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北海道開拓の先覚者達(7)~最上徳内~更新日:2013年09月01日

    

 今から20年以上も前だったろうか、「竜馬がゆく」や「坂の上の雲」など司馬遼太郎の長編小説をむさぼるように読み、司馬遼の世界に引き込まれていた時期があった。その中でも高田屋嘉兵衛の生涯を描いた「菜の花の沖」には強烈な印象を受けた。
 そして、小説の中で「嘉兵衛が街を歩いていると、他国者と思われる旅姿の武士に出会った。年の頃40で何よりも人間を感じた。松前藩からは蛇やサソリのように嫌われている人物だ。松前藩は彼に尾行をつけたりして細かく網を張っている。その天文地理の素養、観察能力、自分の見聞と洞察を表現する文章能力、飽くことを知らない探究心、さらに蝦夷人に対する愛情と松前藩という組織悪に対する憤りを強く持っているお方だ。徳内先生は一世の魁傑である。」と表現しているのが、今回紹介する最上徳内である。

 1799年(寛政11年)、幕府は唐突に松前藩から東蝦夷地を召し上げ直轄領にした。その前年にあたる98年、幕府はロシアの進出を調査するとともに、松前藩のアイヌ虐待政策を調査するため、三橋籐右衛門を頭とする蝦夷調査隊を派遣した。最上も案内役で同行している。
「菜の花の沖」で最上が登場するのは「寛政10年」の章である。この中で、高田屋嘉兵衛が最上と道端で会い、話をしただけで松前藩役人にしょっ引かれ、牢獄に入れられ叩きのめされた様子が描かれている。いかに松前藩がこの調査隊に強い危機感を抱いていたか、そして最上をいかに忌み嫌っていたのかが分かる。
 調査を終え江戸に戻ると、最上は膨大な建白書「蝦夷草紙後篇」を著し幕府に提出した。この建白書が東蝦夷地を幕府直轄にする理論的支柱になったものである。最上こそ、松前藩の悪政を打破した人物ともいえる。それでは、最上はどのような人だったのだろうか。

 最上は貧農の長男として生まれ、実家を二男に譲るとたばこ屋に奉公に出た。利発な子で、当時著名な数学者・本多利明の門を叩き、学問にいそしんだ。なお、本多は北海道開拓神社に祭られている37名の1人であり、今後の連載の中で詳しく紹介したい。本多は一介の数学者ではなく、経世家で北方の脅威(ロシアの南下政策)を早くから説いていた。
 幕府が蝦夷地の調査を行うことを聞き、本多は知人青島俊蔵に頼んで最上をその一行に加えた。これが最上最初の蝦夷地探検である。
この探検で最上は国後、択捉まで走破し、ここでロシア人と懇意になり、ロシア情勢を的確に把握することができた。その後も何度か蝦夷地行きを企てたが、松前藩により拒絶された。
 1789年、松前藩や場所請負商人に虐待されていたアイヌの人たちが立ち上がり、クナシリ・メナシの反乱が起こった。当時、北海道東部の交易権や漁業権を松前藩から手に入れた商人・飛騨屋は、先住民族アイヌに対する暴虐・非道の限りを尽くしていた。飛騨屋の現場監督はアイヌ女性を犯したり、命令に従わないアイヌを打ち殺したりした。妻を和人に殺されたマケメリを頭にアイヌは蜂起、和人71名を殺害した。松前藩は加担した36名のアイヌを斬首、また多くを殺害したといわれている。クナシリ・メナシの戦いはアイヌの最後の抵抗だったが、その後アイヌは徹底的に管理・弾圧されることとなる。
 それまでも松前藩はアイヌに対し、随分あくどいことをしてきたが、「場所(漁場)」という制度が確立してからは、藩のアイヌに対する態度が一変した。当初、場所はアイヌとの交易場所であったが、アイヌの生産を上げさせるため、場所を商人に請け負わせ、さらに商人は運上屋を設けアイヌの人たちが採る海産物を独占的に買い占めた。アイヌを労働者にするところが多くなり、アイヌの人たちを動物以下に扱い徹底的に絞り取った。藩はその商人たちに寄生し、彼らから運上金を徴収して暮らしていた。

 最上はクナシリ・メナシの事件を耳にすると、蝦夷探検で同行した青島俊蔵に報告し、彼に従って3度蝦夷地に探索に出かけている。最上は蝦夷に入ると髭も剃らず、アイヌの人たちと生活を共にし、アイヌ語も巧みに話せるようになっていた。アイヌの代表から動乱後のアイヌ部落の動きを余すところなく聞き取り、事情がはっきりとする中で彼らに深い同情を寄せ、これを省みない松前藩を始め、あらゆるものに義憤を感じていた。
 同行した青島の酒席での発言が松前藩に漏れ、いったんは罪人として牢獄に入るが、恩師の本多に引き取られて牢を出ることができた。牢を出るとすぐに、最上は「蝦夷国風俗人情之沙汰(蝦夷草紙)」を著した。蝦夷の情勢を詳しく記述しており、当時その右に出るもののない名著で、多くの幕府要人の目にも止まることになった。蝦夷地専門家としての評価が高まり、普請役として幕府に取り立てられるという出世を果たした。身分制度が厳しい江戸時代には珍しい立身出世の人物である。

さて、蝦夷草紙の中で最上はアイヌの人たちについて次のように記している。
「松前藩支配下の北海道・千島アイヌほど悲惨なものはなかった。これは地獄だ」
 当時、沿海州に住む三丹人(ギリヤーク人?)は蝦夷地に来て、江戸や京都の人たちが喜ぶ蝦夷錦や飾り玉を日本製の鉄製品やたばこと交換するのだが、松前藩はアイヌの人たちにその交易を強制した。アイヌの人たちが搾取により貧窮化すると、三丹人は蝦夷の少年を奴隷として連れ去るということが頻繁に起こっていた。松前藩はその事実を知っていても知らぬ顔だ。最上は蝦夷草紙の中でそれを次のように表している。
「本土人の喜ぶ錦や飾り玉は、蝦夷(アイヌの人たち)の身を異国に売りたる代金なり。実に身の塊なり。借金を責められ返すすべもなければ、よんどころなく一生の別れをして異国に囚われ、また残りたる妻子は草の根を掘りて喰い、あじけなき命を長らいても生きて甲斐なき風情なり。これ皆、松前にて催促して(松前藩がアイヌの人たちに無理強いして)錦・青玉を買い上げる故なり。たとひ数万両の金を捨つるとも、これまで取られたる蝦夷を返したく思うことなり。」
最上は人民保護の思想が濃厚である以上、基本的に人間差異は認めなかった。後に、最上の上申を受け幕府は三丹人に借金を支払い、債務の鎖に繋がれていたアイヌの人たちを開放している。

 松前藩は最上に毒を盛るなどして調査の妨害を試みたが、幕府調査団はロシアの南下政策の現状やアイヌの人たちに対する松前藩の横暴をくまなく調査した。その結果、1799年に幕府は東蝦夷地を松前藩から取り上げた。最上の貢献がいかに大きかったかが窺われる。
 さらに、幕府は蝦夷地全域の完全掌握を目指し、1805年、目付遠山金四郎景晋にその調査を命じ、最上はその案内役に起用された。この調査の結果、幕府は松前藩を奥州梁川に移し、幕府が蝦夷地全域を直轄することになる。幕府の蝦夷地直轄は1821年に松前藩に戻されるまで15年も続いたことになる。

 晩年の最上に関して特筆すべきことは、ドイツ人医師シーボルトとの関係である。最上は何度か会見してシーボルトと学術研究の交換をしている。当時、最上は72歳になっていた。シーボルトは其の著「ニッポン」の中で「この尊敬すべき老人は、日本の北地事情に偉大な功績を残したにもかかわらず、当時役目を去られ、不幸と貧困の中に陥っていた。それはその発見を少しも生きるために(利用)せず、あまりに実直に、かつは年老い、自ら膝を屈することをしなかったからである」と書いている。見事な人生を全うした方である。

 次回は高田屋嘉兵衛について取り上げてみたい。