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北海道開拓の先覚者達(71)~屯田兵制度(琴似屯田兵村―1)~更新日:2016年05月16日

    

 札幌市西区の中核エリア、琴似。地下鉄・JRの両駅周辺には高層マンション、大型商業施設、商店街や飲食店街、銀行などのオフィスビルが建ち並び、さらに発展を続けている。その中心になっているのが「琴似本通り(琴似栄町通り)」で、昼夜を分かたずにぎわいを見せている。

 だがわずか140年ほど前の1874(明治7)年、まだ木々の生い茂っていたこの地に、北海道初の屯田兵村が建設。琴似本通りの両側に210戸もの兵屋(へいおく)が建てられたのだ。地下鉄東西線琴似駅の近くに、当時のまま今も残されている兵屋や、琴似神社に移転され保存されている兵屋を訪ねると、当時の入植者の苦労がしのばれる。

 北海道の開拓にあたって、また北海道の開拓精神の文化を築き上げる過程において、屯田兵として入植された方々の努力と果たした役割はきわめて大きなものだった。屯田兵の多くは士族出身者で、教養も比較的高く、倫理観に優れ、かつ武士的な気骨を持っていた。そんな人々が過酷な未踏の地で筋金を通して開拓にあたったのだ。屯田兵の開拓なしには今の北海道の繁栄はなかっただろうし、また彼らの艱難辛苦(かんなんしんく)を学ばずして、今後の北海道の地方再生は難しいのではないだろうか。

 本号を第1回として、屯田兵制度と屯田兵村について、1977(昭和52)年発行の「北海道の研究―第5巻」、「琴似屯田百年史」などを参考に書き連ねていこうと思う。

 江戸時代、蝦夷地に本土から多数の移民を送り込もうという“蝦夷地開拓論”は無数にあった。しかし、場所請負制度に安住していた松前藩や場所請負人は、自分たちの権益を維持しようとして移民受け入れを望まず、むしろ妨げていた。さらに蝦夷地に多くの移民を送り込むためには農業を興さなければならなかったが、当時の技術で蝦夷地内陸部での農業を成功させることは不可能に近かった。このため、移民の対象とされたのは罪人・無宿人・非人・浮浪者などで、これらの厄介者たちを強制的に移住させようとの考え方が主流であった。

 岩倉具視が1868(明治元)年に朝議へ提出した蝦夷地開拓の基本方針でも、内地からの移民は東北諸藩士・脱藩人・非人・流罪の犯罪者で、良民は追々送るべきとしている。

 1879(明治2)年、開拓使が開設された時、根室地区担当の開拓判官となった松本十郎は、東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)長官、島義勇判官、岩村通俊判官らと箱館に向かった。その船に同乗していたのは、東京府から集められた500人もの浮浪者たちだった。

「蝦夷地開拓の先陣が非人・乞食とは……」と、松本判官は慨嘆したと伝わっている。その後、松本は彼ら浮浪者の多くを根室から追い出している。もちろん、浮浪者たちが北海道開拓を担うことができるわけもなく、この計画はたちまち失敗に帰した。もし、その後も北海道がこれら浮浪者の追い出し先であり続けていたとしたら、今の発展はありえなかっただろう。あまりにも北海道を馬鹿にした話である。

「未開の大地開拓」と「北方(ロシア)に対する防備」という本来の目的に向け、その範となったのが、伊達邦成公とその家老田村顕充(あきまさ)率いる有珠郡移民団である。伊達亘理(わたり)藩は、戊辰戦争の敗戦で所領を2万4350石からわずか58石にまで減らされ、8000人近くの家臣たちが路頭に迷う羽目になった。家臣らを養うため、同藩は強制ではなく、自ら出願した者たちを北海道に移住させた。1871(明治3)年から1873(明治5)年までの3年間で351戸、1535人を移住させ、300町を超える土地を開墾した。1874(明治7)年には西洋型の馬によるプラウ(犂:すき)も導入したほか、牧牛などの多角経営にも着手している(本ブログ2013年11月1日、15日分参照)。

 同藩の有珠郡入植に続き、伊達邦直率いる伊達岩出山藩の当別入植、佐藤孝郷(たかさと)率いる伊達白石藩の札幌白石入植など、士族の入植が北海道開拓の主流になっていった。主君を中心とする旧藩士の忠誠と団結が、困難な開拓事業を推し進めたとみるべきだろう。

 常日頃「つまらぬ貧民を幾千人移住させても、北海道に自立した経済はもたらされない」と嘆いていた当時の黒田清隆開拓次官にとって、伊達士族団の成功は北海道開拓の方向性として心強く感じたことだろう。

 1871(明治4)年、東久世長官が辞任すると、黒田は次官のまま開拓使の頂点に立ち、北海道開拓を率先推進する立場になった。さらに、自ら米国に行き、農務長官だったケプロンを始めとした外人顧問団を招聘することに成功。総額1000万円(現在の貨幣価値で2000億円)の北海道開拓10カ年計画を立ち上げた。

 この同年には廃藩置県制度が施行されて大量の失業士族が発生。これに反発する士族の反乱(佐賀の乱、萩の乱、西南の役など)も起きて、世の中は騒然となってきた。

 このような時、黒田は士族救済、北海道開拓、および北方警備を目的とした屯田兵制度を施行すべく明治政府に建白する。伊達亘理藩による有珠移住の成果が黒田を後押ししたのだろう。1873(明治6)年11月18日(直接関係はないが私の誕生日)、屯田兵建白書を提出し、翌年10月には屯田兵例則が制定される。

 1875(明治8)年5月、奥羽地区の戊辰戦争経験者から募集した屯田兵198戸(後に204戸)が琴似に配置された。この琴似屯田兵村に始まり、1899(明治32)年までに合計733戸、3万9000人が全国から集まり、屯田兵として北海道に移住した。士族移住団とともに、屯田兵として移住された人々によって、北海道の礎が造り上げられたといってよいだろう。

 琴似屯田兵村を開設するにあたり、黒田がその設計と施工を命じたのが薩摩藩出身でサッポロビール産みの親といわれる村橋久成。当時の開拓使本庁(札幌)の大判官は松本で、屯田兵村を琴似ではなくチキサム(月寒)に置くことに固執していた。しかし村橋は、札幌の防備と農地開拓には琴似がより適しているとの考えを曲げず、琴似の地で原生林に多数の人夫を送り、測量、抜木、道路敷設と、兵村建設を推し進めていった。上官の意向に背いたことになり、免官を覚悟の上だったろう。

 屯田兵村計画地に10間幅の中央道を敷設し(この道が現在の琴似本通り)、そこを中心として碁盤の目のように道路を設け、その両側に1戸150坪の区画を198面配置した。各区画には、約15坪の兵屋(8畳、4.5畳、居間兼台所、土間)と畑が割り当てられている。地下鉄東西線琴似駅近くにある国指定史跡「琴似屯田兵村兵屋跡」には、今も畑が当時のまま残っており、管理者によれば今年も大根、人参、たまねぎ、カボチャ、枝豆、じゃがいも、とうきびが収穫される予定とのことだ。

 1875(明治8)年、村ができ上がると、第1陣として屯田兵198人、家族を合わせて965人が入植した。「琴似屯田百年史」に、入植した人々の氏名と出身が記載されているが、最も多いのが青森県斗南(となみ)藩士で50戸を超えている。

 戊辰戦争で朝敵とされ、徹底的に薩長軍に打ち負かされたのが松平容保(かたもり)を藩主とする会津藩。23万石の領地は没収され、4700人の謹慎が漸く解かれたのが1871(明治3)年。代替として与えられた地が旧南部藩(青森県下北半島)である。この地は斗南と名付けられた。所領は3万石というものの、斗南は極寒の地で、さらに藩領の多くは火山灰に覆われた不毛。実質の収量は7000石に過ぎなかった。この地に1万7000人あまりが入植。しかし飢餓が相次ぎ、悲惨な生活を余儀なくされた。

 この辺りはNHK大河ドラマ「八重の桜」で記憶に新しい人もいるだろう。生活苦から多くの藩士とその家族が各地へ離散していった。琴似屯田村にも50戸を超える斗南藩出身者が入植を望み、受け入れられたのだ。

 当社の近くにあるホテルの周りには「八重桜」が今を盛りと咲き誇っている。スペンサー銃を手に会津戦争で戦った八重がしのばれる。