努め、出張経費も受け取らず書生も1人だけという清廉潔白な生活だった。朝6時には登庁し誰にでも「さん」づけで語りかけ、アッシを羽織っての管内巡回を毎日欠かさずおこなっていた。

 松本の故郷・庄内は維新後、養蚕による産業振興に取り組み、3000人の旧藩士を動員して200ヘクタールの桑畑を開墾した。松本は北海道でも養蚕事業を立ち上げるべく、旧庄内藩に依頼して桑畑開墾経験のある庄内藩士を200人以上も招いた。彼らは期待に応え、わずか100日あまりで函館と札幌にそれぞれ21万坪と10万坪の桑畑を整備した。札幌中心地の北西に開墾した桑畑は、「桑園」として今もその名が残っている。
 松本は今の札幌テレビ塔近くの南大通り官舎に住み、その庭に花畑をつくり季節ごとの花々を愛でていた。人々はこれを「松本判官のお花畑」と称し、一緒に楽しんでいたそうである。この花畑が大通り公園発祥の地で、札幌市民のくつろぎの場になっている。今(2月末)は未だ雪に覆われているが、その下では固い芽が雪解けを待っていることだろう。ここのところ厳しい寒さと吹雪の日が続いているが、草花の芽と同じように、我々も春の訪れを心待ちにしている。
 郷里の庄内に戻った時、松本は38歳の若さでまだまだ働き盛りの年齢であった。しかし、幾多の官位の誘いも断り、40余年もの間、一人の農民として晴耕雨読の日々を送り、1916年11月にその生涯を閉じた。享年77歳だった。

 今回は、北国諒星(ほっこくりょうせい)著「さらば・・えぞ地-松本十郎伝」を参考にした。
 次回は東久世道嬉について調べていきたい。