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北海道開拓の先覚者達(33)~栖原(すはら)角兵衛~更新日:2014年10月15日

    

 最上徳内などの江戸後期に活躍した北海道開拓の先覚者は、道なき荒野を歩み蝦夷地を奥深く調査。アイヌの人たちとも接触し、蝦夷統治の問題点を松前藩の専横と場所請負制度にあると喝破した。その後、松前藩は幕府調査隊や開拓使により1799(寛政11)年に東蝦夷地、1807(文化4)年には西蝦夷地を取り上げられる。しかし松前藩もしぶとく、14年後の1821(文政4)年に蝦夷地を再び支配することになる。
 松前藩は徳川家康から「蝦夷地に出入りする商人とその他の者は松前藩の許可が必要である」との黒印状をもらい、蝦夷地に「場所請負制度」を設置した。米作のない蝦夷地では漁場などの場所を商人に請け負わせ、その運上金で藩政を賄ってきた。「江差の5月は江戸にもない」「元日・節句の有様は京・江戸に劣らず」とうたわれるように、松前・江差は運上金の収入で繁栄していたのだ。
 今回は栖原角兵衛について調べてみたが、同時に場所請負人として飛ぶ鳥を落とす勢いだった豪商たちと松前藩との関係についても書き進めていきたい。

 江戸後期から明治の初期にかけ、林業・漁業で蝦夷地を舞台にして繁栄を極めた豪商たちがいる。飛騨屋久兵衛、村山伝兵衛、高田屋嘉兵衛、そして今回取り上げる栖原角兵衛の4人の場所請負人がそれだ。しかしそのすべてが江戸末期から明治初期に没落してしまった。栄華を極め松前藩政にも多大な影響を及ぼしていた豪商たちが、なぜそのような末路を辿ることになったのだろうか。
 松前藩は京風の贅沢で雅な生活を送っていたといわれる。その理由の1つとして、松前藩には公家から婚姻相手を娶った藩主が多いということがある。大名や位の高い武士の娘の場合は持参金があるが、公家の娘は身1つ。贅沢三昧の金食い虫である。また実家への送り届けも欠かせない。藩は商人からの御用金(運上金や上納金)で華美な生活の支出を賄わなければならない。
 江戸中期まで、松前藩と取引する殆どの請負人は京都に近い近江商人だったことも、松前藩が京風であった理由だろう。
 元禄以前まで松前藩を潤していたのは砂金と鷹だった。しかしこれらの資源は枯渇していき、藩財政は厳しくなっていく。豪勢な生活を維持すべく、松前藩は近江商人に無心を繰り返すが、彼らの財源にもそれほど余裕があるわけではない。ここに松前藩と近江商人との間に隙間が生じた。

 そんな時期に、新興勢力として近江商人の牙城に食い込んだのが飛騨屋久兵衛である。1702(元禄15)年、飛騨屋は松前城下に海産物と木材を扱う問屋を出した。なぜ、飛騨屋が出店できたのだろうか。飛騨屋は蝦夷檜(エゾヒノキ:エゾマツ)の伐採を松前藩に願い出る。蝦夷檜は木目細やかで筋が通っており檜に負けない良木だ。当時障子や献上台、曲げ物の用材として使用されていた。
 飛騨屋は松前藩に年間825両(今の1億6500万円:1両が現在の約20万円として計算)の運上金で8年間の伐採権を取得した。飛騨屋はこれで大儲けする。しかし使用人が3000両(12億円)の使途不明金を出す。不明金の多くは松前藩の家老などに渡っていた賄賂である。さらに、使用人の嘉右衛門や藩の家老が結託し、蝦夷檜の伐採権を飛騨屋から奪い取ろうと画策。飛騨屋はお上に訴え出て勝訴するが、松前藩の体面を保つためその罰金はわずかなものであった。この時点で飛騨屋の松前藩に対する貸付金は8183両(16億円)にも上っていた。
 松前藩は貸付金の引替えに国後、厚岸、霧多布など藩主直領の5「場所」を飛騨屋に請け負わせ、飛騨屋からの借金をチャラにする。しかし飛騨屋の場所(漁場)経営はアイヌとの「交易」ではなく、まさに「強制」「詐欺」「酷使」であった。飛騨屋の徒弟は「働かぬものは釜茹で(かまゆで)にする」と脅迫してアイヌの人たちを働かせ、アイヌ女性への言語に絶する仕打ちも日常的であった。これに怒ったアイヌ民族が立ち上がり「クナシリ・メナシの戦い」になる(本ブログ第7回を参照)。36人のアイヌを処刑してこの戦いは終わるが、幕府の知るところとなり、松前藩は幕府から厳重な叱責を受けて改善策を提出しなければならなくなった。松前藩はこれに対して全責任を飛騨屋に押し付け、主要な場所を取り上げてしまった。飛騨屋の損害額は7万両(現在の評価額では140億円)にも上り、借金8200両(16億円)を抱えて故郷の下呂に引き上げざるを得なかった。

 飛騨屋の後を継いだのが村山伝兵衛だ。松前藩は飛騨屋に代わって村山にこれらの地を管轄させる。村山は松前第一の豪商として日本長者番付に載るまでに繁栄を誇った。松前藩への運上金は年2500両(約5億円)にもなったともいう。だが1792(寛政4)年、松前地方を襲った暴風雨で村山家は持ち船22隻を喪失。一時の勢いを失っていった。
 当時の松前藩の権力者は、8代目藩主を下り隠居していた実力者、松前道廣である。道廣は吉原の遊女を妾に持つなど、多額の遊興費を使い続けて贅沢三昧の生活をしており、金がいくらあっても足りない。村山家の勢いが下降気味になると、道廣は運上金を大阪・江戸の商人たちに求めた。商人たちに村山家の運上金の2倍ほどの額を要求、商人たちが受け入れると、村山家の持つすべての地所・財産を没収するという手段に出た。これで村山家は没落していった(本ブログ第23回を参照)。

 次に松前藩の餌食になったと思われるのが高田屋。先般、歴史に興味を持たれる人のお話をお聞きしたが、当時の高田屋の資産は今の日本の年度予算に匹敵するほどであったという。1821(文政4)年、幕府は蝦夷地の支配を松前藩に戻すが、1833(天保4)年に高田屋はロシアとの密貿易の疑いですべての財産を没収される。以前のブログで述べたが、ロシアは高田屋嘉兵衛がゴローニン釈放に大きく貢献したことに感謝し、海上で丸高印の高田屋の船を見ると合図の旗を掲げて友好を表明していた。幕府はこれを密輸と看做したのだ。
 高田屋はすべての資産を没収される。勿論、幕府や松前藩は高田屋から借りた金を踏み倒したであろう。択捉を中心とした高田屋の請負場所(漁場)は栖原屋が引き継ぐことになる。

 さて今回の主人公、栖原角兵衛も同様に支配者(今回は開拓使)の犠牲になった場所請負人である。栖原家は代々角兵衛を名乗っている。
 3代目角兵衛は木材業を営んでいたが、同業の飛騨屋久兵衛が蝦夷檜を一手に請け負うと資金を提供してその木材を販売していた。この頃から飛騨屋との関係を深くし、栖原屋は資金的に飛騨屋を支える。
 5代目角兵衛は1764(明和元)年、松前城下に支店を設ける。飛騨屋の成功に刺激を受けたものと思われる。
 6代目は本格的に場所請負に進出し、天売・焼尻、留萌・苫前と十勝の場所を次々と請け負い、事業は順調に推移する。
 クナシリ・メナシの戦いを機に飛騨屋が没落すると、幕府の命により東蝦夷地漁場幕府直営の影武者として働く。
 7代目は石狩5場所および樺太場所の請負を命じられ、さらに高田屋が没落すると択捉島の経営をまかされた。栖原屋は益々隆盛を誇っていく。
 8代目になると、栖原屋の資産は膨大になり松前藩財政への影響力も顕著になった。これにより、栖原屋は松前藩から藩財政の切り盛りも任されるまでに信用を高めていく。
 9代目になってアイヌの人たちの徴用は最も過酷になり、悪者を象徴する「スワラノチェ」というアイヌ語が生まれたほどだ。
 10代目になると、番頭が松前藩の勘定奉行を務めるようになる。今でいうと日本銀行と普通銀行を併せ持ったような絶大な信用を蝦夷地で築くに至る。
 栖原家に影が及んできたのは、1875(明治8)年の樺太千島交換条約の締結である。苦心して開発した樺太場所は翌年、千島と交換でロシアに全面的に移譲された。
 春漁の最盛期。開拓使より漁獲を断念せよとの厳命が出された。漁獲した魚は干す暇もなく腐敗して商品にならない。網などの漁具は海中に投棄、58カ所の家屋・倉庫・漁具は運搬できない。政府はロシアに売ろうとしたが相手にされず、48万円(96億円:1円が今の2万円で計算)の損害のうち政府が保証したのは1万8千円(3億6千万円)のみである。樺太漁場撤退により、栖原屋はすべて合わせて120万円(240億円)の損失を被った。樺太を失った栖原屋は千島に全力を注ぐことになる。1878(明治10)年には西洋型帆船「金剛丸」を新造、その後も船舶運輸に経営資源を注ぎ、このころの持ち船は20隻を超えるほどになっている。この頃から栖原屋は三井物産の資金支援を受けることになる。
 1879(明治11)年と1880(明治12)年には択捉で硫黄山の採掘を試み、同時期に缶詰工場の払い下げを受けて、年20~30万個の鮭鱒缶詰を製造して欧州への輸出や軍用に供給していた。1890(明治23)年には択捉で人工孵化場を設け、年間数10万個の卵を放流する。また留萌・増毛の鰊粕製造に改良を加え、燃料を3分の2に節約するなどの技術改良を行う。このように、10代目角兵衛は時代を先取りする経営を推進し、売り上げそのものは順調に推移した。しかし、樺太での巨額損失は経営に重くのしかかった。義理の弟が会社の金を不正使用して13万円(26億円)、総代理人栖原小右衛門も同様に10万円(20億円)の不正使用をするなどして、財政は極度に逼迫していった。
 栖原屋が三井物産(財閥解体前の会社)から受けていた資金援助は年々積み重なっていた。1900(明治33)年から1903(明治36)年の間に三井物産からの借用金は100万円(200億円)に達し、その内43万円(86億円)は返済しきれず、やがて北海道における漁業の多くを三井物産に委譲せざるを得ない状況となった。これで栖原屋の名は消え失せることとなる。10代目角兵衛は1918(大正7)年に82歳で死去。晩年は事業が振るわずすこぶる寂しかったが、今は開拓神社に静かに祀られている。

 10月13日は体育の日。各地で行事(北海道日本ハムファイターズのクライマックスシリーズ・ファーストステージを含め)が予定されていたが、台風19号の日本縦断で屋外のものは北海道を除いてほとんど中止された。18号の跡を追う「追っかけ台風」だそうだが、日本南海の海面気温が異常に上がっており、これからも「追っかけ」は続くだろう。朝からテレビは台風関連のニュースばかり。「50年に1度」の自然災害は今後更に増え、通年化するだろう。中四国・本州と比較し、台風や自然災害のリスクが大幅に低い北海道に住んで幸せである。今後は北海道の時代だ。