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北海道開拓の先覚者達(58)~早山清太郎~更新日:2015年11月01日

    

「篠路山龍雲寺」には荒井金助に並んで早山清太郎の石碑が建てられている。前号、前々号で紹介したように、荒井は武家出身で箱館奉行の調役であり、またイシカリ役所長官の地位にあった人物。一方、早山は生涯一農夫を貫いた人物である。なぜ身分の違う2人の碑が並んで顕彰されているのだろうか。
それは、荒井がイシカリに始めての開墾地「新井村(後に荒井村)」を拓いた陰に、早山の存在があったからだ。
 1857(安政4)年、早山は自らが調べた農作物の成長についての独自の気象予報と土地勘から、この地の気候・風土が農業に適していることをイシカリ役所長官の荒井に伝える。荒井は早山の熱心な態度に動かされ、現在の琴似十二軒川ほとりの地を与えた。妻と長男とともに、熱心に農作業へ打ち込む姿に荒井は心を打たれ、大阪から取り寄せた米の籾(もみ)1俵を与え、米作に取り組ませもした。
その翌年、早山の努力により、寒冷地のイシカリで始めて米が収穫された。早山は荒井の心配りに感謝して、収穫された米の内、7升を贈る。荒井はこれを箱館奉行(堀織部正:おりべのしょう)に送ると、堀奉行は大いに喜び、早山に1両余りの報奨金を与えた。温暖な松前地方以外で米が生産できたのはこれが始めてであり、島松の中山久蔵が本格的に米づくりに成功するきっかけとなった。
 荒井は早山の調査能力と土地勘の良さを認め、イシカリ内で穀物の生育と運送に適した地を探すよう命じる。早山は多忙な農作業の余暇を使ってイシカリを調査し、シノロが地味肥沃で水利の便もいいことを荒井に報告した。この時1859(安政6)年10月。早山は報告とともに、この地に繁茂する樹木を伐採し、翌年には1万坪もの荒野を開墾した。荒井が長男を含め10数人の農民をこの地に入れて村づくりを始めた。この村は新井村(後の荒井村)と呼ばれるようになった。

 早山は1817(文化14)年、磐城国白川郡米村(福島県西白川郡郷村)の米作農家の3男坊として生まれる。商売や事業に興味を持ち、成人するとすぐに郷里を離れた。20後半から神仏を敬うようになって四国、九州、中国を巡礼し、京都にしばらく滞在する。1847(弘化4)年、郷里で米商いに失敗し、新潟で商家に勤めるが飽き足らず、蝦夷地を目指すようになる。妻と子供とともに蝦夷地に渡ったのは1851(嘉永5)年のこと。人夫として、松前城の改修工事に携わる。
1856(安政2)年、オタルナイ(小樽)で漁業に挑戦するが、もともと山育ちのせいかうまくいかず、職を転々としながらハリウス(現在の小樽市張碓)の漁業家・堀内仁兵衛のもとで菓子屋を営む。商売の才には長けていて、毛皮の卸売りなどにも手を染め、幅を広げていく。堀内は早山の勤勉さを評価し、番人に任命する。そのころ、幕府は蝦夷地を松前藩から取り上げて直轄とし、在住(士族出身の開墾者)を募っていた。在住の家屋建設で木材が必要になり、早山は番人を辞めて伐木下請けの仕事に就くことになる。早山はこうした仕事のかたわら、この地方の気候などから農作物の成長についても調べ、それをイシカリ役所長官の荒井に伝えたのである。冒頭触れたように、これが新井村発祥のきっかけとなった。

 荒井が堀織部正によってその才覚を認められ、極貧の生活からイシカリ役所長官へと引き上げられたのと同じように、早山は荒井によって、その類まれな感性が認められたといっていいだろう。
 早山の事跡について記していくと、すでに述べたが「イシカリ近郊における水田米作の創始者」がまず挙げられる。3アールの水田を琴似で開き、収穫米のうち10キロを幕府に献納して賞賛された点。さらに「シノロ村の開祖」として、荒井や他の者が離村する中、シノロに定着して開墾を自ら進めながら周囲の農民の世話を尽くした功績もそうだ。
 次に「土地の調査、選定および道路開削」への貢献。早山は優れた土地勘を持っており、原野の踏破・距離の測定に独特の技術を有していた。道路の開削には異常な熱意を示しており、札幌近郊で20を越える道路を開削している。
早山は道路を25本開削すれば神仏の冥利に叶う、との信仰を持っていたと言われる。路線調査では人の気づかぬ内に歩数を計って距離を明らかにし、野草・熊笹などの生い茂っているところを行くのは、陣笠のようなものをかぶり、首を前方にかがめ、双手で熊笹などを左右にかきわけて進み、その巧みなことは常人の及ぶところではなかったと言われる。さらにある人は、彼の道路開削の熱意には何か神秘的なものがあったようだとさえ回想している(札幌百年の人々:札幌市史編纂委員会)。
これらの貢献が認められ、彼はこの地で開拓使倉庫の看守や駅逓取扱人、シノロ郵便局取扱人などを任され、地域住民の頼れる世話人となった。
 早山は「札幌神社(現北海道神宮)」の敷地選定でもその主要な役割を担った。1869(明治2)年、開拓使が設置されると、早山は「御宮地処並開墾新道新川その他掛(神社設置の場所選定役、並びに道路や河川を開削する役目)」を命じられた。
開拓三神を背負って札幌に来た開拓史判官・島義勇を案内し円山を検分、神社の敷地をこの地に決めた。島は「蓋し(けだし)、早山は傍近(近辺)の山川を熟知する者で、即ち我が北海の主人である」と、彼が地理に詳しいことを高く評価している。

1871(明治4)年6月15日(この日が「さっぽろ祭り」と定められる)に「札幌神社」が太政官によって国幣小社に列せられた。同年9月には社殿も建設。同月14・15日に遷宮の祭典が挙行され、早山は猿田面(ひげを生やし天狗さんのような高い鼻をしたお面)をつけて御神体を先導した。以来毎年6月15日の祭典には彼が同じお面をつけて先駆し、それは老齢を理由に本人が辞するまで続けられたという。
 早山は自費で道路・橋梁を建て、あるいはシノロ教育所の設立に尽力し、開拓使や国からしばしば賞せられている。1882(明治15)年には明治天皇来道時には篤農家として拝謁を許されている。古希を過ぎても、かくしゃくとして農業に携わっており、晩年まで勤勉で中等な生活(決して豊かさを求めない)を営み、1901(明治34)年8月1日、91歳で生涯を終えている。以上のところが、生涯一農夫とイシカリ役所長官の石碑が並んで建てられた所以だ。

 昔の(北海道小学郷土読本)には、以下のような一文が掲載されており「札幌開拓の祖」であった早山を語り継いでいる。

「篠路川は約十二、三町で伏籠川(ふしこがわ)のふくらんだ曲がり目に合した。そしてそのつけ目のところに、ふちに青い苔をしている土橋がかかっていた。土橋を渡ると伏籠川より橋のたもとに梅ノ木が2本並んでいる。……この梅の木と道路をはさんで向かい合わせに、篠路川に沿って草ぶきの四角で長い大きな家が立っていた。がんじょうな柱ががっしりと立っていて、中に大きな土間のある家らしかった。1つも飾りのない、むしろ飾りということをてんで知らないような家であったが、家はていねいにいつも手入れされて、どこか奥まったおくゆかしさが溢れている家であった。私たちはみんな『これが早山の清太郎お爺さんの家なんだぞ』ということをだれ知るということなしに知っていた。『この爺さんがここからの草分けなのだぞ、札幌でもこのより早く来た人がないのだぞ、札幌神社もこの爺さんが場所をお選びしたんだとさ』……物知りの太郎吉という友達が説明した。私たちはその説明をききながら、この太い柱の家の奥に何か古いものがあるような感じをもった」