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北海道開拓の先覚者達(17)~間宮林蔵~更新日:2014年02月01日

    

「エイヤ」、「エイヤ」、「エイヤ」・・・・腹の底から絞り出すような掛け声が辺りの静寂な雰囲気を震わせる。1月19日、昨夜からの雪が降り積もった北海道神宮の一角で「第四回新成人寒中禊(みそぎ)会」がおこなわれた。
 新成人に先立ち、早朝体操の仲間数人が禊の儀式に参加するとのことで拝見しに行った。20人の行者は、男性が褌1枚、女性は禊用の白上下服で白い地下足袋か白足袋を履いているだけだ。地面は凍っており、私なら震えと足場の悪さで立っているのもおぼつかないだろう。
 精神を統一し、掛け声を上げ、力一杯櫓を漕ぐような動きをしている内に行者の身体は赤みを帯び湯気が立ってくる。20分ほど気合いを入れてから、いよいよ冷水(氷水)を身体にかける。当日の朝、神宮の温度計はマイナス11度を指していた。20杯も水をかけると最後のほうは冷たいというより痛く感じるそうだ。
 経験者の禊の後、20人の新成人(男性17人、女性3人)が同じように儀式をおこなう。私の胴回りの半分もないのでないかと思われる細身の新成人も、寒さと痛さに耐えながら行をやり遂げた。目頭が熱くなり、思わず拍手と声援を送ってしまった。がんばれ新成人。

 今、まさに寒の最中。この時期、樺太はマイナス30度に気温が下がるのも珍しくないだろう。そのような時期、樺太を縦断し、島であることを証明したのが間宮林蔵である。
 樺太は南端が北緯45度54分、北端が北緯54度20分で、その差は8度26分。その間の直線距離は940キロメートルにも及ぶ。ちなみに、北海道の南端と北端の緯度差は4度12分で、樺太は南北の直線距離で北海道の2倍になる。
 間宮は1808年から1809年にわたり15カ月をかけて樺太を1往復半も走破し、さらに黒竜江にまで足を伸ばしている。その合計距離は3500キロメートルにもなるだろう。今回は間宮海峡発見に至るまでの調査・探検についてその概要を記載したい。

 1806年(文化3年)、蝦夷地全域の直轄を決意した幕府は日露の境界を決める必要に迫られ、その大任を松田伝十郎と間宮に命じた。
 1808年4月、2人は決死の覚悟で宗谷から樺太最南端のシラヌシ(白主)に渡り、松田は東海岸、間宮は西海岸を調査すべくそれぞれ分かれて出発した。松田は大陸に最も近い東海岸のノテトまで行き、樺太が島であることをほぼ認識した。しかしその確証は得られなかった。任務が終わった2人は6月20日に宗谷へ戻ったが、負けん気の強い間宮は樺太が島であることを自ら確かめるべく、単独での調査を願い出た。幸い願いは聞き入れられ、間宮は宗谷に止まることわずかひと月で単身、樺太に向かった。
 宗谷海峡をわたりシラヌシから蝦夷船で50キロほど北の本斗(ホント)にわたり、そこから最北端のナニオーまで行こうとしたが、蝦夷人(アイヌ)は恐れをなして同行するものがいない。ようやく6人の蝦夷人を集めて北に向かうが、三丹人に脅かされていったんは本斗に戻ることになる。
 1809年1月29日(寒の真っ最中)、間宮は再び北を目指して出発。4月9日、大陸に最も接近しているノテトに達する。吹きつける雪が体を凍てつかせ、日本海も猛烈に波立つ中、道なき道の探検に3カ月と10日を要した。
ノテトでは海が凍っていたため1カ月ほどこの地に滞在し、氷が解けるとともに船で出発しついに樺太最北端の地ナニオーに至る。
 ナニオーから望む海ははるか遠くまで開けており、樺太が大陸を離れた島であることを確認できた。再度ノテトに引き返したが、食糧はすでに底を尽き魚肉や草などを食する状態だった。
 ノテトからは対岸の大陸が遠望できる。日本は鎖国のただ中であり、それを破って渡来するのは死罪に相当する。それを承知のうえで、間宮は黒竜江(アムール河)下流地方を探検しようと決心する。間宮の探検家の血が騒いだのだろう。
 間宮には日頃好意を寄せるアイヌ女性がおり、彼女の口ききで7人の蝦夷人(アイヌ)同行者が集まった。ノテトを出発、4日をかけて満州官吏が詰める黒竜江の交易拠点デレンに到着した。この間、異民族である間宮はいたるところで嘲笑され、侮辱され、命さえ危うい場面もあった。
 デレンでは清国人が勢いをふるっており、ロシア帝国の極東地域支配が必ずしも十分ではない事をつかんだ。帰任後、現地の様子や詳細な地図を作製し、それらを「東韃地方紀行」に記載している(なお、間宮はアイヌとの間に子供をもうけ、その子孫が今も北海道に在住しているとのことだが、このアイヌ女性がそうであるかどうかは不明である)。
 間宮が単独樺太探検を終え、松前に到着したのは10月11日。この探検はなんと15ヶ月に及ぶものであった。
この間、穀物を摂ることはできず、指は凍傷のため腐っていた。心身ともに疲れ果て病床に倒れることになる。

 間宮は1780年(安永9年)、茨城県伊奈町(今のつくばみらい市)に生まれる。子供のころより恐ろしいくらい賢い神童だったとの記録がある。伊奈町は田園地帯で、その豊かな収穫をもたらすのは堰(ダム)から注がれる灌漑水だった。毎年春、田に水を引き小さなダムを造る堰止め工事が行われる。
 うまく水が流れず工事が滞っていた時、間宮が良い方法を提案しそれを採用すると見事に田に水が注がれるようになった。この噂が広がって幕府の役人に認められることとなり、下役人となる。
 数学を得意とし測量を好んだ間宮は各地の測量に従事することになり、若くして日本各地で行われた治水工事や新田開発に取り組む。

 1799年(寛政11年)、19歳で初めて蝦夷地に出かけ測量に取り組む。日本の地理学の歴史で特筆すべきことは、間宮がこの測量を通じ伊能忠敬と会ったことだろう。間宮は伊能から測量技術を習得する機会に恵まれたのだ。2人の努力はその後の蝦夷地及び日本地図の作製と精度向上に大きくつながる。
 すでにお気付きの方もおられるだろうが、前年の寛政10年は高田屋嘉兵衛が最上徳内に初めて会った年だ。その年、幕府はロシアの南進を懸念すると共に松前藩の蝦夷地管理に疑念を抱き、180名もの調査隊を蝦夷地に派遣している。
 その結果、翌年1799年には東蝦夷地(南部から東部)を松前藩から召し上げ幕府直轄にしている。そして、1800年には近藤重蔵を先発隊隊長として最上、高田屋らが択捉島に上陸している。
 なんと、本多利明、高田屋嘉兵衛、近藤重蔵、最上徳内、伊能忠敬、間宮林蔵、松田伝十郎と、主要な北海道開拓の先駆者が同じ時期に蝦夷地の調査・探検をしていたのだ。

 その背景として、ロシアの南下政策とそれを防衛しようとする幕府とのせめぎ合いがあった。ロシアはなんとか日本と通商を結ぼうと、1804年ニコライ・レザノフを長崎に遣わせた。しかし、幕府はレザノフを半年にわたって幽閉した上、通商はできないと返答する。屈辱的な扱いを受けたレザノフは独断で部下に日本人が居住する役所や街を攻撃するよう指示を出した。部下のフヴォトフは1807年(文化4年)、樺太や択捉を攻撃し略奪行為を繰り返す。これが「文化露冦(ぶんかろこう)である。
 たまたま択捉に勤務していた間宮は、この露冦に遭遇することになる。ロシア船の攻撃に対し、南部藩・津軽藩から派遣された守備隊は戦意がなく、すぐ遁走してしまう。この中で間宮は戦意の高揚に努め、町が壊滅するやいなや人員をまとめてクナシリに引き上げた。多くの人命を間宮は守ったのだ。

 さて、間宮は樺太が島であることを確認した人物として認められ、師の高橋景保によって間宮海峡説が採用。シーボルトは後に作成した日本地図の樺太・大陸間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名した。世界的大探検家クルーゼンシュテルンをして「我敗れたり」と言わしめるほどの偉業である。

 間宮海峡を発見したのち、病気も癒え間宮は北海道測量という大事業に取り組む。蝦夷地全土を測量し、伊能忠敬の「大日本沿海興地全図」の北海道部分(特に西半分)を完成させる。さらに、今の北海道地図の基本となる「蝦夷図」の完成につながっていく。
 間宮は19歳の年に初めて蝦夷地に赴いてから43歳までの23年もの間、北海道を中心として活躍。その内12年間は蝦夷地を実際に測量のために歩き続けた、まさに「日本北方地理学の建設者」である。
 1844年(天保15年・弘化元年)、65歳で多彩な生涯を終えた。

 今回紹介できなかった松田伝十郎は次回で取り上げる。