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北海道開拓の先覚者達(27)~永山武四郎~更新日:2014年07月01日

    

 雨に濡れた芝生と木々の緑が色鮮やかだ。永山庭園の一角だけが札幌市内中心部の喧騒の中で静寂さを保っている。北海道有形文化財「旧永山武四郎邸」は、サッポロファクトリー(中央区北2条東6丁目)に隣接する公園の緑に囲まれてひっそりと建っている。南側の書院座敷と北側の西洋建築が一体となっているが、1877(明治10)年に建築された当時は、南側の木造部分のみが永山武四郎の住宅だったそうだ。当時は屯田兵司令部が近くに置かれ、また工業局製作所・ぶどう酒工場・ビール工場などもあり、各種産業が集積していたという。
 今回は岩村通俊の後を継ぎ、第2代北海道長官を務めた永山武四郎について調べた。永山は屯田兵制度の父とも呼ばれ、上川に「北京(きたきょう)」を造るべく、上川・空知地方の開発にも多大な貢献を果たした人物である。
 永山は37(天保8)年、薩摩国の鹿児島藩士永山盛広の四男として生まれ、その後同じ鹿児島藩士で苗字も同じ永山喜八郎の養子となる。幼いころから藩の指南役について武術を学び、ことに槍術は奥義を極めた腕前だったという。成長に従って武人としての誉れも高まっていった。戊辰戦争では会津攻略に参加、先頭をきって攻め入り勇名を轟かせた。同じ薩摩藩の西郷隆盛や黒田清隆はとくに目をかけ期待していたという。
 幕末から明治に入ったころ、南樺太でのロシアの攻勢はすさまじく、北海道まで飲み込まんとする勢いであった。これに対して北海道には函館にわずかな砲門があるのみで、いざという時の守りはまことにお粗末なものであった。時に72(明治5)年、永山は開拓使に入り北方の開発に身をゆだねた。

 ここで、屯田兵制度について概要を説明する。大政奉還で武士が職を失うことを予想し、武士の力を北海道開拓に生かすべきだと考えたのは坂本龍馬。屯田兵制度が始まる8年も前、67(慶応3)年のころだ。
次 に士族による北方警備と開拓を実行しようとしたのが榎本武揚。江戸から逃亡した旧幕府軍の士族を引き連れ「蝦夷共和国」を立ち上げ、函館戦争を戦った。このようにロシアの侵攻に対抗するとともに北海道の開拓を推進するため、農と兵を兼ねた屯田兵制度の設置が望まれていた。
 永山は72(明治5)年に開拓使に加わると、翌年には同僚の開拓使とともに北海道屯田兵の設置を建白した。薩摩の巨人・西郷は以前から士族による北方警備を主張しており、その意思を受け継ぐべく同郷の黒田は永山らの建言を受け入れ、同年には屯田兵制度を明治政府に提言した。黒田の頭には、困窮する松前や東北諸藩の士族を救済することがあったのだろう。明治政府太政官は黒田の建議に賛同し、74(明治7)年に細則が定められ、屯田兵制度が始まる。
 翌75(明治8)年に開始され、1904(明治37)年に解散するまでの間、道内各地に37の中隊が配置された。7337戸の兵家に家族を含め3万9900人余りが北海道に入植した。本格的な北海度開拓が展開され、今日の発展の礎になったのだ。この間、その中心となって屯田兵制度を築き率いてきたのが永山である。

 屯田兵制度を前期と後期に分けて説明すると、前期の募集は士族のみが対象であった。1875~1876年の琴似を皮切りに、山鼻、江別、野幌、篠路など札幌近くの石狩地方に屯田兵を展開した。200戸が1中隊となり兵村をつくり、中隊がいくつかまとまり大隊を編成していた。屯田兵は士族に限られていたので、自負心に富んだ兵士の集団である。また戊辰戦争で敵味方の関係だった者たちもおり、上官の命令には簡単には従わなかった。それ以上に困難だったのは、屯田兵のほとんどが開拓の経験も技術もなく、鎌の使い方・鋸の目立てまで手取り足取り指導しなければならなかったことである。指導者も技術を修得しているわけでもなく、営農の方法、入植地の選定、村落の構成、土地の配分など、あらゆる開拓の問題は屯田兵内で試行錯誤された。その経験が後の屯田兵開拓の効率を高め、付近の開拓農村の模範となった。
 77(明治10)年、発足したての屯田兵は西南戦争に参加し戦闘を重ね、その勇猛ぶりを明治政府に認めさせた。その要因として、屯田兵には東北諸藩の士族が多く、戊辰戦争の敵だった薩摩兵士を相手とする戦いに奮い立ったといわれる。一方、薩摩出身の将校たちの戦意が乏しかったのも当然だろう。
 永山は87(明治20)年、ロシアに赴いてコサック兵の制度を調べ、翌年にこれを参考にして屯田兵拡大の具体策を立てる。88(明治21)年、黒田清隆が総理大臣になると、黒田に重用されていた永山は屯田兵部長を兼任の上、岩村通俊の後を継いで2代目北海道長官となる。これにより屯田兵制度の改革と増設計画が急速に進んだ。後期屯田兵制の開始である。
 後期屯田兵では、上川・空知に重点が移されて滝川、美唄、永山、旭川、当麻、江部乙、深川などに次々と兵村が築かれていった。90(明治23)年、士族に限られていた屯田兵資格を撤廃し、族・籍に関係なく募集できるようにした。平民屯田兵制である。農・商・工の経験者が参加したことで、屯田兵村の経営(農業生産高、販売、農業用工具利用)が著しく高まり、兵村は経済村としても開拓農民の模範として成功していく。同年、永山は札幌農学校に兵学科を設け、これを終了した者を将校に採用し、多くの人材を登用するとともに屯田兵の士気を高めた。

 さて、初代北海道長官の岩村通俊は上川に「北京(きたきょう)」を造ることを提唱したが、時の政府に認められなかった。岩村の後を継いだ永山は「離宮」の設置を申請。89(明治22)年には上川地方を視察し「上川離宮造営地設定の議」を建白し、親分である総理大臣・黒田清隆の裁可を得る。離宮護衛のため多くの屯田兵を上川地域に入れ、今日の旭川市街を設計した。その屯田兵村の一つが武四郎の名を取った永山村(上川郡永山町)である。残念ながら、札幌・小樽地区の反発と日清戦争で、離宮の建設は実現しなかった。しかしながら、この時期に首都機能の一部移転を実現しようとした岩村と永山の発想は見事というしかない。
 また、永山は全道にわたって広大な御用林を造営し、これが北海道の重要な林産資源の基になった。さらに、北海道の石炭資源の開発にも大きな足跡を残した。夕張・空知の炭田を開発するため、650万円(明治30年の1円が3800円として247億円)という資本金で北海道炭鉱鉄道会社が設立された。北海道の資源開発に拍車をかけたのも永山なのだ。
 なお、北海道の屯田兵が土台となり、94(明治27)年の日清戦争では臨時第7師団が、96(明治29)年には第7師団が上川の地に設けられ、永山は陸軍中将・師団長として日露戦争を戦っている。旅順と奉天の戦いでは乃木将軍の第3軍に属し、屯田兵を含めた第7師団は戦死者3142人、負傷者8222人を出す猛烈ぶりだった。
さらに、ロシアとの衝突を見越し、札幌にロシア語研究所を設けたのも永山。生徒数は200人。日露戦争で第7師団は通訳を必要としなかった。

 1904(明治37)年5月27日、永山は67歳で急逝した。北海道の土となり死後も北海道を守るとの本人の遺志で遺体は上野から列車で札幌に移され、自邸に安置された。儀仗兵一個大隊に守られた棺は、会葬者の人垣で埋め尽くされた道を通り豊平墓地に埋葬された(その後、里塚霊園に移されている)。

 昨年の今頃は円山公園の池で鴨の赤ちゃんが数多く泳いでいたが、今年はなかなか見ることができず、やきもきしていた。札幌まつりが終わったころ、ようやく8羽の赤ちゃんが誕生し元気に母鴨の後を追いかけていた。過去形なのは、その後少なくなり今は3羽に減っているのだ。母親はカラスや蛇などの天敵から子どもを守るため、池の中央にある小島で子どもを抱えたまま動こうとしない。かわいい元気な姿を見れないのは残念だ。

 吹雪の日も雨の日も毎日、早朝体操に参加した努力が実ったのだろうか。6月15日開催した小樽運河ロードレースで10キロの部に参加し、完走することができた。老いてもまだまだ走れたという達成感を感じている。
 次回は、我が国初の洋帆船を造った続豊治を取り上げる。