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北海道開拓の先覚者達(63)~武田斐三郎~更新日:2016年01月15日

    

 2015年1月1日号で、箱館奉行として蝦夷地開発の基礎を築いた堀織部正(ほり・おりべのしょう)を取り上げた。堀は外敵(主にロシア)からの攻撃に対する防御として弁天砲台や五稜郭を建築、教育の重視から様式学問所・諸術調所の開設、さらに外国公館との関係構築などを指導した。これらの施策を実施したのが奉行の懐刀で、学識豊かな武田斐三郎(たけだ・あやさぶろう)である。

 1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀に入港し同年にはロシアの使節プチャーキンも長崎に来航。日本の開国を求めた。翌年、幕府はこの事態に対応すべく、堀と村柿範正に蝦夷地・樺太の現地調査を命じる。この一行には榎本武揚、島義勇らとともに武田も加わっていた。

 後に、榎本が幕府艦隊を率いて箱館に向かったのも、島が開拓使判官として開拓三神を背に負い「他日五州第一の都」を建設すべく札幌の地を踏んだのも、堀に同行したこの時の蝦夷地現地調査の経験がその礎になっていたのであろう。

 さて、一行が江戸を出発し箱館に到着して間もなく、ペリー艦隊が箱館港に来航するとの報せを受ける。堀は急遽、武田を箱館に残し、アメリカ側との対応に当たらせた。堀は、武田が当代随一の知識人であり、また語学にも優れていたことから交渉の全権を委任したのだ。この時武田は28歳で、来航したマシュー・ペリーと堂々と会見している。ペリーは、武田の人物の大きさと学識の深さに感服し、彼を褒めたたえたと記録されている。

 同年に箱館奉行所が設置されると武田は箱館詰めとなり、その後10年間にわたり同地に滞在。蝦夷地の近代化に多大な貢献と足跡を遺した。彼も開拓神社には祀られていないが、間違いなく北海道開拓の先覚者である。

 武田は1827(文政10)年9月、伊予国喜多郡中村(現在の愛媛県大洲市)で生まれた。この年は、高田屋嘉兵衛が亡くなり、ジョン万次郎が生まれた年でもある。武田の名が示すように、先祖は甲斐の武田氏につながっている。大洲の藩校明倫館に通う傍ら、母親に漢方医学を学んだと言われるので、両親そろって学識が豊かな家に育ったのだろう。ちなみに大洲藩は好学・自己錬成が藩風で、初期の大洲藩からは儒学者の中江藤樹が出ている。

 22歳で難関の適塾に入塾。以前にも書いたが、適塾(滴々塾)は蘭学者で医師でもある緒方洪庵が開設した学問所で、主な門下生として、大鳥圭介(榎本武揚の片腕で蝦夷共和国陸軍奉行)、大村益次郎(日本陸軍の創設者)、佐野常民(日本赤十字社初代総裁)、高松凌雲(箱館病院院長、同愛社社長)、福沢諭吉(慶応義塾創立者)、手塚良仙(手塚治虫の曽祖父)など、幕末から明治にかけて活躍した錚々たる人物が通った。これらの中で、武田は後に緒方より塾頭を任されている。また、2年後には緒方の紹介で伊東玄白や佐久間象山に兵学や砲学を学び、学問の領域をさらに広げていく。

 この間、英語・ロシア語も習得し、27歳でロシアのエフィム・プチャーキンが長崎に来航した際、武田は幕府旗本として通詞御用(通訳)を務め、28歳でペリーが箱館に来航した際には直接会談している。語学においても、武田は習得の努力はもとより、優れた才能を有していたことがうかがわれる。

 さて1854(安政元)年、箱館奉行所ができると堀ら3人の奉行が任命され、武田は請われて箱館詰となる。機械・弾薬の任に就くとともに、武田には3つの重大な役割が与えられた。「教育の充実」と「外敵からの防衛を強化するための台場の設置」、そして「奉行所及び城の設計」であった。

 教育については1856(安政3)年、堀が箱館に「諸術調所(しょじゅつしらべどころ)」という洋式学問所を開設したが、その学長に就任したのが武田だ。昨年私は、函館を訪れた折に「諸術調所跡」を訪ねた。市電十字街停留所から元町公園に通じる基坂通りの中ほどに碑が建てられている。

 そこには「諸術調所とは、箱館奉行の研究教育施設で、蝦夷地の開拓と警護に必要な人材育成を目的として、1858(安政5)年に設立された。教授は五稜郭設計で有名な武田斐三郎で、蘭学はもとより、測量、航海、造船、砲術、築城、化学などを教え……(以下略)」と書かれている。教授は武田のみで、語学から化学に至るまでのすべての科目を1人で教えたとのことだ。いかに武田が学術万能な人物であったかがこのことからもうかがわれる。

 座学のみではなく、以前取り上げた続豊治の製造による初の国産洋式船「亀田丸」で、操縦訓練を兼ね日本初の修学旅行でロシア黒竜江まで航海し、貿易も実践している。諸術調所では、榎本武揚、前島密(郵便制度創始者)、井上勝(鉄道制度創設者)、など、明治日本の動脈をつくった優秀な門下生を輩出している。また、同志社創設者の新島襄が箱館からアメリカへ密航したのも、諸術調所に入るために箱館にやってきたのに、武田が江戸へ出てしまっていたための行動だったといわれている。

 堀が次に武田に委ねたのが、外敵からの防御を強化するための弁天台場の構築と五稜郭の築城である。箱館奉行所は当初箱館山の麓にあったが、箱館港からは丸見えで、艦砲射撃があった場合には集中砲火を浴びる危険があることから、堀は港からは離れた亀田の地に築城し、そこに奉行所を置くこととした。

 1855(安政2)年、箱館に来航したフランス軍艦の軍人から教えられた方式を参考に、武田はヨーロッパ式の台場と築城の設計と工事の進捗管理に取り組んだ。弁天台場は翌1856(安政3)年に、1857(安政4)年に五稜郭(亀田御役所土塁)工事が始まり、7年の歳月をかけてともに1864(元治元)年に完成する。

 弁天台場と五稜郭が完成したわずか3年後に大政奉還となり、徳川幕府最後の箱館奉行、杉浦兵庫頭(すぎうら・ひょうごのかみ)は明治新政府の総督 清水谷公孝(しみずだに・きんなる)に引き継がれる。さらにその年10月には榎本武揚率いる旧幕府軍が五稜郭を占拠することになる。翌1869年には薩長を主体とした新政府軍が五稜郭を無血開城した。なんと、すさまじいばかりの勢いで時代が変わっていったことだろうか。

 なお、弁天砲台と五稜郭の土塁工事は以前取り上げた松川弁之助が担当している。松川の碑があるということで、案内の方にお聞きしようやく探し当てたが、それは五稜郭内の目立たない場所に密やかに置かれていた。

 記録によると、武田は29歳で商家の娘小島美那子(19歳)と結婚している。年齢からみると武田が箱館奉行所に勤務していた時期であり、美那子婦人は箱館の女性だったと思われる。2人は熱烈な恋愛関係で、子供ができたため正式な婚姻届けを提出した模様だ。こちらの方面でも、“当代随一”の夫婦関係を時代に先駆けて実践したといえるだろう。美那子婦人とは死別しているが、箱館生まれの2人の子孫がいたとしたら、北海道生まれで“当代随一”の学識者になっていたのではないだろうか。

 箱館奉行所に在職していた間、武田は33歳で溶鉱炉を製造し、35歳で亀田丸を操縦して日本を一周。また日本で初めてのストーブを考案したりしている。なんと多才な人物であったことか。

 1864(元治元年)年、武田は江戸に戻り、開成所(現、東京大学の前身)の教授に転出し、さらに大砲製造頭取を任じられる。明治維新後は新政府に出仕し、日本軍の兵制・装備・運用等 科学技術近代化を先頭に立って指導する。

 1876(明治8)年には陸軍士官学校を開校させ教授(大佐)となるが、同年に日本を訪れた元米国大統領グラント将軍が武田の授業を参観し、「東洋にウエストポイントに劣らぬ学校あり」と称賛したとのことである。グラント将軍は黒田清隆の要請を受け、ホーレス・ケプロンを筆頭とする開拓使お雇い外人顧問を日本に送った人物であり、ウエストポイントはニューヨーク州にある米国陸軍士官学校を指す。

 1876(明治8)年当時、陸軍は大将が1人(西郷隆盛)、中将3人(山形有朋、黒田清隆、西郷従道)、大佐は12人いたが、ほとんど薩長出身であり、幕臣出身で科学・技術知識を持っているのはだけだった。

 しかし、激務が続き、1880(明治13)年、惜しまれて逝去する。東京芝東照宮前の表参道に有栖川の宮親王の額による碑が建てられている。勝海舟は斐三郎が死去した際に「武田成章(しげあきら:斐三郎の後年の名)はこの国家主義に持して収支一貫した人物であり、わが国科学技術の先覚者として万能の逸材であった」と、その死を惜しんだ。

 昨年夏、息子一家と五稜郭を訪れた。再築された箱館奉行所の入り口に武田の彫像が置かれている。その顕彰碑には「五稜郭は我が国はじめての洋式築城で、1867(安政4)年着工、7年の歳月を費やして1864(元治元)年に竣工した。のち旧幕府脱走軍がこの城に立て籠り箱館戦争の本城となった。築城100年記念に当たってこの碑を建てた。1964(昭和39)年7月18日 函館市」と記されている。武田の彫像は本人の写真をもとに制作されたものだが、その顔の部分だけがピカピカに光っている。顔を触ると武田のように頭がよくなるという噂が広まり、五稜郭を訪れる人たちが撫でまわしたからだと説明された。

 わが孫たちも一生懸命になでまわしていたが、果たしてそのご利益はあるのだろうか。大いに期待したいものだが。