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北海道開拓の先覚者達(70)~松浦武四郎(補筆3)~更新日:2016年05月01日

    

 胸が押しつぶされるような悲惨な状況だ。熊本・大分地方ではまだ9万人もの方々が、不自由な避難生活を過ごしている(4月22日現在)。もう我慢の限界を超えているはず。遠くの地で、何も支援できない自分をもどかしく思うばかりだ。余震がまだ続いているようで、今後、阿蘇山マグマ、大分県の東端から四国・近畿地方を経て関東まで繋がっている「中央構造線」の巨大活断層への影響、さらには南海トラフの大地震と津波を誘発するのではないかと、心配は尽きない。また「想定外」では済まされないだろう。

 一方「想定外」どころか意図的に燃費データを改ざんした三菱自動車にはあきれ返るしかない。同社の社長は三菱グループに君臨していた人物の息子だ。

 不正に利益を積み上げ、決算資料を数年間にわたってゴマ化していた東芝。くい打ち事件で非難を浴びた三井不動産レジデンシャルと三井住友建設、見通しのまずさから数千億規模で資源開発の損失を出した大手商社各社、競合力の劣化で台湾や中国の企業の軍門に下った大手電気企業各社……。鉄鋼・船舶業界でも見通しのまずさから経営を悪化させ、大手企業は厳しい局面に立たされている。原発至上主義の電力各社はいまだ立ち直れず、初めて経験する電力自由化の競合で苦境に立たされている。

 これら各社は日本を代表する企業であり、経団連のトップに名を連ねていた企業だ。地震だけではなく、日本の産業基盤が大きく崩れていっているのではないかと危惧される。これら企業で、経営陣の判断ミスによりリストラされた従業員の総数は数十万人になるだろう。大手企業のエリート社員から突然、弱者になってしまうわけだ。今大切なのは、被災者はもちろんのこと、弱者にどう向き合うかということではないかと思う。

 今から150年以上も前に、松浦武四郎は弱者であるアイヌ民族の人たちと、寝食をともにして理解を深めようとした。彼らは悲惨としかいいようもない生活に置かれている中でも、素晴らしい人間性を持ち続けていた。武四郎は彼らの文化と心に触れ、膨大な量の文献に収めていった。

 武四郎がアイヌ民族の人々から直接聞いた話をありのまま記した「近世蝦夷人物誌」は、歴史的なルポルタージュと評価されている。人物誌には99話が収められており、百数十人に及ぶアイヌの人々の勇敢な姿、親孝行な話、無理難題を押し付ける役人や場所請負人たちなどを、武四郎自らが描写した多くの画とともに、詳細に記述している。2002(平成14)年に平凡社から出版された「アイヌ人物誌」は更科源蔵氏による現代語訳がなされており、容易に読み進めることができる。今回はその中から、2、3の挿話を紹介したい。

 まず第2話「酋長リクンニスキ」の項では、幕府の「撫育(ぶいく)同化政策」に苦しむアイヌの人たちを取り上げている。幕府はロシアの南下政策に対して蝦夷地は日本の領土だと主張するため、文化の異なるアイヌ民族の伝統である長髪、髭(ひげ)や入れ墨を強制的に禁止しようとした。1856(安政3)年3月、武四郎は39歳で4度目の蝦夷地渡航を挙行した。この際、松前藩は東北に移封され、幕府が蝦夷地を統治していた。しかし、松前藩の悪弊は一朝夕に改まっていない時期であった。

 同年4月21日に武四郎がシマコマキ(島牧)に入ると、乙名(酋長)のリクニンスキが次のように惨状を訴えた。

「この地の女たちは年寄りが多く、男たちは妻を娶れないものが5人もおり、80歳以上の年寄りは養老の介護も受けていない。この地に、以前は128人も住んでいたが今は39人に減っている。どの請負人も私らを酷使するばかりで、凍え死ぬ者、病気で死ぬ者が多く、このままではこのコタンは滅びてしまいます。私らはご公儀の進める改俗を受け入れ、髪を切り、髭(ひげ)も剃りました。しかし、役人や支配人にアイヌの窮状を再三訴えても、聞き入れようとせず、荒縄で縛り上げ、運上所の梁に吊るして痛めつける有様です。どのような重罪に処されようとも、アイヌの子孫を絶やさずに暮らしていける願いさえ叶えば、私1人の命などどうなってもよいのです」。

 善良な彼らの苦渋の表情、怒りを内に秘めた眼(まなこ)を前にし、武四郎は「同じ皇国の民がこの北方の豊かな大地で酷使され、飢えに苦しみ、娶る女もなく、子孫が絶えていく。それを私は知りつつ、何もできずただみているだけなのか……」と苦悩する。

 第3話は「三女の困窮:ヤエコエレ婆、ヒリシュ婆、ヤエレシカレ メノコ」の話である。

「ヤエレシカレは石狩川流域の村に住んでいたが、孫を運上屋に取られ、ひとり暮らしをしていた。そのうち家も朽ち、食べるものも無くなったので、鍋1つで山に入り、山百合の根などを掘って食べ、大木の根元に穴を掘り住んでいた。一方、下流の村にヤエレシカレという美しい29歳の女性が夫と睦まじく暮らしていた。これに目を付けた番人が、例によって夫を遠くにやり、彼女をわが物にしてしまった。ところがこの番人は梅毒を病んでおり、感染した彼女は見捨てられてしまった。鼻が落ち身体もただれてきたので、一度は入水を考えたが、ひとりで暮らすべく山に入った。ここで彼女はヤエコエレ婆に会い、ともに暮らすことになったのだ。そこへまたひとり、ウリウ(雨竜)のヒリシェという老婆がやってきた。彼女も運上屋に2人の息子を取られ、体も衰えたので、長年会っていない息子たちにひと目会いたいものと、ここまでやってきたのである」。

 武四郎は次のように付記している。

「この話を耳にし、自分も彼女たちに会いたいと思い探したが、最初は見当たらなかった。しかし、帰りしなにフキの茎で作った小屋に3人はいたのだ。もはや、ヤエレシカレの身体は半ば腐乱しており、近寄ると臭気がひどい。自分もこの者達に米、煙草、針などを渡したが、箱館に帰ってから堀奉行(堀織部正)に直訴した。堀奉行も憐れな老婆たちの話に深く同情し、妹の娘を呼び直接玄米などを与え、さらに老婆たちに慰めの言葉を残した」。

「近世蝦夷人物誌」第2編の7項には、「“いざり”のオシルシ」の話が載っている。

「歩行困難なハンデがある若者に、武四郎は優しいまなざしを向けている。オシルシは一歩として歩けないが、銛(もり)や槍(やり)、そして弓矢に優れている25歳の青年だ。彼は不自由な身体ながら、川や海を泳ぎまわり、狙った獲物は取り逃がすことはない。海底の深い岩に引っかかった小舟の碇(いかり)も潜って外し、仲間を助けたりする。体が不自由なだけに、努力して技術を高めたのだろう」。

「オシルシと同じように不自由な身のイイッカも紹介している。彼は子供の頃から目が見えないが、釣りが好きで、健常な仲間の倍もの魚を釣り上げる。また感性が優れており、嵐の予想や地震の予知に特異な才能を持ち、舟の出発の頃合いや漁の模様眺めには、彼の言うことに皆が従うとのことだ」。

 武四郎が「近世蝦夷人物誌」で伝えようとしたのは、第一に、アイヌ民族に対する偏見を取り除くことである。文字は持たないが、道徳感に優れ、優しい心根を持つ姿を具体的に表現している。

 第二に、アイヌ社会が絶滅の危機にあることを多くの人たちに知らしめるため、具体例を書き連ねている。請負制度で漁場の労働力として強制的に供出され、貧困・病気・家族の別離が原因で、人口が大きく減少していることを訴えているのだ。

 そして第三に、幕府による撫育同化政策がいかにアイヌ民族を苦しめ、自尊心を奪い、生活基盤を失わせているかを訴えている。力によるアイヌ社会の日本化は混乱をもたらすばかりであることを、幕府、および明治維新後の開拓使に訴えている。松前藩の無策や横暴より、幕府や開拓使の施策により期待したと思われる。

「近世蝦夷人物誌」のあとがきを、武四郎は次のような鬼気迫る表現で終えている。

「三巻を綴り終え、5、6日の間続いた執筆活動にすっかり疲労こんぱいし、ようやく筆を机の上に置いた。机に寄りかかると、自分が七里の波濤を超え箱館に至り、山の上の屋敷の3階に上がっている様子が目に浮かんでくる。そこでは、栄華を極めた官吏たちが豪華な料理と酒で盛り上がっており、御用商人たちが幇間(ほうかん:たいこもち)として官吏の機嫌をとり、歌え踊れと場を盛り上げている。この時、一陣の風が吹き、振り返ると、お盆の上のさしみは血の滴る斗(アイヌ民族)の人肉、おひたしと思ったのは土人(アイヌ民族)の臓腑、盃(さかずき)の中は生血。見るに堪えない有様だ。前の障子に描かれているのは聖人・賢人の姿かと思えば、土人の亡霊で、あゝウラメシヤ・ウラメシヤと恨みの声を唱えている。眼がさめると、満身冷や汗を流し……」。

 これは夢の中のこととしているが、アイヌ民族の惨状が松前藩の官吏、請負商人たちの結託によるものと鋭く指摘しているのだ。「近世蝦夷人物誌」はまさに、アイヌ擁護・救済、奸吏(かんり:悪賢い役人)・奸商(あくどい商人)弾劾(だんがい)の書である。

 1858(安政5)年、武四郎が41歳の時「近世蝦夷人物誌」の上梓(じょうし:発行)願いを出すが、箱館奉行所から異議が出て却下される。上梓に反対したのは奉行所支配組頭の河津三郎太郎と言われている。

 生前ついに出版が許されなかった「近世蝦夷人物誌」が初めて活字になるのは、武四郎没後24年を経た1912(明治45)年である。

 平年より8日も早く、札幌でも桜の開花を迎えた。北海道神宮や円山公園では、色とりどりの梅の花と桜がその美しさを競演している。間もなく、桜に続き多くの花々が一斉に満開になり、北国の人間でないと味わえない春爛漫の時を迎える。