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北海道開拓の先覚者達(9) ~北海道の先住民族アイヌ①~更新日:2013年10月01日

    

 9月23日はアイヌ民族の長、英傑シャクシャインの命日とされる日(実際には10月23日)。アイヌ民族がシャクシャインをしのび、新ひだか町静内真歌「シャクシャイン記念公園」にて、その偉業を称える法要祭が執り行われる日でもある。今年は67回目だ。法要祭には全道各地の支部からアイヌの方々がバスに分乗し多数参列していた。数百年にわたる苦境の中で、いかにアイヌの方々がシャクシャインを慕っていたかがしのばれる。
 りりしい姿で立っているシャクシャイン像の碑文には次のように刻まれている。「今から300年前、シャクシャインはここシビチャリ(静内真歌)にシャチ(城砦)を中心としてコタンの秩序と平和を守るオッテナ(酋長)であった。当時自然の宝庫であった此の地の海産物及び毛皮資源を求めて来道した和人に心より協力、文易物資獲得の支柱となって和人に多大な利益をもたらしたのであるが、松前藩政の非道な圧迫と過酷な搾取は日増しにつのり同族の生活は重大な脅威にさらされた。茲にシャクシャインは人間平等の理想を貫かんとして民族自衛のためやむなく蜂起したが、衆寡敵せず戦いに敗れる結果となった。しかしその志は尊く永く英傑シャクシャインとあがめられるゆえんであり、此の戦いを世に寛文九年エゾの乱という。(抜粋)」 
 シャクシャインが蜂起したのは今から344年前の1669年(寛文9年)であるが、その頃のアイヌの置かれた状況とシャクシャインの戦いについて概略したい。

 アイヌの人たちは川上のコタンで、自分たちの生活に必要な範囲の資源をつましく狩猟・漁労し、決してそれ以上は望まなかった。自然環境を大事にする循環型の生活を営んでいた。このようなアイヌ民族の生活の中に入ってきた和人商人たちは、サケ・マス・シシャモなどの遡上魚を川下に大網を三重にも張って根こそぎ捕ってしまう。自然環境の破壊によりコタンは疲弊し、生活基盤を根底から崩壊されたアイヌは窮乏化していった。
 その環境変化をもたらしたのは蝦夷地の一豪族であった蠣先慶廣(かきざきよしひろ)であろう。彼はアイヌの人から調達した異常に大きなテンの毛皮を豊臣秀吉に贈るなどしてうまく取り入り、「若しわれに叛き、諸国より来る和人に無礼なことがある時は、関白殿(秀吉)数十万の人勢を差し遣わし悉く討伐せられるだろう」との制書を得た。この制書を東西の蝦夷(アイヌの人たち)に示し服従させたのである。秀吉が亡くなると、今度は徳川家康に取り入り、1604年には「蝦夷地に出入りする商人とその他の者は松前藩の許可が必要であり、これを破る者は松前藩の手で処刑される」というお墨付きを得る。これにより悪名高い商い場や場所請負の制度が始まることになる。蠣先は名を松前慶廣に変え、蝦夷地を実質的に支配する立場となった。
 松前藩は道南を「和人地」とし、アイヌの人たちを辺境の「蝦夷地」に閉じ込めたが、和人はその後「蝦夷地」も侵食し、極端に不公平な産物交換を強要した。アイヌの子供を人質に取るというような非道な扱いをするようになる。例えば、当初サケ100匹で60キロのコメを交換していたのが、後には30キロに、そして7~8升にまで減らされた。
 当時、日高地方ではアイヌの2大勢力が漁労・狩猟の場所の権利をめぐって争っていた。静内川の上流域で狩猟権を持っていた旧門別町の大将オニビシは松前藩に恭順な姿勢であり、一方下流に権利を持つシャクシャインを副大将とする勢力は反松前藩であった。両勢力は約5年間にわたって争っていたが1668年、オニビシはシャクシャインによって殺害された。オニビシ勢は松前藩に使者を送って援助を求めるが松前藩は拒絶。その使者は帰途病死することになる。
 これが松前藩による毒殺であるとの噂が広がり、シャクシャインは敵であったオニビシ陣営も取り込み、全蝦夷地に檄を飛ばし1669年松前藩・幕府軍に対する一斉蜂起を挙行した。2000人の蜂起軍は今の登別市から白糠町にかけての8カ所、古平町から増毛町にかけての7カ所で和人を襲撃、300人余りを殺害。6月、シャクシャイン隊はクンヌイ(長万部国縫)まで攻め寄せるが、幕府の支援を受けた松前軍の鉄砲隊に敗れ、撤退。
 松前藩は偽りの和睦を申し入れ、シャクシャインは一旦拒否したもののアイヌ軍の劣勢を考えてこれを受け入れてしまう。和睦の宴で毒を盛られたシャクシャインは「よくも私をだましたな、汚い仕業だ」と大声を上げるが毒のせいで大地に倒れ殺害された。時に1669年10月23日である。指導者を失ったアイヌ軍は松前藩に鎮圧されてしまう。
 この勝利によって、松前藩は支配の地域を拡大していくと共に、アイヌの人々をその支配下に置き、さらなる搾取と酷使、非道な弾圧を加えていくことになる。

 蝦夷地におけるアイヌ民族の歴史を語る上で、三度起こった大きな蜂起について語らなければならない。今回記載したのが第二の蜂起である「シャクシャイン」。第三が9月1日の7号、「最上徳内」で掲載した「クナシリ・メナシ」で、応仁の乱の10年前1457年に発生したのが「コシャマイン」である。

 15世紀半ば、蝦夷地南部渡島半島を統治していたのは安東氏で、「下ノ国」「松前」「神ノ国」の3区域を治め、12の館を各地に持ち、それぞれ数百人の和人を抱えていた。1456年、アイヌの少年が小刀を和人の鍛冶屋に注文したところ、その出来あがりや値段で口論となり、少年はその小刀で切り殺された。これに激怒したアイヌの人たちが和人を襲撃する騒動になった。秋には沈静化したが、翌年にはコシャマインとその息子率いる1万人近い圧倒的な勢力で安東氏の館を次々に襲った。12の館の内、函館や松前の大館を含む10まで陥落し、上ノ国の大館花沢館を包囲した。ちょうどその時、花沢館には武田信廣が客将として寄宿しており、アイヌを迎え撃つ先頭に立つことになった。武田はコシャマイン親子をおびき出してこれを射殺し、コシャマインの蜂起は安東氏により鎮圧されることになる。武田の武勇に感じ入った上ノ国の守護職蠣崎は、自分の娘を武田に嫁がせ、蠣崎を名乗らせた。この蠣崎信廣が松前藩の祖となり、その子孫の蠣崎慶廣(松前慶廣)が豊臣秀吉、徳川家康に取り入り、場所請負制度を通じて蝦夷地での交易権とアイヌの労働力を手に入れた人物である。
「コシャマイン」「シャクシャイン」「クナシリ・メナシ」の三大蜂起のほかにも和人とアイヌとの争いは多く記録されているが、これはアイヌの人たちが好戦的であったということでは決してないだろう。松前藩を中心とする和人の搾取、酷使、非道な行為に止むを得ず立ち上がったと見るべきだ。

  今回の法要に参加して、アイヌの方々から「イランカラプテ」という言葉を教えてもらった。「こんにちは」のあいさつなどに使われる言葉だが、一語ごとに区切っていくと「あなたの心にそっと触れさせてね」という意味が浮かび上がってくる。なんと思いやりのある優しい言葉なのだろう。
 ただ、アイヌの人たちは家族や隣人には「イランカラプテ」を使わない。何も口に出さず、ただしっかりと目を見ることで全てがわかるのだ。時々しか会わない人には「エイワンケア(元気だったか)」というそうだ。それでは「イランカラプテ」はどのような時に使うのだろうか。元々は遠くから来た人、いわゆる来賓に使う言葉なのだそうだ。
 ハワイの「アロハ」や沖縄の「めんそーれ」と同じように「イランカラプテ」を北海道のおもてなしの挨拶として普及しようと、本年(2013年)から3年間を重点期間としたキャンペーンが実施されている。空港や駅にポスターを貼ったり、イベントの開催を計画しているとのことだが、いまだお目にかかっていない。単に旅行客に向けた観光用ではなく、心からのおもてなしの言葉として自然に口から出るようにしたいものだ。

 次回は「北海道の先住民族アイヌ(2)」として、江戸幕府、明治政府、さらに近年のアイヌ民族に関する施策について調べてみたい。