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北海道開拓の先覚者達(59)~関寛斎(1)~更新日:2015年11月15日

    

新月の2日後、線を引いたような細い月が満天の星空の輝きを邪魔することなく、むしろ一層際立たせていた。北斗七星はくっきりと浮かび上がり、その先の北極星は鮮やかな光で北を指している。天の川も天空一面に広がり、プレアデス星群(スバル座)も肉眼でみることができる。どこまでも深く広がる宇宙に、荘厳な思いを感じざるを得ない。このような星空を見たのは何十年ぶりだろう。
10月16日、雲一つない晩秋の十勝路を走り、厳寒の地・陸別町を訪れた。「日本一寒いりくべつ」の看板が街路灯に掲げられており、すでに気温は氷点下だった。
今回の陸別訪問の目的は斗満原野(とまむげんや、今の陸別町)を開拓した医師、関寛斎(せきかんさい、後に寛:ゆたかと改名)の苦労と偉業を偲ぶためで、陸別出身の医師・伊藤先生も同行してくれた。次回に関の83年の歴史を詳しく述べるが、その概要を関翁の銅像に記されている碑文で紹介する。

「翁は1830(天保元)年2月18日上総国(かみふさのくに)中村(現千葉県東金市)で生まれ、豊太郎と称し、後に寛斎・寛と改め白里と号す。医学を志し、佐倉(千葉県)で佐藤泰然(たいぜん)、長崎で蘭医ポンペに学び、阿波藩(徳島県)藩主蜂須賀公の侍医、奥羽出張病院頭取、山梨病院長、徳島藩医学校病院長を歴任したが、官を辞して徳島で開業し、名医として敬愛された。1902(明治35)年8月10日、北海道開拓の志をたて、73歳のとき斗満(とまむ)の大地に鍬(くわ)を下す。さらに人跡未踏のキトウシ山麓の開拓を目指すこと10年、開拓の先駆となり入植者の指導、援助に当たる。翁はまた、開拓者援護にも尽力しわが国の医療発展に多大な貢献を果たし、医術を駆使して、開拓者の治療と保健活動に献身した。1912(明治45・大正元)年10月15日、子息に開拓の理想を託してこの世を去る。時に83歳」

関は斗満開拓にあたり「われら老夫婦は、北海道におけるもっとも僻遠の(遠く離れている)未開地に向ふて、我らの老躯(年を取って衰えたからだ)と僅少(わずか)なる養育費をもって、わが国の生産力を増加することに当たらば、国思(生まれ育った国から受ける恩)の万々分の一をも報じ(報いることができ)、且つ亡父母の素願(常日ごろ抱いていた願い)あるを貫き、霊位(死者の霊が乗り移っている位牌)を慰する(慰める)」と書き留めている。
関が開拓に入った当時の北海道は、道南や石狩で政府主導による開拓がようやく進み、空知・上川へと広がっていた。しかし、道東は依田勉三、二宮尊親ら一部民間の開拓団が入植した以外は全くの未開地だった。どこまでも広がる原生林を切り開きながら、真冬には氷点下30℃にもなる厳寒の地で、73歳のご老人が開拓に入ったのだ。
初年度には早霜の害で作物は収穫できず、2年目には害虫が発生し、また野ウサギやネズミが野菜や牧草を食い荒らした。3年目には原因不明の病気が蔓延して70数頭いた馬や牛の8割が死ぬという過酷な状況だった。
さらに、その年には最愛の妻が亡くなり、関は精神的にも多大な打撃をこうむっていた。このような中で「わが牧場の現状を恐るる(不安に思う)者あらば、直ちにわが牧場を立ち去れ。予は決して此の牧場を退かざるなり。我一人にても止まりて牛馬の全斃(全ての牛馬が亡くなる)を待つ。しかし幸いにして1頭にても残るあらば、後栄(再建)の方法を設くべし。我ら夫婦の素願(常日ごろ抱いていた願い)を貫くの道なりと信じて動かざるなり」と、命がけで訴えた。それを聞いた小作人たちの中で、立ち去る者は誰一人いなかったという。

私が陸別を訪れたのは関の命日の翌日。何かの縁があるような思いで、まずその逝去について話を進めていく。関は自身の持つ医薬(モルヒネなど)を飲み、自死するという衝撃的な最期を遂げていた。
理由については明らかではない。ただ七男で札幌農学校に学び、関とともに斗満原野開拓にあたった又一が、小作人によるアメリカ式大農場方式での開拓を主張したのに対し、関が農民を自立させ自作農を広げることを願っていたことで、2人の意見が対立してこのような結果になったと言われている。
だが又一は関の最大の理解者で、父の功績に対しいくつもの書を遺しており、それは息子・孫の代まで続いている。果たして、2人の軋轢が関を自死に追い込んだ原因だったのだろうか。ふと疑問を感じた。

この斗満で、関も満天の星を見ていただろう。そこには83歳の人生で先に逝かれた多くの人たちの星がまたたいていたのに違いない。
関は貧しい農家に生まれ、3歳で母を亡くしている。その面影を生涯思い続けていたともいわれる。関は82歳の時、亡き母の夢を見てそれを次のように歌に残している。
“夏の夜の短き夢もむすぼらで ふたたびうつる母のおもかげ”

52年間連れ添い、苦楽(苦しいことが多かっただろう)をともにした妻「あい」は、斗満を訪れることなく、病気療養していた札幌で1904(明治37)年に亡くなる。あいは遺言を書く力もなく、関に口頭で遺す言葉を書き残してもらった。「葬式は決してこの地(札幌)にて執行すべからず。牧場において卿(関)が死するの時に、一同に牧場において埋めるの際に、同時に執行すべし。死体は焼きてよく骨を拾い、牧場に送り貯えて、卿が死するの時に同穴に埋め、草木を養い、牛馬の腹を肥やせ」
関は「あのまま徳島に居れば……。お前をここに連れてさえ来なければ……」。夫の後悔をあいは静かに、しかし強く打ち消した。「あのまま徳島に残されたなら、私は後の一生をただ悔いて過ごさなければなりませんでした。先生(関)と連れ添い、ともに夢に向かい、生きてこれました」(高田郁著「あい永遠に在り」より)

2人は子沢山で8男4女を授かるが、四男の文助は1歳で、次女コトは2歳で、五男末八は5歳で幼くして亡くなった。四女テルも13歳、長女スミは36歳で関夫婦に先立って亡くなっている。
なお関が敬愛し、キリスト教の慈悲の心で進歩的農場経営をしたトルストイも1910(明治43)年、寛斎80歳の時にこの世を去る。
明治維新から45年間、激動の時代も明治天皇の崩御で終わり、明治天皇の大葬が1912(大正元)年9月に執り行われ、乃木将軍も殉死。その翌月10月15日に関が自死している。

関は斗満の丘から満天の星をみて、その中にこれらの人々の星を見出したのではないだろうか。死期を悟った寛斎は、深淵な宇宙に吸い込まれる思いを胸に抱いたのではないだろうか。
関と妻のあいは今、青龍山と呼ばれる50メートルほどの小高い丘にある墓で眠っている。関が入植した時、わずか7人だった斗満原野は陸別となり、今は3600人が酪農・林業に従事している。町民は皆、陸別開拓の祖・関を尊敬しており、毎年の命日には大勢でお参りしていると聞く。現地では、関神社の前にくると馬も牛も頭を下げるといわれている。関は北海道開拓の理想を追った真に気骨のある人物である。
“我身をば焼くな埋むなそのままに 斗満の原の草木肥せよ”
関寛斎、辞世の句である。