「情報を先取り、タブーに挑戦」を編集方針とし、生活者・企業経営者に
最新かつ有益な情報価値をご提供する、北海道の地域政治・経済誌

ロゴ

トップページ > 社長ブログ > 北海道開拓の先覚者達(45)~上田万平~

長ブログ

このエントリーをはてなブックマークに追加

北海道開拓の先覚者達(45)~上田万平~更新日:2015年04月15日

    

 4月13日は島判官の命日に当たり、北海道神宮で「開拓判官島義勇顕彰の集い」が執り行われた。
 札幌に本府を設置すべく、開拓使判官の島義勇は天皇から授かった三神を背負い、1869(明治2)年10月1日に函館を出発。陸路で石狩に向かった。島判官の一行は銭函に仮役所を開設し、事業を開始した。最大の問題点は食料不足であった。当時の北海道は箱館戦争の後で物資補給が滞り、各場所には備え米も無し。さらにこの年は大凶作で、全国的にも米不足だった。
 開拓使の米も南部藩から調達する計画であったが、凶作でうまくいかなかった。この当時、兵部省が会津降伏人の移住政策を進めるべく、箱館戦争終了後すぐに移住計画を進めていた。開拓使を率いていたのが佐賀出身の島であるのに対し、兵部省の責任者は長州出身の井上弥吉。箱館府判事も同じ長州出身の堀真五郎で、長州は佐賀への優越意識から、不足している食料の振り分けで、開拓使に対していやがらせをしていたともいわれている。
 さらには銭函に拠点を構えた開拓使へ500俵の米を運送する物資輸送船・昇平丸が消息を絶った。昇平丸は同年12月24日に箱館を出港していたが、翌1870(明治3)年1月に江差沖で沈没したという。まさに最悪の事態だった。

 島は、この状況を打開するためには、札幌近郊に農地を開拓し自給体制を整える必要があると判断。部下に金を持たせ東北地方で移住希望の農民を募った。条件は3年間の生活補助。
1870年、島は札幌本府建築の道半ばで北海道を去ることになったが、同年5月にその志を担う移民たちが札幌に到着した。この年は庚午(かのえうま)だったので、苗穂に庚午一の村、丘珠に庚午二の村、そして円山に庚午三の村が誕生した。円山地区の村には酒田県(今の山形県)から30戸90人が入植し開村。入植20年となる1890年には「圓山開村記念碑」が建立され、現在は円山会館(旧円山市場の近く)の前庭に建てられている。
翌1871(明治4)年、岩手県からさらに5戸が加わった。この中に、今回の主人公、上田万平とその弟・善七がいる。万平31歳、善七18歳の働き盛りだ。
 当時の円山は小川が流れる湿地帯で、踏みつけ道が1本あるだけの寂しい場所。キタキツネの親子がよく顔を出すようなところだった。
 2人は懸命に働き、円山地区の農業と地域の発展に大きく貢献した。万平は移住したその年、組頭(5人組の責任者)になり、率先して組の和合と団結を図った。
兄弟が農業に熱心であることは、すぐに開拓使の岩村通俊判官や松本十郎判官の知ることなり、1874(明治7)年には開拓使の御用掛に任命され、移住民の農業指導も2人に委ねられた。2人は両判官の期待に応えて、熱心に作業へ従事した。
万平は農業のかたわら、裏参道の自宅で日用品・雑貨を商ったので、万平の家にはいつも村人が集まり、万平も彼らの相談に心から応じていた。村人たちから慕われ、1875(明治8)年に円山村副総代、翌年には総代となり、以後30年間にわたってその役を務めている。
1906(明治39)年には兄弟そろって村会議員になったほか、頼まれるまま多くの公職に就いている。
 農場で採れた野菜は車に積んで売り歩いた。その「円山の野菜」の評判は高まり、現在の中央区南1条西11丁目に朝市を開設。朝市の場所は順次西側へ移転し「円山の朝市」はやがて札幌の名物にもなった。

 1875(明治8)年、万平の主導で簡易教育所(今の円山小学校)が開設。政府の補助を受けて運営していたが、1882(明治15)年に開拓使が廃止になると、補助が打ち切られた。一時は廃校の危機に陥ったが、上田兄弟は学校を存続させるべく、継続的に資金を提供する方法を考え出した。戸長や有志と手稲に100ヘクタールの農地の無償供与を受け、自分で開墾し、その利益を学校のものとする、という仕組みだ。
この農地は「第一学田」といい、その碑が建てられている。その後、今の北海道神宮近くに第二学田、北3条から北5条周辺に第三学田が開拓され、円山小学校はその収益によって施設が改良され、保護者の負担も緩和された。

 1871(明治4)年、島判官が明治天皇から拝預された三神は札幌神社(今の北海道神宮)に祀られたが、円山村の人たちは自分たちの村に三神を祀る神社があること、を大いなる誇りとしていた。
万平は神社への奉仕を続け、1890(明治23)年、札幌神社崇敬講(すうけいこう:神社を支える団体)ができた時には初代総代になっている。一方、善七は神楽講を組織し奏者や舞者にもなり、神楽方頭取を委嘱される。
上田兄弟は率先して大鳥居を寄進し、また裏参道に赤松を植えるなどの奉仕をおこなっている。これらの功績を讃え、1910(明治43)年には万平に「上田一徳翁之碑」が建立された。現在は伏見稲荷神社の境内に置かれている。

 1872(明治5)年、開拓使本庁(現在の道庁)建設のため、膨大な量の札幌軟石が必要となり、その多くは藻岩山から出土されたが、円山の山頂からも石材を採掘することになった。しかし採掘のため岩石が露出し、札幌神社を囲む山としては見苦しいものとなってしまった。
 信仰心の篤い上田兄弟はこれを大いに気にして、円山の頂上に山神を祀り、なんとか神社の荘厳さにふさわしい背景の山道にしようと考えた。万平は新善光寺と相談して登山道を整備の上、そのかたわらに、四国の八十八ヶ所に倣って観音像を安置することを思いつく。万平は率先してこの難事業を実現していった。 

冬季間のまさかの遭難を避けていたが、春めいてきて久しぶりに円山に登ってみた。登山道の入口に弘法大師の像が祀られている大師堂があり、その前に案内板が掲げられている。
そこには「大正3年に円山村の開拓功労者である上田万平・善七兄弟が円山登山道を開き、四国から本道に移住してきた札幌近郊の信仰者有志に観音像の寄進を呼びかけ、八十八体の像が建立されました。八十八ヶ所登山道の入り口から頂上付近まで並ぶ観音像はその後も信仰者の献像により、今では二百体以上が奉安されています。大正四年には登山道入り口に大師堂が建立され、弘法大師の像が祀られるようになりました。その後、境内には日本如来像や石碑が建ち、弘法大師が遺した得をたたえています。」と書かれている。

市街地に雪はほとんど見られないが、円山登山道には随所に雪が残っており、雪のない場所は雪解け水で道がどろどろ。いつもの2倍ほどの時間をかけ、石仏を拝見しながら頂上にたどり着いた。頂上から眼下に札幌市が大きく広がっている。
島判官がこの場所から「河水遠く流れて 山隅(すみ)に峙(そばたつ) 平原千里 地は膏ゆ(こうゆ:豊かな土地) 四通発達 宜(よろ)しく府を開くべし(四方に通じ、北海道の本府としては最適な場所である) 他日(いずれ)五州第一(世界一)の都」と詠んだ時、札幌の人口は100人もいなかったであろう。
2018年に開道150年を迎えるが、この短い年月でよくもこれだけの大都会ができたものだと改めて感心させられる。そして、この地を定めた島判官の慧眼とその計画実現のために努力された上田兄弟に、円山の山頂から敬服を込めてお祈りした。
上田万平は1917(大正6)年、円山地域に多くの足跡を遺し、77歳で満足の笑みを浮かべて亡くなった。弟の善七は1928(昭和3)年、兄の後を追って逝去した。

円山原始林は開拓史の時代から保護され、その後北海道庁が原生天然保存林に編入し、1921(大正10)年3月3日には天然記念物に指定されている。カツラ、ミズナラが多くシナノキやエゾイタヤなどの大木が茂っている(円山登山道入口に建てられている円山原生林の説明文から)。

森の枝には、わずかながらも新芽が出てきており、円山を緑が覆うのも間もなくだろう。エゾリスや冬眠から目覚めたシマリスが飛び跳ねて、登山者の目を楽しませてくれる。