「情報を先取り、タブーに挑戦」を編集方針とし、生活者・企業経営者に
最新かつ有益な情報価値をご提供する、北海道の地域政治・経済誌

ロゴ

トップページ > 社長ブログ > 北海道開拓の先覚者達(51)~村橋久成(3)~

長ブログ

このエントリーをはてなブックマークに追加

北海道開拓の先覚者達(51)~村橋久成(3)~更新日:2015年07月15日

    

 村橋久成の2度目の渡道は、函館七重開墾場と琴似屯田村の立ち上げがその目的だった。
村橋の話に移る前に、七重開墾場が舞台となったプロイセン(現在のドイツ)貿易商・ガルトネルの「開墾場条約事件」について触れる必要があるだろう。
 七重開墾場を巡っては、わずか2年あまりの間に、本ブログに登場した多くの先覚者たちがかかわっている。
箱館開港、江戸幕府の解体、榎本武揚による蝦夷共和国の設立、函館戦争、開拓使の設立。めまぐるしく動く時代の中で、七重開墾場はその舞台の1つとなった。
 1854年、ペリーおよびロシアのプチャーキンが相次いで箱館に入港。
各国の開港要求に対し、1859年、幕府は米・英・露・蘭・仏の5カ国に交易の門戸を開く。
各国が次々と領事館を箱館に開設し交易を推進する中、ガルトネルはプロイセン副領事であった弟をつてに箱館奉行と折衝し、近郊の開墾を計画した。
 幕府最期の箱館奉行・杉浦誠は、ガルトネルの西洋農業を箱館で始めたいとの熱意に動かされ、1500坪の地を彼に貸与し開墾許可を与える。
 1868(明治元)年に大政奉還があり、清水谷公考(きんなる)が杉浦から一切の政務を引き継ぐ。清水谷は公卿出身で、初代箱館府知事(当初は箱館奉行所総督)就任当時は、24歳の若輩者だった。この時点で杉浦はガルトネルとの契約をいったん解約する
 清水谷の片腕だったのが井上石見(長秋)で、この人物は薩摩の大久保利光と岩倉具視を引き合わせた人物として知られている。井上は、西洋式農業で蝦夷地を開拓すべきとの判断に至り、ガルトネルの開墾の申し出を受け入れる。
 しかし、井上は同年8月19日、釧路沖で行方不明になり、ガルトネルとの約束は中に浮いたままとなる。奇しくもこの日は、榎本武揚が幕府艦隊8隻を率い、品川沖を蝦夷地に向けて出港した日である。
 榎本軍が蝦夷地に入り蝦夷共和国を設立すると、ガルトネルは榎本側に接触し、「七重の地は開けており、土地も肥沃で、世界のどの地よりも耕作に向いている」と、西洋式農業による開墾を熱心に訴える。
1867(明治2)年2月、両者は「蝦夷地七重村開墾条約書」を締結。日・独・英の3通の文書が作成され、榎本は契約書に署名捺印する。
 その内容は、「洋風農業の普及のため学生・農夫を指導する。このために七重付近300万坪(1000ヘクタール)をガルトネル氏に99年間貸し付ける」というものだった。
 しかし、箱館戦争が勃発し榎本軍は降伏。同年5月19日、いったん青森に避難していた清水谷は21発の礼砲を放って箱館に帰還する。
ガルトネルは、早くもその翌月には清水谷に七重開墾に関する詳細な要望書を提出。契約概念そのものを理解しているとは思えない清水谷は、部下で戦うことしか知らない長州藩出身の南判事ともども、開墾場を視察。
なんとその翌々日には第2回の租借協定「地所開拓のため蝦夷政府・ガルトネル氏の協定」を締結してしまう。充分な検討が行われたとはとても思えない。
 その第一条は「10年間無税、その後10年間は別記の条件で、契約の終期はない」というものだった。目的も年限もなく、契約文の頁数も榎本の5分の1というお粗末なものである。
 翌7月、新政府は開拓使を設立し、清水谷は箱館府知事から侍従長に転出してしまう。8月には開拓使長官に東久世通禧(みちとみ)が就任。
清水谷からの本件に関する申し送りもなく、東久世はガルトネル借地の1件を突然知り、驚愕する。
 明治政府は外国資本の侵入、ひいては植民地化の足場となることを恐れ、契約の破棄を命じ、結局、1871(明治3)年、政府は6万2500両(12億5000万円)を賠償金としてガルトネルに支払うことで妥結した。
この金額はガルトネルの要求する6万5000ドルの96%であり、清水谷と同じく公卿出身の東久世の交渉力がいかにお粗末だったかが窺われる。
 
 長々とガルトネル事件について記載したが、村橋と七重開墾場との関わりに就いて話を進めていきたい。
 小説「残響」の著者・田中和夫氏は、村橋が英国留学中、ベッドフォードで農機具を駆使した西洋式農業を見学し、鮮烈な刺激を受けたと書いている。「広大な農場を2頭立ての馬がたてがみをゆすり、プラウを挽く姿を村橋は描いた。延々と続く長い畝に大麦や小麦の種が蒔かれる。馬鈴薯も洋菜、麻もある。それらの青葉で地表が覆い隠される」(「残響」より)。
 村橋は西洋式大農場の夢を七重開墾場に託したのだろう。その開墾場はガルトネル事件の舞台でもあった。

 七重開墾場は1874(明治6)年6月に竣工。札幌本道を箱館から、亀田を経た地点にある、300万坪の未開地だ。札幌新道は、開拓長官・黒田清隆の依頼で1872(明治4)年に外国人顧問として来日したケプロンの提案に従って建設された。函館から札幌までの日本発の西洋式馬車道である。
札幌新道開通により、七重開墾場は物資の運搬、人々の往来に便利な場所となっていた。
 開拓顧問として1872(明治4)年8月に来日したケプロンは、黒田開拓使次官ともども、開拓使10年計画の実施に精力的に取り組んだ。その1つが東京官園の経営である。
東京官園は、外国から輸入した果樹(第一官園)、野菜(第二官園)、家畜(第三官園)を栽培・飼育し、適したものを札幌官園、七重開墾場に展開しようとする実験場であり検査場である。
 第三官園の主任は真駒内に銅像のあるエドウィン・ダンで、ここでは西洋馬にプラオを曳かせるほか、大型農具も実地に使用していた。

 村橋は1873(明治5)年6月、東京官園農業掛になるが、「北海道とは気候・風土がまるで違う東京に、東京官園という大規模な施設を設けたのでは経済的にも大きな損失だ」という意識を持っていた。
 村橋は開墾に当たるべく七重開墾場への転任希望を出し、翌年の暮れも押し迫った12月、希望が認められ辞令を手渡された。
いよいよ、夢にも見た西洋式大農場の開墾を、自分が先頭に立って進めることができるのだ。
「函館に船が近づくにつれ、台場山で土方歳三が指揮する旧幕府軍の強力な抵抗に遭ったこと、箱館山の背後に上陸して市街を一挙に制圧したこと、中島三郎助親子が籠もった千代ガ岱陣屋を襲撃したこと、榎本らの降伏に立ち会ったことも思いだされた」(「残響」より)。

 村橋は七重開墾場の責任者として官員に次のような指示を出している。
「北海道開拓をなすためには、まず内地他府県からの殖民を図らねばならない。それとともに、彼等の慣習と食生活を改善し、小麦、大麦、蕎麦、ライ麦などを粉状にして粉食を奨励しなければならない。家畜についても同様である。外国種を導入して改良を図らねばならない」
村橋の意気込みが感じられる。彼の頭には、留学先の英国で学び、衝撃を受けた機械式大農業経営が巡っていたのであろう。

 温帯の東京官園で2年間試植した作物は、北海道に移植できることが明らかになり、七飯開墾場ですべてを扱うことになる。村橋にとって夢を実現するその時が来たのだ。
さらに、家畜の増殖を図り保存用の燻製の産業化や、隣接する大野村の桑園を振興し養蚕場を造り生糸の生産を図りたい。村橋の夢は西洋式農業から、新規産業の勧業へと果てしなく広がっていった。
 最初にして最も重要な仕事が七重開墾場の測量である。作業は極めて困難な厳冬期に行われたが、村橋指揮の下、官員全員の懸命な努力によって予定通り完了した。村橋の思いと、指導力の賜物であった。
 村橋は、測量の終わった七重開墾場で本格的な西洋式農業を始めようと胸を高鳴らせていたが、黒田を始めとする新政府及び開拓使は、才覚のある村橋をそのままにはしておかなかった。次の指令が村橋を待っていた。

 明治政府の最大懸案は当時、戊辰戦争で生計を失った士族や農民、さらに廃藩置県で禄高を失った侍家族を、屯田兵として北海道に移住させることだった。黒田は村橋に命じ、札幌近郊に屯田兵村を建設させる。
 当時、松本十郎が岩村通俊の後任として、開拓使本庁の大判官を勤めていた。岩村は、東京に居ながら開拓使で専制を振るう黒田に抗議し、罷免されていたのだ。松本は厳しい予算の中、緊縮財政を強いていたので、当時の札幌は不景気の真っただ中にあった。
 村橋は屯田兵村の適地として琴似を選択し、予定地の原生林に多くの人夫を送り、測量、立ち木の伐採、道路の築造、兵屋建設に取り掛かる準備を行った。村橋には、七重で実現できなかった西洋式大農場運営を琴似でやりたいという思いがあったのだろう。
しかし、松本はチキサム(月寒)での屯田兵村建設に固執。2人の間に軋轢が生じた。屯田兵村での大農場構想は、緊縮財政を敷いている松本大判官の許すところではなかった。
琴似村では、村橋が計画した通りの兵屋配置で作業が踏襲されていったが、松本の意向に反した村橋は、その建設の先頭に立つことはなかった。
村橋の下役だった永山武四郎などが屯田兵政策推進役となり、村橋は空知地方の炭田視察や室蘭の屯田兵村選定の仕事に回されてしまったのだ。
またもや、村橋の夢が実現することはなかった。
 
 知事公館に置かれている村橋久成の銅像は、この2日間の雨に濡れ、心なしか涙目になっているかのようだ。