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北海道開拓の先覚者達(32)~松前徳廣・下国安芸・田崎東~更新日:2014年10月01日

    

「勝てば官軍」。歴史は多くの場合、勝った側に栄誉を与え、内実については多くを語っていないようだ。箱館戦争の場合も勝ったのは薩長を中心とした新政府。榎本武揚を総督とする幕府脱走兵は五稜郭で無血開城し「蝦夷共和国」の夢は儚くも散ってしまった。
 箱館戦争で勤皇思想を掲げて新政府側についた松前藩は、その功を認められ藩政を回復した。藩主・松前徳廣(のりひろ)、家老・下国安芸(しもくに・あき)、田崎東(たざきあずま)の3人は祭神として開拓神社に祀られている。
 本ブログ第9回では、松前藩始祖・武田(蠣崎)信廣はコシャマイン親子をおびき出し射殺した人物として紹介した。同回では松前藩太祖の慶廣(やすひろ)も豊臣秀吉および徳川家康に取り入り、「場所請負人制度」を通じて蝦夷地での交易権とアイヌの労働力を搾り取った人物として描いている。祭神に対して、その栄誉を傷つける失礼な表現であったことをお許しいただきたい。
 今回の松前徳廣とその家臣についても、調べていくと多くの疑念が生じてくる。高倉新一郎の「北の先覚」(北日本社刊)、および同氏の「北海道の研究 第4巻」(清文堂出版刊)に掲載されている海保峰雄(北海道開拓記念館元学芸員)の文献を中心に調べてみた。

 1868(明治元)年10月20日、榎本に率いられた幕府脱走軍は鷲の木(森町)に到着、箱館に殺到する勢いであった。東北各藩から蝦夷地に派遣された武士たちはすでに地元へ引き上げており、蝦夷地管轄を任されていた箱館府知事の清水谷公孝(きんなる)は、身の危険を感じ近親とともにいち早く青森へと脱出した(本ブログ第30回を参照)。
 蝦夷地に上陸後、榎本軍は直ちに松前藩へ使者を出し「松前とても更に宿怨(うらみ)もなければ兵力を争うしだいも無く(略)力を合わせて蝦夷地開拓を願う」との書状を届ける。だが松前藩は使者を惨殺し、和平に応じることを拒否する。榎本軍はこれに怒り、10月28日に土方歳三を大将として総勢700余人の軍を松前に向かわせた。
 土方軍が福山城(今の松前城)に入ると、松前徳廣以下が城を放棄した後だった。場内をくまなく見て回ると、天守閣に近い祭壇の前に姫ら10人ほどが寄り添うようにして泣いていた。もし城に火がつけられていたら命を落とす身の上。城主から見捨てられた女性たちだ。土方軍はこれら女性を手厚く保護し、彼女らの希望通り、主のいる青森に送った。
 藩主一行が逃れて落城する際、数人の藩士が騎馬に乗って松明を持ち、町中に火を放って城下の4分の3は焼け落ちた。さらに、混乱に紛れて市民の金を奪う者もいたと記録されている。
 11月1日、榎本軍は艦船から松前城を砲撃。松前徳廣の主力部隊は11月3日に建築されたばかりの館城(厚沢部)に移ったが、味方軍は敵の10分の1。一行は乙部、さらに熊石へと落ち延びた。この間、「殿様は青ざめて弱りきっており、駕籠にのって謡をうなっていたそうだ」との噂が町民の間に流れている。
 この時、松前藩全軍の指揮を執っていたのが、急進派の田崎東である。松前軍と旧幕府軍の差は、武器・錬度の差はもちろんのこと、制海権もない。さらにこの時期、本州からの援軍も期待できない。このような条件下で、松前藩の抵抗は著しく戦略的判断に欠けたものといわざるを得ない。
 清水谷とともに青森に一旦逃亡した藩士は熊石へ戻り、藩主の青森への逃亡を具申したが、田崎は断固これを拒否しその藩士を切り捨てた。だが戦況は厳しさを増し、家老の下国と田崎はやむなく藩主を守って津軽に逃げる決断を下す。
 11月19日、藩主家族ならびに正議隊(後述)を中心とした71人は、200石のオンボロ舟「長英丸」に乗り込み、夜陰に乗じて真冬の荒波がたけ狂う海峡を3日2晩渡航して津軽にたどり着く。「長英丸」は到着後に大破して海の藻屑と化した。この間に2歳の鋭子姫が船中で亡くなり、もともと病弱で体調がすぐれなかった松前徳廣も到着後間もなく血を吐いてこの世を去った。

 翌1869(明治2)年4月6日、雪解けを待っていた新政府軍は1500人の兵力で青森を出港し松前に向かった。この時、松前藩は榎本軍攻撃の先鋒を担う。旧幕府軍は150人を派遣したが、逃亡の汚名を晴らそうとする松前軍によって撃退される。4月17日、新政府軍は艦砲射撃を加えて松前城を総攻撃。40人以上の死者を出した旧幕府軍は、城を放棄して撤退する。この時、副隊長として指揮に当たった田崎東は腕に銃弾を受け、護送されたが負傷が癒えず5月26日に亡くなった。享年27歳という若さであった。
 4月12日には陸軍参謀の黒田清隆率いる2800人の新政府軍が江差に上陸し、勝敗は新政府軍に大きく傾いていった。5月11日、土方歳三は一本木関門付近で奮死、同月18日には五稜郭も降伏し開城。1000人の旧幕府軍が投降して、箱館戦争は終結した。
 さて、勝利者となった松前軍は、榎本軍に協力した旧藩士を見せしめのために大量処分している。処分されたのは榎本軍の下で何らかの役を得ていた武士らと間諜や目明かしをした百姓で、その数は数十人。すべて市中引き回しの上吊るし首の刑に処されている。藩主とともに津軽に逃がれたのは、正議隊を中心にわずか71人。500人を超える松前残留兵は逃げる術もなく、降伏し勝利者榎本軍に協力せざるを得なかったのだ。それを見せしめのために大量処分したのは、取り残された藩士や領民に敵意を持たれているという脅迫観念から来るヒステリー的対応であったとしか考えられない。(海保峰夫:北海道の研究第4巻「箱館戦争と開拓農民」)

 さて、松前を中心に箱館戦争の記述に多くを費やしたが、ここで開拓神社に祀られている松前徳廣、下国安芸、田崎東について説明を加えたい。
 松前徳廣は松前藩第16代藩主・昌廣の長男として1844(弘化元)年に生まれる。昌廣は江戸藩邸に明倫館を設けるなど、学問を好む優れた藩主であった。残念ながら徳廣が生まれたころから鬱病になり、徳廣が7歳の時に退隠する。徳廣がまだ若かったこともあり、叔父の崇廣が藩主となり、徳廣はその嫡子となる。崇廣は文武両道に長け、藩政の改革に努力し、また幕府からも実力が認められて老中になった人物だ。長州征伐を拒否したことからも勤皇派であったことがうかがわれる。このころ松前藩では守旧派と改革派(勤皇)の対立が生じ始めていた。その渦中、崇廣は病気で没することになる。
 松前藩家老・蠣崎勘解由(かきざき・かげゆ)は、徳廣が病弱なのを理由として崇廣の子・敦千代を擁立しようと画策する。時あたかも王政復古の号令が発せられ、箱館府知事として清水谷公孝が箱館に着任。一方会津・庄内で幕府軍と新政府軍の戦いが始まり、奥羽越列藩同盟も結ばれた。榎本軍が蝦夷地に向かうのではないかとの噂も流れ出した。蠣崎はいったん、奥羽越列藩同盟に加わる判断をしたが、新政府軍にも使者を送り恭順する姿勢を示すなど、どっちつかずの態度に終始した。
 これに藩内の勤皇派が憤慨し、若手を中心に「正議隊」が結成された。正議隊は箱館府と結んで蠣崎一派の一掃を図り、彼らを弾劾して切腹に追い込み、粛正もおこなう。さらに、まだ若い徳廣を担いで旧幕府軍との戦いに挑み、前述のように敗北して津軽に逃亡。徳廣は津軽到着後間もなく亡くなる。
 では、この間に徳廣は藩主としてどのような判断をしたのだろうか。蝦夷地開拓にどのような貢献があったのだろうか。領民とどのような関わりを持ち藩政を司ったのか。私には、何も読み取ることができなかった。若くして藩主に担ぎ上げられ、榎本軍との戦いで祭り上げられ、短い一生を終えた悲劇の人物として開拓神社に祀られているのだろう。

 下国安芸は1856(安政3)年に松前城を築城した人物。松前城はわが国最後の日本式城として知られている。彼は代々藩政の枢軸に参与しており、家老として藩主の徳廣に仕えていた。蠣崎が徳廣の病弱を理由にその退隠を勧めた際、一時は徳廣もそれに従ったが、蠣崎に対抗する勤皇派の重鎮だった下国は江戸屋敷へ赴き、退隠を思い留めさせた。勤皇派若手藩士による「正議隊」運動を助けたのも下国である。松前城落城後、下国は徳廣を守って館城、江差、熊石から青森に逃れる。徳廣が当地で亡くなった後は、わずか4歳の嫡子・勝千代に家督を継がせて松前の戦で榎本軍を破り、松前藩の家名断絶をまぬがれる。その功で永世150石を得るが、1870(明治3)年に病でその職を辞し、1881(明治14)年に亡くなる。温厚で人望があり、よき家老として松前藩を支えた人物であるのは分かるが、蝦夷地のため何をしたのかは不確かである。

 田崎東は代々江戸留守居役の家柄として生まれた。剣術は免許皆伝の腕前で武士としての気概にあふれる人物だったという。徳廣を敬い、勤皇思想に燃え、蠣崎一派を憎んでいた。正議隊が非常手段で蠣崎一派の屋敷を襲撃し、関係者の多くを処罰、謹慎させた際には田崎が裏で暗躍していた。その後、勤皇思想の急進派である正議隊の中心人物として榎本軍と対峙する。
 青森に逃亡した翌年、新政府軍の先鋒部隊副隊長として松前で榎本軍と再戦するが、先に触れたように銃弾を受け27歳の若さでこの世を去る。当時の国賊である旧幕府軍に対し真っ先に太刀を振るって突撃し、壮絶な最期を遂げた田崎は勇者として讃えられるかもしれないが、他の道を選ばなかった彼の唯我独尊の生き方は果たして正しかったのだろうか。