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北海道開拓の先覚者達(22)~トーマス・ライト・ブラキストン~更新日:2014年04月15日

    

 冬季オリンピックが開催されたソチの北西方向にクリミア半島がある。「黒海の真珠」と呼ばれる美しい保養地が、一転して地政学的リスクの中心地となり、世界から注目されている。クリミアを住民投票でロシアへ編入することに成功したプーチン大統領は「つらく長い航海を終え、クリミアとセバストポリが生まれ故郷の港に帰ってきた」と演説した。その際、10万人を超えるロシア国民の喚起の叫びが会場に轟いたと報道されている。
 EUや米国などは軍事力を背景にした国際法に反する侵略であるとして、ロシアの行動を強く非難しており、今後世界の政治・経済に多大な影響を及ぼす可能性がある。今後注意深くその推移を見守っていかなければならないだろう。

 プーチン大統領が触れた「つらく長い航海」は何を意味するのだろうか。東西の要衝であるクリミアを巡り、歴史的に国家間の争いが絶えなかった。
特に1853年から1856年にクリミア半島などを舞台に繰り広げられた戦争では、死者が10万人以上出たと記録されている。この戦争はクリミア戦争と呼ばれ、フランス、オスマン帝国、イギリスを中心とした連合軍とロシアが戦い、近代史上まれに見る激しい戦いだった。この戦争ではナイチンゲールが看護婦として従軍し「クリミアの天使」とたたえられ、ダイナマイトを発明したノーベルは機雷設置請負で財を成し、文豪トルストイは将校として従軍し「セヴァスポリ物語」を執筆したなど、多くの歴史的逸話が残されている。

 さて、本稿の主人公トーマス・ライト・ブラキストンは箱館に23年間も滞在し、その間蝦夷地の特有な動植物分布を調査研究、北海道の産業育成にも努めた人物であるが、彼はクリミア戦争にも参加している。
 ブラキストンは1832年(天保3年)イングランドに生まれ、少年時代から鳥類に特段の興味を抱いていたといわれる。陸軍士官学校卒業後、イギリス軍の近衛砲兵将校としてクリミア戦争に従軍した。クリミア戦争はイギリスなどの同盟軍の勝利に終わったが、ブラキストンはロシアの黒海艦隊の基地となっているセバストポリ攻略にも参戦し、多大な戦果を挙げた。しかし、残念ながらこの戦争で弟のローレンスが戦死している。
 クリミア戦争従軍後イギリスに帰還した1857年、ブラキストン24歳の時にカナダのハドソン湾やフォート・エドモンドでの地質調査をおこなっている。カナダ滞在中には独力でロッキー山脈も踏破した。
 1860年(万延元年)、大尉に昇進して清国広東守備隊の指揮を命じられる。
翌1861年、5カ月にわたって揚子江流域調査を実施する。その探検記録を整理するために選んだ場所がなんと箱館。ここに3カ月間滞在する。この間に作成した研究レポートは優れたもので、翌年「英国王立地理学賞」が授与されている。
 揚子江流域調査がきっかけとなって、ブラキストンはイギリスの「西太平洋商会」に雇われ、支配人として箱館に再度来訪する。商会では貿易船3隻を駆使し、手広く貿易業や製材業を営む。この時ブラキストン30歳。
この頃、日本で始めての蒸気式製材機を採用している。この機械は優れもので、箱館奉行所もその技術を学ばせるため多くの伝習生を送り込んだそうである。町民からは「木挽きさん」と呼ばれ親しまれたそうだ(北国諒星著「幕末維新えぞ地にかけた男たちの夢」から)。
 1867年(慶応3年)、「西太平洋商会」から独立し、英国人のジェームス・マルとともに「ブラキストン・マル商会」を設立。交易・製材業を拡張していった。
 1868年(慶応4年)10月、戊辰戦争で幕府側の敗色が濃厚となり、榎本武揚は艦船8隻を率いて品川沖を脱出、渡島半島(今の森町近く)に上陸した。その後、榎本は五稜郭を拠点として「蝦夷島政権」を誕生させる。
当時箱館府の知事であった清水谷公考(きんなる)は青森口への撤退を余儀なくされる。箱館府の庇護下にあった「ブラキストン・マル商会」は、新政府軍のため武器・食料・石炭の調達に機動力を発揮。香港・上海・横浜を舞台に物資調達に全面協力した。一方、幕府脱走軍敗残兵たちを自社の船で東北地方に逃がしてやるなど、人道的な措置も施している。

 さて、幕府が崩壊し維新戦争が終わると軍用物資の輸送が減少し、さらに新たに誕生した開拓使の事業が軌道に乗ってくると運送事業の競合相手も増え、ブラキストン・マル商会の保有船の動きが鈍くなった。その上、自社船の沈没もあり海運事業が困難になっていく。自己資金不足から、資金調達のため発行した「ブラキストン商会証券(今の株券)」にも新政府からクレームがつき、発行禁止となった。この証券の印刷はドイツの会社に依頼していたが、たまたま日本新政府の紙幣印刷も同じ会社であったため、明治政府の知るところとなったのである。大蔵省はこの株券を紙幣とみなし、その流通を差し止めたのだ。このため事業資金の調達が困難になっていく。
 その後もブラキストンには不幸が重なった。使用人殺害の疑いで訴えられ(実際は盗みを働いた使用人を折檻し小屋に入れたところ、縛ったなわを解き首を吊って自殺)、またドイツ領事が殺害される事件が起き、1883年(明治16年)春、失意の中とうとう函館を去りアメリカに移ることになった。

 ブラキストンは自尊心が強く、短気で気難しい一面を持っていた反面、驚くほど私利私欲の無い人物で、何よりも日本文化をこよなく愛していた。
鳥類に格別な興味を抱いていた彼は、函館滞在中、日本の野鳥を熱心に調査研究し、そこから津軽海峡に動物分布の境界線があるのではないかと推察した。
 1883年2月、渡米の直前にブラキストンは「日本列島と大陸との過去の接続と動物的兆候」と題した研究成果を日本アジア協会の例会で発表する。
 蝦夷地質学外伝によると、「蝦夷地ならびにそれより北方の諸島は、動物学的に申せば日本ではなく、北東アジアの一部なのであります。そこから、本州は津軽海峡という疑いのない境界線で断ち切られたのであります。(上野益三著「お雇い外国人」の日本語訳)。
こうして発見されたのが津軽海峡における動物分布境界線「ブラキストン・ライン」である。北海道の鳥類・動物はアムール川(黒竜江)から津軽海峡を境としてシベリア亜区に属することを証明したのだ。時にブラキストン50歳。この説は世界の学会に認められることになった。
ウィキペディアによると、ブラキストン・ラインを北限とする種は、ツキノワグマ、ニホンジカ、ライチョウ、アオゲラなどがあり、逆に南限とするのがヒグマ、エゾジカ、エゾシマリス、ヤマゲラ、シマフクロウなどである。ゴキブリもこの線を北限としており、北海道の一般家庭ではほとんど見かけない。
シマフクロウは北海道のシンボルだが、その学名は“bubo blakistoni Seebohm”と、ブラキストンの名前が付けられている。
 ブラキストンは蝦夷(北海道)と日本は別なものとみなしており、どうも「蝦夷(北海道)」は好きだが「日本」は嫌いだったらしい。

 函館山の山頂には黒御影石と白御影石の組み合わせで作られたブラキストンの碑が立っている。碑に刻まれている顔から、頑固で生真面目なブラキストンが偲ばれる。私も函館に住んでいた時分、何度か訪れたものだ。

 エピローグ

 アメリカに渡った1883年8月、ブラキストンはワシントン州で偶然にエドウイン・ダンに再会する。ダンは開拓使のお雇い外国人でケプロンやクラークとともに北海道に招かれ、長く酪農や畜産を指導してきた人物である。当然ブラキストンと親交があり、一緒に豊平川でマス釣りをした間柄である。
 ダンの家に数日だけ滞在する予定であったブラキストンは、なんとダンの姉アンヌ・マリーに心を惹かれ、滞在を伸ばし熱心に彼女を口説き続けた。その努力が実を結び、滞在中に彼女の承諾を得ることができた。
 1885年(明治18年)、53歳で彼女と結婚し2人の子供を授かったが、サンディエゴで肺炎になり58歳の生涯を閉じる。
彼の遺体は夫人の実家であるオハイオ州コロンバスに埋葬されている。オハイオ州に私は3年間住んでいたこともあり、今から思えば「分かっていたならお参りに行けばよかったのに」と悔やまれる。

 円山公園の積雪も見る見るうちに少なくなり、そこをエゾリスやエゾシマリスが走り回り、アカゲラが巣を作る音が聞こえてくる。
もうすぐ北海道の春だ。

 次回は、村山伝兵衛を取り上げたい。