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北海道開拓の先覚者達(61)~高松凌雲(1)~更新日:2015年12月15日

    

 2015年も残り少なくなり、今回が本年最後のブログとなる。

 今年も、北海道開拓先覚者達の足跡を訪ねて各地を訪れたが、夏には東京都文京区駒込にある高林寺に行き、緒方洪庵(おがた・こうあん)のお墓にお参りしてきた。緒方は医師であり蘭学者で「適塾」を開き、福澤諭吉、大鳥圭介、大村益次郎、武田斐三郎、佐野常民、高松凌雲など、幕末から明治にかけて活躍した人材を輩出した。その中には、箱館戦争で敵味方に別れて戦った方々もいる。今回は、箱館病院の頭取として敵・味方の区別なく負傷兵に治療を施し、箱館戦争終了後日本赤十字の前身である「同愛社」を立ち上げ、貧富の差なく治療の手を差し伸べた医師・高松凌雲を取り上げる。

「家臣救済のため蝦夷に赴いて開拓に従事し、同時に南進を企てるロシアに対する防備につく」榎本武揚は勝海舟を通じて官軍側に「徳川家家臣大挙告文」を送り、2361人の旧幕府藩士を率いて、1868(明治元)年に宮古湾から蝦夷地鷲ノ木(今の森町)に向かった。
この中に、徳川慶喜の出身母体である一橋家の奥詰医師を勤め、慶喜の弟・徳川昭武(当時14歳)に従ってパリで開催された万国博覧会に同行。その後現地で西洋医学を極めた高松凌雲(たかまつ・りょううん)がいた。

 榎本は箱館府知事・清水谷公考(しみずたに・きんなる)宛てに「蝦夷を徳川家にお貸しくださるよう朝廷に願い出ているので、蝦夷をしばらくお貸しいただきたい」旨の書状を遊撃隊長・人見勝太郎に持たせ休戦を提案する。しかし、五稜郭に向かう途中、人見隊は函館府の軍勢に夜襲砲撃される。これにより榎本は全軍攻撃を命じ、鷲ノ木から2隊に分けた軍勢が10月24日夜明け、五稜郭に向け進軍した。歴戦の榎本軍は津軽兵や松前兵を圧倒し五稜郭に入るが、その時には清水谷をはじめ藩兵主力は青森に逃げた後だった。

 五稜郭で、高松は榎本から箱館病院の頭取を依頼され、全権を一任されることを条件に受け入れた。そのような中、11月6日に農民が6人の負傷者を運んできた。敵である箱館府(清水谷軍)の守備兵だ。病院は騒然とし「戦死したものの仇だ」と叫ぶ者がいた。しかし、高松は直ちに負傷者を病院に収容し治療を施し、「たとえ敵であろうと負傷者は負傷者だ」と皆を諫めるとともに、次のように負傷者や部下に申し渡した。「神の館では、富ある者にも貧しいものにも同じ治療を施し、しかも貧しい者は無料であった。戦争にあっても、敵方の傷病者を味方の傷病者同様、ねんごろに施療する。それが「神の館」のみならず、西洋諸国の病院の常となっている」

 さて「神の館」とはどのような施設なのだろうか。高松はパリに行った時、「HOTEL DIEW」という施設に大きな関心を抱いた。DIEWはフランス語で神を意味し「病院は新しい生命が生まれ、また消えていく神の宿る場所」なのだと教わった。この時、高松は医学が神聖なものであり、貧富の違い、敵・味方を超えて治療が受けられなければならないと学んだのだ(吉村昭著「夜明けの雷鳴」より)。高松は、傷病の癒えた箱館府の6人を清水谷の逃亡先・青森に送っている。

 1869(明治2)年の正月を迎えたが、穏やかな日々は長く続かなかった。薩長軍を主力とする官軍は、甲鉄を旗艦とする総勢8隻で3月10日に品川を出港して蝦夷地に向かった。榎本軍討伐の大戦力が動き出したのだ。高松は戦争が眼前に迫っているのを感じた。負傷兵が次々と運び込まれ、箱館病院では収容しきれず、高台の高龍寺を分院とすることにした。しかし、これが後の不幸につながる。激しい戦闘の中、榎本は高松に負傷者を連れて室蘭に避難することを告げるが、高松は「この病院は私にとって本城です。たとえ官軍の兵が襲ってきても一歩も動きません」と榎本の命を拒絶する。

 高松は不安におののいている傷病者たちに「ヨーロッパ諸国では、戦闘力の無い傷病者は、敵味方の別なく互いに治療を施すのが定めだ」と言い聞かせる。その上で「生き残る道はただ1つ。無抵抗を貫くことだ」と、全員の武器を預かり、それらをすべて戸棚とタンスに収めた。

 ついに官軍が病院にも押し寄せてきた。緊迫した空気が高松や傷病兵たちを取り巻いた。その時、薩摩藩の山下喜次郎という藩士が高松らの窮地を救ったのだ。「天下様はみだりに殺戮することを禁じている。まして傷病者とあればなおさらである」。山下の言葉に高松は深く感謝し「自分や医師たちは存分に処罰されたい」と申し出るが、山下は「貴殿たちを殺害して何の意味もない。今後は一層、傷病者の治療に努めてもらいたい」と話し、部下たちに高松たち全員の安全を期すよう命じた。

 山下たちの軍が病院を離れる際、高松は「当病院が薩摩隊のお改めを受けたことを示すため、門前に大きな“薩州隊改め箱館病院”の木札を掲げさせていただきたい」と申し出、山下はそれを受け入れた。これで、箱館病院への官軍の侵攻は防ぐことができた。

 そのころ、箱館に侵入した官軍の榎本軍の間で激しい戦闘が繰り返されていた。高松が最も懸念したのは高龍寺に置いた分院のことである。懸念通り、分院には松前藩の兵士が押し入ってきた。分院を任された病院掛補佐の木下は「ここは箱館病院の分院であること、ロシア領事の保護の下にある」と説くが、松前兵士は「殺せ、殺せ」と叫び、木下を切り殺し、十数名の傷病者が惨殺された。さらに松前兵士は病院に火を放った。「武家と言いながら、人間のすることではありません。鬼です」報告に来た病院掛補佐の小野は、そう言いながら嗚咽していた。

 夜が明けるころ、薩州隊と名乗る武士2人が箱館病院に来た。彼らは、薩州隊軍監・村橋直衛(久成)と藩士・池田治郎兵衛と名乗った(お気づきの方もおられようが、村橋久成は後にサッポロビールを創設する人物だ)。村橋らの目的は、病院に収容されている会津藩遊撃隊長・諏訪常吉の名で、五稜郭と弁天砲台に和平の勧告を届けたいというものだった。しかし、諏訪は重傷で息も絶え絶え。斡旋役は受けられない状況。村橋は高松と病院掛の小野に、榎本への斡旋を依頼する。高松は、降伏したならば榎本軍は過酷な刑に処されかねないと申し出を断るが、村橋の熱い説得で、小野・高松連名で榎本宛てに手紙を書く。その概要は「五稜郭・弁天砲台での榎本軍の奮戦は、士道において感服の至りと村橋は感服しており、朝廷は寛大な気持ちで平和を強く望んでいる」との内容だった。

 これに対し榎本の返信は、「五稜郭並びに弁天砲台その他同盟一同枕をともにし、清く討ち死にする」というもので、高松の負傷者に対する温かい取り扱いに感謝するとともに、オランダ留学中に入手した2冊の海律書を官軍艦隊提督宛てに添えていた。官軍総督の黒田清隆はこれに感激し、酒5樽を贈るとともに、必要ならば武器弾薬も提供するとまで榎本に伝えたといわれる。この時のことが、後に黒田が頭を丸めてまで榎本の助命に奔走し、助命後は開拓使や政府の主要な地位に榎本を採用したことにつながっている(詳しくは本ブログ2013年7月15日付け「榎本武揚」を参照されたい)。

 官軍は陸海呼応して総攻撃に移り、土方歳三や中島三郎助親子も壮絶な死を遂げる。1869(明治2)年5月18日、五稜郭の榎本総裁以下全員が降伏。その後、榎本をはじめ幹部7人は箱館から青森を経て東京に護送された。

 官軍の死者は収容されるが、榎本軍のおびただしい遺体は収容されることなく放置されたままだ。官軍はそれら死体を打ち捨てにし、埋葬、墓碑の建立を固く禁じた。残って傷病兵の治療に当たっていた高松の病院に、松前藩預かりとなった43人の傷病者が運び込まれた。彼らの身体は頭から足先まで膨れ上がり、腹部は太鼓のようになっている。松前に護送された彼らは地下の水牢に閉じ込められたのだ。多くの兵は死亡し、その死骸は野に捨てられ、高松の病院に運ばれたのは生き残った者たちだけだ。彼ら傷病者は弱々しく「このまま死んだら魂は鬼となって松前の者どもを一人残らず殺す」とうめいていた。

 函館山のふもとに谷地頭(やちがしら)温泉があり、その先の小高い場所に碧血碑(へっけつひ)が建てられている。この碑は柳川熊吉という侠客が建てたものだ。(碧血とは「義に殉じた武士の血は3年たつと碧色になる」という中国の故事)。

 柳川は悲惨な遺体が白骨化して放置されているのを不憫に思い、部下に死体を集めさせ、実行寺に埋葬して墓標を建てた。官軍の兵士がこれを知り墓標を倒し、柳川を捕らえたが、これを救ったのが薩摩藩の軍監・田島敬蔵である。柳川は1872(明治4)年、函館山の麓に遺骨を移し、さらに1876(明治8)年に碑を建立した。これが碧血碑である。

 箱館戦争では、高松の病院に突入する官軍兵士を抑え医師や傷病者を救った山下喜次郎、榎本軍の和睦に奔走した村橋久成と池田治郎兵衛、熊吉を救った田島敬蔵、そして榎本武揚助命に奔走した黒田清隆ら、薩摩藩士の人間味あふれる(武人としてのたしなみをもった)人物が最悪の状況を救っている。これに対し、松前旛・長州藩の狼藉ぶりがひときわ目につく。

 高松が「神の館」の理念に基づき日本赤十字社の前身である「同愛社」を設立する辺りを次号で見ていきたい。