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北海道開拓の先覚者達(67)~島義勇(補筆2)~更新日:2016年03月15日

    

 円山のオコタンペの丘から広がる原野を見下ろした開拓使判官・島義勇の胸の高まりは、如何ほどだったろう。崇拝する藩主の鍋島直正から君命を受けて、数年間続いた戊辰戦争では困窮化した士族や農民を救出。さらにはロシアの南下政策の防御基地として、北方の地にその中核となる府を建設する。島は札幌本府建設を、身を投げ打ってでも達成すべき使命であると、この丘で改めて心に誓ったのかもしれない。

 島は札幌原野の仮小屋に寝泊まりし、札幌府本庁舎および多くの官舎、並びにそれらを通じる道路の設計に連日連夜、悪戦苦闘した。この様子を詠んだ詩がある。

 寒郊雪を掃って幾宵か留まる

(厳寒の荒野で積雪を掃って幾夜寝ることか)

 環(まろ)く囲炉(いろ)に伏して鹿裘(ろくきゅう)を襲(かさ)ねたり

(一同、炉端で円くなって横になり、鹿の皮を重ねて暖をとる)

 道(い)ふを休めよこの中礼儀無しと

(礼儀云々と言うのは止めよう)

 判官の足は土人の頭にあり

(私の足は土地の人夫の頭にあるが許してくれ)

 アイヌの人とも狭い仮小屋で一緒に寝泊まりし、時には自分の足がその人の頭に置かれていることもあったようだ。連れてきた犬と一緒に寝ることもあった。

 荒原犬を伴いて眠るを厭(いと)わず

(この荒原で犬と寝るのも構わない)

 寒を禦(ご)すなほ炉辺に座すに勝る

(犬を抱いて寝た方が炉端より暖か) 

 半宵忽ち喜ぶ猟夫の至るを

(夜半猟師が鹿を持って来て、一同が歓声を挙げる)

 酒を呼んで割烹すれば鹿肉鮮なり

(熱燗で鹿肉を食すると新鮮で美味なり)
 
 島の一行が北海道に赴いた1869(明治2)年は大凶作の年で、全国的にコメが不足していた。その上、北海道では箱館戦争が続いていたため、場所請負人による物資補給もうまく進んでいなかった。開拓使は島が品川を出発する前、「昇平丸」という物資運搬船で米1300俵などを積み、箱館・銭函に向けて出港させていた。島ら数十人が銭函に到着したのは1869(明治2)年10月12日。昇平丸が箱館に就いたのは10月24日。この時点で既に島判官一行の食料は底をついている。

 箱館の開拓使は昇平丸をすぐさま銭函に向けて出港するよう手配するが、海が荒れていてなかなか出港できない。ようやく出港したものの、いくら経っても銭函には到着しない。結局、翌年2月に昇平丸が沈没したことが判明する。

 この間、島は場所請負人制度を廃止して、各地で請負人が貯えていた米を調達し、その場しのぎを繰り返すしかなかった。1870(明治3)年2月の時点で、本府建設にかかわる職人や人足は554人。その後も工事の進捗に従って増加していった。

 さらに事態を悪化させたのが兵部省との軋轢である。長州藩出身の木戸孝允は、戊辰戦争で壊滅的打撃を与えた会津藩藩士の生き残りを北海道に移住させる策を推進していた。コメ不足の上、本府建設と兵部省の会津藩移住政策が重なり、石狩地域の人口は急増。コメは争奪戦となって、当然のように価格は上昇した。

 島は厳寒期の建設作業を強行した。本府建設に際しては、大型投資以外は島の決済でできるように取り決められていたので、開拓使長官・東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)の許可を得ることなく、食料品の調達に資金を投入し続けたのだ。これが後に東久世の逆鱗に触れることになる。

 雪中の営築心を費やすこと多し

(厳寒の中の建設作業は容易ではなく、資金を始めとして実に心を痛めることが多い辛い事業である)

 細人の小波を揚ぐるを怪しまず

(くだらぬ者共が非難中傷しているが、私にとっては覚悟の上で気にはしない)

 燕雀(えんじゃく)いづくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや

(小さな鳥どもに、大きく羽ばたく鳥の志が分かるはずはないという)

 暴虎と馮河(ひょうが)と呼ぶにまかせん

(私を、虎を素手で打ち大河を歩いて渡るような無謀な人間と呼ぶなら、それで結構だ)
 
 食料も乏しい厳寒の中の工事だったが、島の類まれな統率力で、本府建設は進捗していく。この時の喜びを詠んだのが次の詩だ。

 雪を侵して連旬共に励精し

(積雪の中何十日も建設に励んだ甲斐があって)

 府中の第宅漸く将に成らんとす

(石狩府中の官邸が漸く完成しつつある)

 相伝への遠近の人争ひ到る

(噂を伝え聞いた人々が争うように見物にくる)

 是れ治下の民となるを願うなるなからんや

(これら人々は、新政府の民となることを喜び願っているに違いない)
 
 しかし、本府建設の完成を前にした2月9日、島は突然開拓使判官の任を解かれ帰京の命を受ける。島は久しぶりに東京に戻る喜び以上に、北海道開拓の思いが絶たれ、石狩本府建設がいまだ途上であることを嘆く気持ちが強かった。その時に詠んだ詩である。

 天子明らかに照らしたまふ千里の外

(天子様は遠く離れたこの僻地をも明るく照らして下さっている)

 恩旨殊(あつ)く都会に帰るを許す

(温かいおもいやりの気持ちで私を都会に帰すことをお許し下された)

 但(ただ)願うこの府の後判官

(私が後任の判官に願うことは)

 能(よ)く開拓の規模大なるを得んことを

(開拓の規模をますます大きくしてもらいたいということです)

 本府建設現場を離れ、いよいよ小樽を出発することになるが、この地で苦楽をともにした友人達の見送りを受けた時の詩。

 既に期す北道に老いて茲(ここ)に生きるを

(この北の地に来た時から、老いた後もこの地で生き、骨を埋める覚悟であった)

 何ぞ計らん特恩帝京に帰らんとは

(特別な恩を頂き東京に帰るとは思いもしなかった)

 遥かに昨来宦游の地を眺むれば

(遥かに札幌の地を望むと)

 惆然(ちゅうねん)却って故園の情あり

(半年の在任を悲しむより、生れ故郷と別離を告げるような情が込み上げてくる)

 帰郷の途につくと、各地で役人や住民が島を温かく迎え、別れを惜しんで見送ったという。「あなたが去られたら、石狩本府建設事業は完成できないのではないだろうか」と皆、異口同音に話していた。

 島は東久世をはじめ開拓使の主要メンバーが駐在する函館に寄って最後の挨拶と事務引継ぎをおこなった。この時、長官らの言動に対し、今まで抑えてきた島の怒りが込み上げてきたのだ。迫力が満ち満ちている漢詩である。

 朝好暮しう真を見る堪(べ)し

(朝には良き友であっても暮れには仇敵となる、ここに人間の心理を見なければならない)

 嗤(わら)う昔日憐みを乞ひし辰(とき)

(以前、彼が私にひたすら憐れみを乞い願った時があったが、今は笑うしかない)

 勢権反復忘恩の者

(権勢は履がりやすいもので、無力になった私に対し、昔の恩義を忘れ非難する者達だ)

 前略焉(いずく)んぞ忠厚の人と為らんや

(彼らが今後、どうして真実の忠厚の人となり得ようか)

 上田三三生(ささお)氏が1974(昭和49)年に訳注して上梓した島義勇漢詩集「北海道紀行」の最後(40番目)の詩は、島が東京に帰り、同行した蝦夷人(アイヌ民族)の又一が石狩に帰るのを見送ったときに詠んだもの。

 北海の墾開豈(あ)に等間にすべけんや

(北海道開拓は新たな日本にとって焦眉の急であり、どうしてなおざりにできようか)

 逡巡すれば終(つい)に大邦の患と作(な)る

(ためらっていると我が国の大きな災厄となり、遂には国難を招くことになる)

 為に伝えよ満道の諸同志

(よって、各界の諸同志に是非伝えてほしい)

 魯夷をして樺(くわ)山を度(わた)らしむる勿(なか)れ

(一日も早く北辺の防備を固め、ロシアをして樺太から侵攻させてはならない)

 島の北海道開拓とロシア南下に対するすさまじいばかりの気概を感じざるを得ない。この気概をもって酷寒の地で本府建設に邁進したのだ。

 東久世は、島が自分の許可を得ずして独断で本府建設を断行し、その結果大幅な予算超過となったことに立腹し、判官の任を解き東京に戻したのである。しかし、東久世長官は後日札幌を視察し、島が進めた建設の規模の大きさと、未完成とはいえそのしっかりとした施工に驚愕し、後任の岩村通俊に工事の続行を命じている。

東久世が今すこし前に札幌に行き、視察していたらこのようなことはなかったのではないだろうか。所詮公家の限界であったか。

 島はその後佐賀の乱で賊とされ、きゅう首刑(さらし首)で亡くなっている。明治天皇の特赦の命令書を長州勢が抑えたと言われている。

 3月に入り、円山公園ではエゾリスが走り回り、クマゲラが巣から顔を出している。彼らにとっての恋の季節が始まったのだ。