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北海道開拓の先覚者達(81)~アイヌ民族―6更新日:2016年11月01日

    

 もう先日のことだが、和服姿の小池百合子東京都知事が誇らしげに五輪旗を左右に大きく振って、リオデジャネイロ五輪が終わった。当初懸念されたジカ熱の発症は食い止められたようで、大混乱には至らなかった。だが今も世界中で新たな伝染病が発生している。

 感染すると50~90%の罹患者が死亡するといわれるエボラ出血熱、いまだワクチンや治療薬がない中東呼吸器症候群(MERS)、重症の場合臓器障害や出血症状が発生するデング病などがそうだ。人類を脅かす世界的大流行(パンデミック)も懸念されている。最近は過去の病気と思われていた肺炎や結核などで亡くなる人も出てきているようだ。

 私の左腕上部には、かすかに種痘の跡が残されている。ワクチンなどの予防によって、天然痘など多くの流行病で命を落とす人たちは劇的に減ってきている。空港や港湾での検疫も徹底されるようになり、海外からの病原菌上陸を水際で阻止する体制が整いつつある。

 だが寒冷な大自然の中、今まで病原菌のない自然環境で生活していたかつてのアイヌの人々には免疫力や抵抗力はなく、一度流行病が発生した際には、破滅的な事態を招くことも多かったという。和人のもたらした各種の病気に苦しんだアイヌの人たちは数多かった。今回は、アイヌ民族の人口減少の一因とされる、伝染病について記載する。

 アイヌ民族が伝染病によって民族を衰退させていった経緯については、アメリカ人の研究者、ブレット・L・ウォーカーが分析している。彼の著書「蝦夷地の征服」には「16世紀終わり頃から組織的に行われていった蝦夷地での交易で、新たな感染症がこの地にもたらされ、その生態系に大きな打撃が加えられた」という指摘がある。

 蝦夷地を最初に襲った伝染病は1624年の天然痘で、蝦夷地に大きな動揺をもたらした。その20年前の1604年、松前藩の太祖・松前慶廣は徳川家康から「蝦夷地の交易においてはすべて松前藩の許可が必要である」との黒印状を授けられた。蝦夷地でのアイヌとの交易が組織的に始まったきっかけだ。この後、多くの和人が蝦夷地に到来。その中には天然痘や梅毒などの疫病をもった場所請負人やその番人たちもいたのだろう。

 蝦夷地での天然痘は1624年以後も周期的に発生し、そのたびに村々の人口を大きく減少させていった。中でも1698年の蝦夷地全域での流行時は被害が大きかったという。19世紀に入ると、イシカリ場所で天然痘が流行した1807年からの1年間で、アイヌの総人口の約4割弱が死亡したと記録されている。

 アイヌの人々は天然痘を「バコロカムイ:疱瘡の神」として恐れたが、彼らには山奥に逃げ込むしか対処法はなかった。日本で初めて種痘を試みたのは、以前本ブログでも紹介した(2016年5月15日号)中川五郎治だ。択捉島の遮那会所で働いていた時ロシアに捕らえられ、シベリアに抑留。その後、日本への帰路で商人の家に1泊した際、ジェンナーの書いた種痘の本に巡り合う。蝦夷地での天然痘の悲惨さを目の当たりにしていた中川はその本を譲り受け、独学の末に種痘の方法を編み出した。それが1824年。日本初の偉業である。中川は一部のアイヌたちにも種痘を施して彼らを救っている。

 72歳で陸別に入植した医師、関寛斎もアイヌに種痘をおこなっている。幕府や明治政府もアイヌへの種痘に取り組んではいたが、いずれも限られた範囲でしかなかった。

 梅毒などの性病は17世紀後半から蝦夷地で発生している。この時期はシャクシャインの戦い(1669年)と重なっており、戦いに敗れたアイヌに対する和人のさらなる弾圧が始まった時期でもある。18世紀中盤ごろから、河口でアイヌを使役した魚肥(しめかす)生産が始まる。1773年に飛騨屋久兵衛がアッケシ・キリタップ・クナシリの場所を請け負うと、アイヌへの酷使は悲惨を極めた。男性は安い賃金で強制的に酷使され、過労で病気に対する抵抗力が極度に衰えていった。一方で女性は番人たちに辱めを受け、性病を移された。これにより、各種伝染病はさらに広がっていくことになる。
 
 明治に入り、開拓使が北海道を統括するようになってからも、アイヌと伝染病との関係は心を痛める哀しい歴史が続く。

 1875(明治8)年に締結された「樺太・千島交換条約」は、樺太アイヌに塗炭の苦しみを与えた。この条約は日本が樺太から全面的に撤退し、ロシアが千島から退くという内容。当時樺太には約2400人のアイヌが住んでおり、ロシア国籍を得るか日本に移住し日本国籍を持つか、判断を迫られた。日本政府はこの樺太アイヌの人々を日本に移住させることにした。

 同年9月、108戸841人が北海道に移住し、宗谷に住み着いた。翌年、開拓使は彼らを農業開拓に従事させるべく、石狩の対雁(ツイシカリ・今の江別)に強制移住させる。当時の対雁はあまりの自然環境の厳しさに東北(仙台)からの移住者も逃げ出したという場所だ。漁労で生きてきた樺太アイヌの人々が、無理矢理連れてこられ慣れぬ農耕を強いられることとなった。その困窮はいかばかりだったことだろう。さらに、強制移住後の1876年には大洪水、1879年にはコレラが流行。30人の死者を出した。1886年には対雁から石狩川河口へ再度移住させられたが、再びコレラや天然痘が流行し、翌年には370人が病死。移住した841人のうち、400人以上がわずか7年で亡くなったのだ。

 1905年、日露戦争後のポーツマス条約で樺太の南半分が日本の領土となり、樺太アイヌは故郷に戻ったが、生き残って帰郷できた人はわずかだった。

 明治政府は北海道の開拓にアイヌの力が必要であるとし、農地を付与したりしたが、その方針はあくまでも「同化政策」であり、畑作に専念させ、従来のアイヌの狩猟を中心とした生活と文化を葬り去ることだった。1878年、開拓使は戸籍上のアイヌ呼称を「旧土人」という差別的表現に統一し、子供達は「旧土人学校」で学ぶことを義務付けられた。

 一方、アイヌの人々が、和人に土地を奪われ差別と迫害に苦しんでいることを知り、その救済と生活改善のために、各地に学校(愛隣学校)を設立したのが、英国人宣教師のジョン・バチェラー博士だ。1890年には幌別町にアイヌ児童教育施設「愛隣学校」を開設し、1892年には函館にも設立した。

 アイヌ民族に関しては本ブログ2013年10月1日号と15日号に詳細を記しているが、明治以降、先住民族(実際に認められたのは2008年の「アイヌ民族を先住民族とする国会決議」)であるアイヌを救済・保護する活動をおこなったのが、日本政府ではなくイギリスのキリスト教宣教師であったことに、何か言い表しがたい思いを抱く。

 2013年6月1日から約2年半、81回にわたって「北海道開拓の先覚者達」を連載してきました。ここで一旦本編は筆を置きます。次回からは総集編をお届けしながら、次のテーマにも取り組んでいきたいと思います。もうしばしお付き合いください。