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北海道開拓の先覚者達 総集編―2更新日:2016年12月01日

    

 クナシリ・メナシの戦いが起こった1789年から1801年にかけ「音羽先生」(江戸神田音羽町)と呼ばれていた江戸の経世家(世を修め国民を救う)、本多利明が「経世秘話」という書籍を出した。私は本多利明こそ、蝦夷地(北海道)開拓のグランドデザインを描いた人物と評価している。

 本多は1783年に発生した天明の大飢饉からわが国が立ち直る政策として「経世秘策」の中で、早急に打つべき施施策として「四大急務」を訴えた。その内容は開国・交易を推進するとともに、属島(未だ開拓に着手していない日本に属する島々で、蝦夷・千島・樺太)の開発に着手すべきという富国政策である。蝦夷地の本格的開拓を指摘したのだ。

 世界の大都市は北緯40度以北に位置しており、英国やオランダの首都は北緯50度以北。蝦夷地はまさに最適な場所である。「カムチャッカ半島に大都市を創り、そこを拠点として樺太・中国大陸・北米に発展していく戦略を執るべき」とも記載している。「幕府がこのまま蝦夷地を弱小の松前藩に任せ、手をこまねいていたなら、ロシアの南下により蝦夷地を失うことにもなろう」とも指摘している。

 その本多の弟子が最上徳内。最上は本多の指示のもと、9度にわたり蝦夷地を調査・探検している。この間、アイヌの人々と生活をともにし、アイヌ語にも精通。アイヌ民族をとことん理解した人物である。クナシリ・メナシの戦いは幕府の耳にも入り、その調査のため青島俊蔵を幕府密偵として任命。最上はその案内人として同行する。3度目の蝦夷地渡航であった。

 帰京後、2人は報告書を提出したが、その内容が幕府老中の逆鱗に触れ、2人は投獄される。最上は瀕死の重病となったが、恩師の本多が八方手を尽くして救出し「放免」される。一方、青島俊蔵は獄中で病死した。

 病床中に最上が書いたのが、有名な「蝦夷草紙」である。「蝦夷草紙」には、「蝦夷錦」を手に入れるためアイヌの子供達が人質として捕らわれている状況や、松前藩によるアイヌ民族への圧政と、ロシアの動きに対して松前藩がまったく無防備であることも指摘されていた。

「蝦夷草紙」に記載された内容により、幕府はクナシリ・メナシの戦いの裏にはロシアが絡んでいるのではないかという疑念を抱き始めた。そこでクナシリ・メナシの戦いのいきさつ、さらには松前藩の動向を調査すべく、蝦夷地巡見隊を派遣する。調査のため蝦夷巡見隊を派遣したが、その先遣隊長となったのが近藤重蔵である。最上の案内で近藤はクナシリからエトロフに上陸し、そこに「大日本恵登呂府」という碑を建立している。帰路、近藤は鵡川辺りのアイヌの人々が義経伝説を信じている事を知り、江戸に戻ってから金色の義経像を寄進する。これが現在平取神社の守護神だ。

 近藤らの調査により、幕府は松前藩から東蝦夷地を取り上げ仮上知とし(1799年)、その後松前・西蝦夷地一円も幕府管轄として松前藩は奥羽・梁川に移封された(1807年)。

 クナシリ・エトロフの荒れ狂う海峡に航路を見出し、近藤・最上のその後の渡航を助けたのが高田屋嘉兵衛。高田屋について、司馬遼太郎はその著「菜の花の沖」で「今も、世界のどんな舞台においても通用できる人」と絶賛した人物だ。高田屋は道東・クナシリ・エトロフで広範囲に漁業を営み財を成すが、1812年、ロシアの軍艦ディアナ号に捕らえられ、カムチャッカに連行される。

「捕らわれと相成り候以上、大丈夫にて(堂々と)掛け合い(交渉)いたすつもり候」と手紙を残し、ロシア艦船に乗り込む。副艦長のリコルドは高田屋の堂々とした態度と人物に惹かれ、寝食をともにして語り合った。リコルドの目的は松前に幽閉された艦長のゴローニンを救出することとわかり、高田屋はともに松前に行き艦長救出に成功する。この一件で、ロシアと日本との関係は改善、しばらくの間一切の紛争は発生しなかった。

 ロシアは嘉兵衛の尽力に感謝し、航海中に丸高印(高田屋の持ち船)の船に遭うと、お互いに手旗信号で航海の安全を確認し合っていた。ところが、松前藩と幕府はこれを密貿易とみなし、高田屋の跡を継いだ弟・金兵衛の財産をすべて没収する。松浦武四郎の記載によれば、その総額は今の日本国の予算に匹敵するほどの巨額にのぼるそうだ。

 さて、高田屋嘉兵衛がロシア艦隊に捕らえられる以前、同じようにロシアの侵犯(文化の露寇)により択捉島で捕縛され、シベリアに送還された人物がいる。その名は中川五郎治。中川はシベリアで5年間の抑留生活を余儀なくされたが、その間にゴローニンが捕らえられ松前藩に幽閉されるという事件が起きた。ロシアはゴローニンを救い出すため、中川を捕虜交換要員として指名し、リコルドが連行して蝦夷地に向かわせた。シベリアを移動中、中川はある商人の家に泊まり、そこでジェンナーの「天然痘・種痘」の書(ロシア語版)を手に入れる。6年ぶりに蝦夷の地を踏み中川は松前に帰るが、リコルドの命に背きゴローニン救出には動かなかった。それから10数年が経ち、箱館に天然痘が流行した。中川はジェンナーの本を参考に「種痘」を患者に施し、多くの人命を救っている。これがわが国で初めての「種痘」による天然痘の治療であった。

「クナシリ・メナシ」の戦いで飛騨屋久兵衛はそのすべての責任を負い、厚岸・霧多布・国後・宗谷の4場所を松前藩に没収される。飛騨屋没落の後、これらの場所を松前藩から管轄を任せられたのが3代目の村山伝兵衛である。村山家は能登出身で阿部屋(あぶや)を称し、1750年から宗谷・留萌や増毛の場所を請け負い、アイヌの人たちにも漁業を教えるなど、場所請負人として繁栄していった。3代目が飛騨屋の請け負っていた場所を手に入れてから、村山家は巨万の富を築き、西の横綱・鴻池家と並び東の横綱とまで称されていた。しかし、吉原の遊女を妾に持つなど放縦・傲慢な生活をしていた松前藩八代目藩主・道廣の策略により、すべての財産を松前藩に没収される。

 江戸後期から明治の初めにかけ蝦夷地で、林業・漁業で蝦夷地を舞台に繁栄を極めた豪商は、飛騨屋久兵衛、村山伝兵衛、高田屋嘉兵衛、そして栖原(すはら)角兵衛の四家といわれている。飛騨屋、阿部屋(村山家)、高田屋は、松前藩や幕府によって没落させられたが、栖原家はどうなったのだろうか。栖原家は代々角兵衛を名乗っていたが、6代目は天売・焼尻・留萌・苫前、そして十勝場所を請け負い、事業は順調に推移する。7代目の時に飛騨屋が没落し、択捉場所を任され、益々隆盛を誇る。10代目になると、松前藩の財政までも事実上任されるまでにその経済力・影響力は高まる。明治になり、開拓使が北海道を管轄するようになると、樺太場所の開発を依頼される。しかし、1875年に樺太・千島交換条約が締結されると樺太場所を手離さざるを得なくなり、今のお金で240億円もの財産を失うことになる。1895年には三井物産に事業をすべて移譲せざるを得なくなった。

 クナシリ・メナシの戦いの全責任を負い飛騨屋は破産したが、村山伝兵衛、栖原角兵衛らとともに、飛騨屋の請負場所を引き継いだのが佐野孫右衛門。4代目孫右衛門(米屋:よねや)は石狩13場所を請け負っていたが、飛騨屋没落後、久寿里(くすり)場所(現在の釧路・白糠・厚岸一帯)を引き受け大いに繁栄する。飛騨屋はアイヌ民族を酷使するとともに、非人道的な扱いをしていたが、佐野孫右衛門はアイヌの人々や漁民から慕われていたという。釧路市にある佐野碑園(小公園)には伝右衛門の功績を称える碑が建てられており、釧路地方開拓の祖として市民から慕われている。

 次回は、江戸幕府後期の蝦夷地開発を、堀織部正を中心に取り上げる。