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北海道開拓の先覚者達(56)~荒井金助(1)~更新日:2015年10月01日

    

「帯状降水帯」という言葉を始めて耳にした。積乱雲が帯状に発達し、その地域に猛烈な雨を降らせる現象だという。台風17号と18号の影響で9月10日夕刻から翌11日にかけ、「帯状降水帯」が関東から東北に発生。鬼怒川の堤防が決壊するなど甚大な被害をもたらした。ヘリコプターで救援活動する自衛隊の方々の勇敢な姿をテレビで見て、はらはらしながらも、その沈着冷静かつ優れた救護技術に深い感銘を覚えた。このような方々が「友好国」支援のため危険な戦線に向かうと思うと、戦中生まれの私としては納得しかねる思いを持たざるを得ない。
 さて、台風17号の影響でまだ雨が残る中、札幌市北区篠路の龍雲寺を訪れた。目的はこの寺院と深い関係のある2人の「北の先覚者」、荒井金助と早山(そうやま)清太郎の石碑を拝見するためだった。龍雲寺の住職にお願いし、寺の内部で立派な本堂も拝見させてもらった後、立ち去る際「開基100年 篠路山豊国院 龍雲寺」という700ページを超え装丁も立派な本を頂戴した。
 この本は龍雲寺境内に住み、札幌市立拓北小学校の教頭も勤められた羽田信三氏を編集委員長として、篠路と関係の深い方々が龍雲寺100年を記念して1988(昭和63)年に作成したものだ。龍雲寺の歴史、特に篠路村を開拓した荒井金助と草山早太郎について詳しく記載されている。住職には心よりの感謝を申し上げたい。
 今回は、頂戴した本、および札幌市教育委員会が編集し1989(平成元)年に発行した「新札幌市史」、ならびに1968(昭和43)年に高倉新一郎氏が委員長となり札幌市史編さん委員会が発行した「札幌百年の人びと」を参考にして、荒井金助について2回に分けて報告したい。

 北海道大学農学部名誉教授で札幌市史の大御所、高倉新一郎氏は「今日の札幌は金助の施策によって基礎が開かれたと言って言い過ぎではありません」と、荒井金助を高く評価している。「金助の施策」については後段で詳しく述べるとして、まず当時の歴史的背景から書き進めるとしよう。

北海道開拓の第一人者で、私も深く感銘を受けた堀織部正(ほりおりべのしょう)は、今年1月1日付けの本ブログで「開拓神社には祀られていないが、まさに北海道開拓の基礎を築いた英傑である」とすでに書いた。蝦夷地・北蝦夷地(樺太)調査の後、初代箱館奉行に就任。堀は北方警備のため五稜郭や弁天台場の建築、箱館開港、学問所の開設、石狩の開拓、続(つづき)豊治を重用した日本初の西洋型船の建造など、北海道開拓に多大な貢献をしていた。
 1853(嘉永6)年、ペリーの浦賀来航に続き、ロシアのプチャーチンが長崎に来た。目的は樺太・千島の日露国境確定で、鎖国下にある日本に対し、早急な判断を求めた。幕府は危機感を持ち、堀と村垣与三郎に蝦夷地及び樺太へ調査隊を派遣する。ちなみに、この一行には後に札幌市街開発の始祖と言われる島義勇や、旧幕府軍として蝦夷共和国総裁となった榎本武揚も加わっていた。
幕府の調査団はロシアの脅威を目の当たりにするとともに、防備を担当すべき松前藩の無力、無策、無気力も明らかにした。堀と村垣は江戸に帰ると、ロシアの南下に対して蝦夷地の警備を強化すること、アイヌの人たちの「撫育(愛情を持って大事に育てること)」のため、蝦夷地を幕府直轄にすべきと主張する。幕府は2人の提言を受け入れて、1855(安政2)年に木古内以東、乙部以北の蝦夷地を上知(幕府直轄)する。同年6月には箱館奉行を設置し、奉行には堀、村垣、竹内保範の3人が任じられた。

 さて、お待たせしたが今回の主人公・荒井金助について説明していこう。
龍雲寺に残っている「由緒書(ゆいしょがき:履歴書)及び碑文によると、荒井は1809(文化6)年に江戸に生まれる。代々幕臣の家柄で、父の跡を継いで利根川筋の定普請役を務める。若くして京都に上り、その後朝廷に勤務していた。
大柄で色浅黒く、鼻は高く、額は禿げ上がった武者風であったという。しかし、腰には武士の魂である大刀はつけず小刀のみ。威張ったことは嫌いで、いつも書物を手にし、酒や煙草も口にせず(小生にとっては心苦しい限りだが)、書生や旅の人を愛し、それに惜しみなくカネを使ったという。
荒井は「資性豪爽(性格は豪快かつさわやか)」で、上司におもねず、信じたところをやり通し、部下や若者の育成に努めたとされている。しかし、この性格が災いして上役と意見が合わず、江戸に戻される。江戸では極めて低い地位しか与えられず、失意の中赤貧を洗うごとき生活を強いられていた。
 荒井が苦境にあった最中、北方の重要姓を説き、イシカリ革命のため蝦夷地に呼んだのが堀である。堀は荒井の才覚をよく知っており、箱館奉行である自分を支える人物として招集したのだ。荒井はもちろん感激して北方開拓のために立ち上がった。彼にとって堀は神様のごとき存在であったろう。堀の計画を実行、実現することに命をかけた。
 1857(安政4)年3月、荒井は箱館奉行支配調役並(その後調役)となり、家族・部下7人とともに江戸を発ち、勇躍箱館に向かった。同年7月にイシカリ役所の責任者として着任。その後1863(文久3)年まで、6年間にわたってイシカリ開発・開拓の責任者としてその役割を果たした。
 着任当時、石狩市、札幌市、江別市、夕張市にまたがる「イシカリ13場所」、つまり石狩川とその支流付近はサケの一大産地であった。トクヒラ(石狩川河口、生振あたりか)、ハッシャブ(発寒)、シノロ(篠路)、ナイホウ(伏古川)、上サッポロ(豊平川)、下サッポロ(豊平川)、上ツイシカリ(対雁)、下ツイシカリ(対雁)、上ユウバリ(夕張)、下ユウバリ(夕張)、上カバタ(樺戸か)、下カバタ(樺戸)、シュママップ(島松)がその場所だ。
 堀と荒井は、この地を蝦夷地開拓の中核地とし、さらに北方警備の拠点となるべき場所として位置づけ、構想をめぐらせた。「イシカリ役所のあるイシカリを中都(箱館が当時蝦夷地の中心都市であったため、それに続く都市)とし、ツイシカリ(対雁)に城を築くべし」というもので、イシカリが攻撃された場合、内陸でかつ交通の要衝であるツイシカリに退いて防衛するという構想である。荒井は率先してその実現に当たったが、その詳細は次号に譲る。

 中抜きで申し訳ないが、荒井の最期と龍雲寺の創設につき、前編のまとめとして触れてみたい。
 1866(慶応2)年12月23日、荒井の死体が五稜郭の掘から見つかった。療養していた箱館の宿舎から突然姿を消して以来ほぼ1カ月後のことだ。荒井が心底慕っていた堀が江戸に戻り、後任の奉行は荒井からイシカリ場所の収益金が送られてこないのを恨み、箱館の沖の口掛という下役に、さらに室蘭詰に左遷する。室蘭で病に侵され箱館で療養中、寝巻きのまま突然宿を抜け出し行方が分からなくなったのだ。
 荒井には好太郎という長男がいて、江戸より荒井に同行してイシカリに移り、開拓事業に加わっていた。その妻・なつとの間に初めて子(孝造)が生まれ、荒井にそれを知らせる手紙を送った。初孫の誕生を楽しみにしていた荒井だったが、ついにその手紙を見ることはなかった。
 私が訪ねた龍雲寺は新堂で、開基100年の1984(昭和59)年に建立されたもの。同年10月6日に大法要がおこなわれている。新本堂の建築に合わせ、旧本堂は現在、札幌市厚別区の「北海道開拓の村」に歴史的建造物として移設されている。
 龍雲寺(旧堂)は元々人家であったが、好太郎の妻なつが「この家を寺として荒井家の菩提を弔いたい」として、譲り受けたものである。なつは遺産や耕地を寄付し、1885(明治18)年に本堂を建立する。旧龍雲寺は、荒井と開拓使に勤務するも若くして亡くなった好太郎、さらに樺太久春内(くしゅんない)に赴いた18人の霊を追悼するため、なつがそのすべてをかけて建てたものなのだ。さらになつは、荒井の33回忌にあたる1898(明治31)年、龍雲寺に墓標を、1902(明治35)年には記念碑を奉納している。
なつは「皆様に金助が成し遂げられなかった空前絶後の志を語り継ぎたい」との思いで荒井の墓標と龍雲寺を残したのだ。