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北海道開拓の先覚者達(6)~松浦武四郎~更新日:2013年08月15日

    

 8月15日は終戦記念日であるが、我々北海道人にとってこの日は先人の開拓の歴史を考える大事な日だ。蝦夷地から北海道に名称が変わった記念日であり、北海道開拓神社の例祭が執り行われる。
 古代、北関東から東北以北に住み、朝廷の支配に抵抗し服従しなかった人々、および彼らが住む地は蝦夷と呼ばれていた。明治政府は今から144年前の1869年(明治2年)、この地を北海道と名付けた。この北海道の名付け親が松浦武四郎(開拓神社には松浦弘として祀られている)である。

 私は高校まで留萌に住んでいた。当時、鈍行の蒸気機関車で30分ほど行ったところに小平(おびら)駅があった。昔ニシン漁が盛んだった土地で、「小平町ニシン文化歴史公園」が当時の活況の様子を残している。その公園に、松浦武四郎の功績をたたえる銅像が1995年8月に建立された。手帳を手に遠くを眺めている凛々しい姿を見ることができる。
 また、釧路市幣舞(ヌサマイ)公園には、ここでも探検記をメモし、アイヌ古老を従えた松浦の銅像が建っている。「松浦武四郎蝦夷地探検像」と言われ、3回目の釧路調査からちょうど100年目の1958年(昭和33年)に建立された。当地では「阿寒国立公園の父」としても親しまれている。
 調べてみると、なんと道内40カ所に松浦の銅像・レリーフが置かれており、道外ではサハリンや出身地である三重県松坂にも銅像が立ち、顕彰されている。昔、各小学校の校庭に二宮金次郎の銅像があったが、それ以外でこれほどの数の銅像が各地に置かれているというのは驚きである。
 百数十年も前、松浦がいかに多くの場所を訪れ現地の人々と交流を深めていたのか、その人物像に興味をもった。

 その松浦武四郎とはどのような人物だったのだろうか。これがまことに難しい。北海道および道内11カ国86郡の名付け親であり、一日60キロから70キロのペースで道内の荒野を歩き回った探検家。膨大な書籍を残した著述家でもあり、訪れた土地を詳細に調査し、地図や資料にまとめた地理学者。アイヌ語を研究した言語学者であると同時に、松前藩や商人に虐げられていたアイヌの人々に対し深い理解と愛情を持ったヒューマニスト。浮世絵や詩歌をたしなむ文化人。そこには様々な松浦が登場する。順次紹介していこう。

 松浦は1818年、現在の三重県松坂市に生まれた。16歳のとき父親からもらった1両をもって突然諸国の旅に出た。江戸、京都、大阪四国八十八ケ所など憑かれたように歩き続け、途中で大病を患い仏門にも入った。10年経って故郷に戻ったが、その時にはすでに両親は亡くなっていた。
 長崎に滞在していた時ロシアの南進を知り、蝦夷地侵攻の懸念を抱いていた。また蝦夷地を管轄していた松前藩は秘密主義を貫いており、奥地の事はほとんど知る者がなかった。これに探検家としての松浦の血が騒いだのだろう。
 両親を弔った後、蝦夷地への旅に出かける。北方探検の途に上る決心を固めたのだ。出発に際し「みちのくの蝦夷の千島を開けとて神も我を造り出しけん」との句を詠んでいる。北地の開拓を天から与えられた使命と心に誓ったのだろう。

 松前藩の監視の目を逃れるため、ある時は漁夫に、ある時は臨時足軽や商人の手代になり、1845年から49年にかけて3度蝦夷地を探検している。身長150センチの小柄な身体だが、並はずれた健脚の持ち主であり、江差から樺太に、オホーツク海岸から知床岬に、択捉、国後にと、松浦の足跡は蝦夷地全域におよび、押しも押されもせぬ北海道通の第一人者になった。
 松浦は常に1冊の手帳を懐に入れ、目に触れるもの耳にするもの全てを図や文にして書き留めた。この間に作成した書物は「初航蝦夷日誌」12巻、「再蝦夷日誌」8巻、「三航蝦夷日誌」8巻など膨大な量になる。まさに著述家としての松浦である。
 地理学者としても優れていた。松浦が単身蝦夷地をくまなく調査し出版した「蝦夷大慨図」は詳細に山脈、水脈、道路、村落が書き込まれており、我が国最初の北海道全図といわれている。これら書物や蝦夷地図は秘密裏に蝦夷地を我が物にしようとしていた松前藩を激怒させ、刺客を放って松浦を亡きものにしようとした。しかし、これら書物や地図は水戸藩主徳川斉昭にも献上され、松浦の才覚は斉昭公ばかりでなく鍋島直正や大久保利通にも大いに認められることとなった。北海道開拓開祖たちの後ろ盾を得て、箱館府権判事して採用され、松前藩からの追及を逃れることができた。

 1856年(安政3年)、松浦は39歳で第4回目の蝦夷地探検に臨んだ。松浦は蝦夷地探検に際しアイヌと常に行動を共にし、アイヌ語の研究も積み重ね自由に話せるようになっていた。アイヌと共に調査する中で、各地で悲惨な話を多く耳にするようになる。ひどい虐待を受けながらもなお純真さを失わないアイヌの人々に感服し、アイヌ擁護・救済と松前役人・請負商人弾劾の書「近世蝦夷人物史」3篇を著している(幕府は出版を認めなかった)。その著で、「斜里・網走辺りでは、女性は16、7歳になり夫を持つべき年になると国後島に追いやられ諸国から来る漁師や船員に身を自由に扱われ、男性は結婚する年になると昼夜の別なくこき使われ、多くは生涯妻を迎えることはなかった。その上男性は極度の過労、女性は性病におかされ若くして死を迎えることになる。夫婦の場合、無理やり別れさせられ、夫は5年10年の長きにわたって遠い漁場に送られたままとなり、妻は関所または番所で番人や和人の慰み者とされ、拒めば一層辛い目にあうので、ただ泣き泣き日を送る(一部筆者の意訳)」と書いている。
 松浦が生きていたならば「北海道開拓の礎はアイヌの方々の努力と犠牲により築き上げられたものであり、我々はその事を重く受け止めると共に常に感謝と尊敬の気持ちで接しなければならない」と言うであろう。
 1858年、六回目の蝦夷地調査では「東西蝦夷山川地理取調図」を作製している。蝦夷地の地図は伊能忠敬や間宮林蔵などの測量で海岸線はほぼ正確になったが、松浦の努力で内陸部の状況も詳細に図示されている。28枚からなる当時最大の蝦夷地図で、9800のアイヌ語地名が紹介されている。

 1869年(明治2年)、明治政府は北海道開拓使を設置し、佐賀藩主だった鍋島直正を初代長官に、島義勇を主席判官に、岩村道俊を判官に任命するが、同時に松浦も幕府時代から蝦夷地探検の第一人者として判官として採用される。52歳の時である。
 同年8月15日、松浦の提案を基にして蝦夷地を「北海道」と改称し、さらに道内を11カ国86群とした。その全ては松浦の原案通りアイヌ語を基にして命名されている。北海道の命名について松浦は6案を提出したが、その中から「北加伊道」が採用され北海道に決定した。松浦は以前より自身の号を北海道人としていたので、自らの号のみを提案することにいささかの遠慮があり6案の提示となったのではないだろうか。
 開拓使判官として松浦は、北海道開拓の元凶である松前藩を他に移すこと、場所請負人制度を廃止することなどを後任の東久世開拓使長官に上奏したが聞き入れられず、開拓使判官在任わずか7カ月で役職と官位を返上した。鍋島直正公が引き続き開拓使長官だったなら、歴史は違ったものになっていたかもしれない。

 長年探検生活で自分の家がなかった松浦は、退官後ようやく小さな家を持った。家の隣には全国の寺社の廃材を集めた一畳敷きの書斎を置き、北海道関係の書物執筆に専念した。71歳で亡くなったがその前年には富士山に登ったとのことである。紀行文だけではなく、詩歌、絵画、骨董品収集、考古学・天文・地理・植物・民俗学にも通じた文化人であり学者でもあった。
 鍋島直正の続編を書こうとしたが、今回は松浦武四郎のみとなった。いずれかの機会で再度鍋島について触れたい。次回は最上徳内を紹介したい。