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北海道開拓の先覚者達(15)~本多利明~更新日:2014年01月06日

    

新年明けましておめでとうございます。本年も読者の皆様にとって輝ける年になることを祈念申し上げます。
 新雪の北海道神宮は荘厳で静寂な空気に包まれている。身の引き締まる思いの中、2014年のブログをスタートさせていただきます。昨年末も、積もった雪をかき分けかき分け、白い息をまるで馬車馬のように吐きながら神宮の早朝体操に参加しました。100名近い御同輩が、厳寒の中集まりました。

 さて、本年の第1回目のブログでは、壮大な北海道開拓をデザインした先覚者について記載したい。その主役は本多利明。

 本多利明は1743年(寛保3年)、越後(新潟県)に生まれ、18歳で江戸に上京。関孝和の高弟に数学を学び、また天文学・剣術を習得し、24歳にして江戸音羽に塾を開き、数学・天文・地理・測量技術を教える。江戸後期の経世家(経世済民の論を唱えた知識人、オピニオンリーダー)として高名な学者である。
 当時、江戸では本多をその徳のある人柄と学識の高さから「音羽先生」と呼び親しんでいた。司馬遼太郎が「菜の花の沖」で「一世の怪傑である」と称した最上徳内を見いだし、門弟に加えたのが本多である。
 最上は松前藩から嫌疑をかけられ牢に入れられる。獄中、病気になり死線をさまよったが、八方手を尽くして最上を救ったのも本多である。本多が北方探検の祖、最上を見いだし指導しなかったら、後に続く間宮林蔵や松浦武四郎を始めとした蝦夷地開拓の先駆者も現れなかったのではないかと言われている。

 本多と北海道との関係について進めていきたい。
 本多は西欧諸国が国力を高めているのは優れた科学的航海法によるものだと考え、蝦夷地開拓もコンパスを利用した航海法によるものでなければならない、と主張していた。1801年には自身も厚岸・根室などの地に測量用具を用いた船舶で訪れ、その主張を実践している。
 彼の蝦夷地に関する詳細な知識と開発に関する戦略は最上との共同作業によってもたらされたといっていいだろう。
 江戸幕府が1785年、第1回調査隊を蝦夷地に派遣した際、本多は42歳になっており渡航は体力的に困難とし、最上を代わりに派遣させている。最上はその後20年にわたり9回も蝦夷を探検。その都度、詳細な資料をもって本多に報告し、多くの書物を著すなど共に蝦夷地開拓の研究に励んだ。
 本多はかねてより新天地の開拓こそ日本の国力増強の要であると、蝦夷地の開拓を主張していた。地理学者として、数学者として本多は世界地図から蝦夷地の緯度に着目している。
「蝦夷地は湿地で和人が居住することは困難なところといわれているが、それはいまだ開墾が行われず草木が生い茂り地面を覆っているからだ。世界中で栄えている多くの都市は北緯40度あたりに位置し、豊かな農産物をもたらしている。蝦夷地も同じ緯度にあり、火を放って草木を焼き、畑作を行えば作物ができないはずはない。作物ができれば鉱山も商工も自ら開けよう。日本とロシアの国境も明確になり、侵入を防ぐ防波堤ともなる。蝦夷地開拓により国富が増進し、国内の過剰人口の受け入れの地にもなりうる。それには天文・数理の研究を怠らず、北方に適する衣食住を研究すべきである。松前藩の如き小藩、若しくは利のみを追う商人にまかせておくべきではなく、官船を派してこれに当たるべきである。」
 さらに、次のような大構想も述べている。「蝦夷本島は北緯40度より43度の間にあり、支那の順天府(今の北京:北緯39度)と気候は等しい。また、オランダの首都(アムステルダム)は北緯52度にあり蝦夷よりはるか北に位置している。これら諸国は進んだ国である。エゾ諸島も開拓することによって発展することは疑いのないことだ。
 世界で最も進んだ国家であるイギリスの首都は北緯51度に位置している。同緯度にあたるカムチャッカ半島中心部に大都会ができたなら、北方圏はもとより米国の諸島(アリューシャン列島か)も支配下に置くことができる。これにより富裕な日本が建設できるであろう」と、1798年(寛政10年)に著した西城物語で語っている。
イギリスはメキシコ湾流の関係でカムチャッカ半島よりも温暖であるのを本多は見落としていたのかもしれない。しかし、カムチャッカ半島を北緯43度の札幌に置き換えたならば、本多の指摘はまさに当を得たものと言えるだろう。
 首都を京都から江戸以遠の土地に移すべき、とした北海道開拓使初代長官・鍋島正直、札幌を北京(きたきょう)と改称し夏季には天皇にお住まいいただく行宮にすべきとした島義勇、上川地方を北京とし首都機能移転を論じた初代北海道庁長官・岩村通俊の考え方に継承されるものだ。

 なお、UCLA教授ローレンス・スミスが科学データをもとに2012年に出版した「2050年の世界地図」では、地球温暖化が進行することで、北方圏(NORCs:ノース・リム・カントリーズ)が社会・経済・文化で今後優位性を大いに発揮し、顕著な成長を遂げるであろうと述べている。スミスは今後一層発展する都市として、カナダのトロント、オタワ、バンクーバー、米国のミネアポリス、ポートランド、シアトル、ロシアのウラジオストックの各都市を挙げている。興味深いことに、これらの都市はほぼ北緯43度上に位置している。札幌もまさに同じ緯度線の上にある。
 本多利明の先見の明に改めて感心する。

 本多は「日本国務:国としての最優先課題」として、我が国が力を入れなければならない分野は渡海・運送・交易と指摘している。鎖国政策を敷いていた江戸時代後期に貿易の重要性を説いているのである。
「万国に船を遣り、国用の要用たる産物、及び金銀銅を抜き取って日本へ入れ、国力を厚くすべきは海国具足の仕方なり」と、多くの国々との交易を高め、我が国で特に必要とする物資や貨幣の基となる金銀を交易し、国を富ます必要性を説いている。1865年の開国より100年近く前から、日本の進む道として貿易立国を唱えているのだ。
 明治以降、一時期を除いて日本は常に輸出が輸入を上回り、国の資産が積み上がってきた。しかし、2011年から輸入が大幅に増え貿易赤字が続いている。2013年10月は貿易赤字が1兆円を超え経常収支まで赤字になっている。11月も貿易赤字が過去2番目の大きさとなり、12月・1月は輸出が減少する時期なので、経常収支も4カ月連続で赤字化する公算が大である。国富の流出が始まっているのだ。貿易収支のみで見ると、数年前と比べ当時の黒字と13年の赤字との差は実に20兆円にもなる。
 原発の停止による化石燃料の輸入増大が主因ではあるが、電気機器や電子部品といった日本が優位に立っていた産業部門の競争力が大きく損なわれ、輸出の大幅減少と輸入増加の要因にもなっている。
 貿易立国であったはずの日本におかしな気配が生まれてきている。本多は「国用万事の根本たる金銀銅(通貨)なれば、日本を出て異国へ抜け行かぬように制度建立すべし」と説いているが、現在の日本は通貨が海外に流れ出し始めている。
 さらに本多は「流通させる金銀に一定の枠を定め、士農工商(階層別所得)をしっかり保つこと。通貨量を多い少ないに応じて伸縮させ、物価を調整することは世を治めるための政治第一の役割」と説いている。
 異次元の金融緩和で、一定の枠を定めるどころか市場には通貨が溢れかえっている。しかし、その恩恵に浴しているのは一部産業や輸出企業の正規雇用者に限られている。輸入産品の高騰により非正規若年雇用者や高齢者の負担は増しており、階層別の格差は広がっているのではないだろうか。
 ほかにも本多は国のかじ取りをする為政者(国君、幕府、天皇、政府)に慈(いつくしみ)と仁(いたわり)の志を持つことを求めている。慈仁の根本は「明察」と「問うこと」と論じている。明察とは君主(政府)の方から明智をもって推察することであり、問うこととは国民の方から問題を提起してもらうことだ。「非難や抗議までも受け入れ、短所を退け長所を発揮し、小さな成果も大きく取り上げ、全ての意見を入れて民衆を助ければ何事も適う」と、封建社会の中で民主主義の根幹を示しているのだ。
 江戸の人々に親しまれる「音羽先生」であったが、1821年(文政5年)3月、78歳で永遠の眠りに着いた。その年、幕府は蝦夷地の直轄を止め、再び松前藩に返した。アイヌの人達への慈仁が消えていってしまうことになる。本多が生きていたならばどうしたであろうか。

次回は伊能忠敬について記したい。