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北海道開拓の先覚者達(24)~中川五郎治~更新日:2014年05月15日

    

 いたいけな子を抱きかかえ、その右腕に注射針を刺しているジェンナー。小学生のころ、教科書に載っていた写真を記憶している。ローマ帝国では350万人が天然痘で死亡、北米では免疫のないインディアンの部族が全滅している。また、南米でもわずか2年で400万人が、西インド諸島ではほぼすべての原住民が罹患し亡くなった。いずれもヨーロッパから持ち込まれた天然痘が原因である。

 種痘の生みの親と呼ばれるジェンナーは、イングランド南部にあるバークレーで生まれた。そこは乳牛が盛んな酪農地帯だ。ジェンナー自身、8歳のときに人痘(天然痘に罹った人の菌を注入し免疫状態にする)を受け、危うく死にそうになったので天然痘には強い関心を持っていた。たまたま農村の女性が「私は前に乳しぼりで牛痘(牛の天然痘)にかかったので、天然痘にかかることはありません」と話しているのを耳にし、これが頭から離れなかった。
 ジェンナーは24歳で開業医になり、牛痘を人に接種する方法に取り組む。1789年、10カ月になる長男エドワードに天然痘の軽症型「豚痘」接種を試施する。この時の姿が彫刻となり、その写真が世界中に広がり日本の教科書にも載ったものだ。96年、使用人の子供フィップス少年に「牛痘」の実験を試みた。その後ジェンナーは「牛痘は人体を天然痘の感染から守る」と発表、10年もたたないうちに種痘は世界中に広まった。

 わが国で種痘を最初に成功させたといわれているのは鍋島藩で、開拓使長官にも任命された鍋島直正が藩主であった1849年(嘉永2年)のことである。
驚くべきは、鍋島藩で牛痘による種痘がおこなわれるより25年も前に、北海道で種痘が行われていたのである。今回の主人公、中川五郎治は日本で始めて種痘を成功させ、アイヌや多くの日本人を天然痘から救った人物である。
 なお、種痘はワクチンをY字型の器具に付着させて人の上腕部に刺し、円形の傷をつけて皮下に接種するもので、私の右腕にも痕跡がかすかにみられる。

 さて、中川は陸奥国(現青森県)下北郡川内村で1768年(明和5年)に生まれる。若いころに蝦夷地へ渡り、択捉島の遮那会所で番人小頭になる。姓もなく下っ端の役人だったが、語学の才能があり、現地のアイヌ人やロシア人との交流の中でアイヌ語とロシア語を理解できるようになっていた。

 以前触れたように、1804年、ロシアは外交官レザノフを長崎に遣わして日本との通商条約を結ばせようとした。しかし、幕府はレザノフを半年間にわたって幽閉した上、通商を拒否した。この屈辱的な扱いにレザノフは憤慨し、部下に日本人やアイヌ人居住地の攻撃を命じる。部下のフヴォトフは07年(文化4年)に樺太や択捉を攻撃、掠奪行為を繰り返した。これが世にいう文化露寇(ぶんかろこう)である(蒙古襲来を元寇というのに対し露寇という)。下っ端役人だった中川は、文化露寇から始まる歴史のうねりの中で数奇な運命をたどることになる。この時中川は40歳。間宮林蔵もたまたま択捉島で地質調査をしており、文化露寇に遭遇した。彼は部下の戦意の高揚に努めたが、幕府軍壊滅となると国後に引き上げる。そのとき、酔いつぶれて帰艦が遅れたロシア兵を捕まえ、ロシア側と交渉することになった。ロシア語が話せる中川と部下の佐平治が交渉役に選ばれて赴いたが、ロシア兵に叩きのめされ、捕らわれの身となる。その後2人は国後島、樺太からシベリアに送還される。交渉役を担ったことで中川は幕府の上級武士と勘違いされたのだ。これが中川の奇なる運命の第1幕だ。

 シベリアに送られた中川は何度か脱走を試みるが失敗し、この過程で部下の佐平治とは死に別れる。抑留生活も5年の月日が経過したある時、中川にとって第2の奇なる運命が訪れる。それは高田屋嘉兵衛の項で触れた「ゴローニン事件」との関わりである。文化露寇に脅威を感じた幕府は東北諸藩に命じ、蝦夷地防衛に取り組む。ロシアへの備えを強化している中、薪や水の補給のため上陸したロシア兵を襲い、艦長のゴローニン以下を捕らえ松前に幽閉するという事件が起こった。副艦長のリコルドは、ロシアに捕らえている日本人とゴローニンを交換しようと企図する。そこで、イルクーツクに捕らえられていた中川も交換人質の1人に指名された。

 捕虜交換のため、イルクーツクを出発してヤクーツクに向かう中川は途中、とある商人の家に1泊することになる。この時、彼の人生を決定する出会いがあった。中川第3の奇なる運命である。出会ったのは1冊の書物で、その本にはエドワード・ジェンナーが発見した「牛痘」を接種し天然痘の免疫にする手法が記されていた。
 蝦夷地には長い間天然痘はなかったが、和人が入るようになってから伝染するようになる。免疫が無い処女地に入った天然痘はいったん流行すると勢いがすさまじく、本州に比べ死亡率も高い。中川は蝦夷地に出稼ぎしていた時期、惨害を目の当たりにしていた。中川はこの書物を商人からもらい受け、さらに医者の従者にもなって種痘方法の伝授を受ける。また、出航地オホーツクでは実際に牛痘を人に接種する治療も見てもいる。
 さて、中川はリコルドに連れられ6年ぶりに祖国の地を踏むことができた。リコルドは中川にゴローニンの生死を確認させる命を与え上陸させた。しかしながら中川はふたたびリコルドのもとに戻ることはなかった。中川は捕虜になってからロシアに対する憎悪がつのり、リコルドの命には従わなかったのだ。中川は江戸で尋問を受けた後、翌年松前に戻って妻を娶り中川の姓も許される。中川46歳のときである。
 一方、ゴローニン奪還に燃えるリコルドはついに高田屋嘉兵衛を捕縛し、最終的に高田屋の努力もあってゴローニンは釈放。事件は解決する。

 中川は後に足軽となって松前や箱館で勤務していたが、1824年(文政7年)に箱館で天然痘が大流行する。これも第4の奇なる運命であろうか、中川は奇跡的に牛痘にかかった牛を見つけ、この牛から採取した体液で牛痘苗を作成する。怖がって種痘を受けようとしない人たちを懸命に説得し、ついに田中イクという当時11歳の商家の娘に牛痘を施す。天然痘の惨禍のなか、イクはまったく発病しなかった。
 鍋島藩で最初に種痘が成功したのは49年であり、なんと中川はそれを遡ること25年前に牛痘による種痘を成し遂げたのだ。中川の実施した方法は天然痘の種苗を大野村の牛に植え、その痘菌を抽出し乾燥保存して種痘苗とし、それを牛乳で溶解して男子は左腕、女子は右腕に施したといわれる。
 その後も天然痘の発生は続いたが中川は種痘を人々に施し、多くの人が発病することなく救われた。中川がロシアから持って帰った医学書「オスオエンナヤ・クニーガ」は松前に幽閉中のゴローニンの目に触れ、彼の勧めで幕府の通訳馬場佐十郎によって06年(文政3年)「遁花秘訣:とんかひけつ」として翻訳される。また30年後の36年(嘉永3年)には利光仙庵によって「魯西亜牛痘善処:ろしあぎゅうとうぜんしょ」と改題して出版されている。これらはわが国初のジェンナー種痘法の医学書として位置づけられている。
 中川は57歳になっており、種痘が金になることを知ってその独占を図ったといわれているが、弟子の白鳥雄蔵や松前藩医などにも伝授しており、白鳥は秋田で藩医に伝え、その医療法は脈々と受け継がれていった。
 中川は81歳で川に転落し数奇な一生を終えるが、大事な種痘苗は何も分からない妻が遺体やほかの医療器具とともに焼いて灰にしてしまったという。

 中川の偉業は長い間知られることはなかった。これも奇なる運命であろうか。85年(明治18年)、72歳の老婆が11歳の時、中川に種痘してもらったと明かした。その老婆が日本で始めて種痘を施された田中イクである。その後の調査で、中川の数奇な運命と24年に牛痘による種痘を成功させたことが歴史に刻まれることになる。

 日本では1909年に「種痘法」が設定され、乳幼児と小学校入学前に接種することが決められていた。しかし、天然痘の撲滅が確認された1976年以降、その接種を止めている。世界的にもWHOは80年に種痘による悪影響を考慮し、接種義務を終了させている。私の長男の母子手帳を見ると、乳児の頃のみ接種したことが記録されている。たぶん、それが最後の種痘だったのだろう。ただ、生物兵器に天然痘が使われると、悲惨なことになると懸念されている。私の右上腕にはまだ微かにその痕跡がある。私は大丈夫なのだろう。

 例年になく早く終わったお花見だが、円山公園にはまだジンギスカンの臭い(匂い)がかすかに漂っている。次はライラックとマロニエの花が待ち遠しい。

 次回は十勝の農業・酪農の父といわれている依田勉三について掲載したい。