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北海道開拓の先覚者達(5)~鍋島直正~更新日:2013年08月01日

    

 北海道と遠く離れた佐賀県で北方領土返還運動が盛んに行われているのをご存じだろうか。佐賀県では45団体の協力を得て「北方領土返還要求運動佐賀県民会議」が1980年に設立されている。また、佐賀県立図書館の鍋島文庫には北方領土や蝦夷地の古地図、さらには文献が多数所蔵されており、この中には北海道にもない貴重な資料が多く含まれている。
 北海道と佐賀県にはどのような関係があるのだろうか。そこにはまれにみる賢君と呼ばれた鍋島直正の存在が大きく関わっている。今回は鍋島直正と北海道に関連する佐賀人脈について書き進んで行きたい。

 1732年、享保の大飢饉が中国、四国、九州で発生した。冷夏と害虫により餓死者97万人、米収は3分の1という大災害をもたらした。この中でも佐賀県(備前国佐賀藩)の被害は最も深刻で、餓死者が当時の人口の7割にあたる8万人を数えたといわれている。また1828年、飢饉からの復興途上にシーボルト台風が有明海を襲い、佐賀藩だけで死者8550人、負傷者8700人を出し、膨大な田畑が失われた。さらに、負担の重い長崎港警備を幕府から長年命じられており、藩の財政は極めて厳しい状況であった。
 このように藩財政が破綻状態であったにもかかわらず、直正の父で藩主の斎直(なりなお)は重臣達の甘言から藩財政の困窮を理解できず、贅沢を極めた生活を送っていた。
 直正が誕生したのは1815年、シーボルト台風が佐賀藩を襲った13年前である。台風の傷跡がまだ癒えない1830年、17才(数え年)の若さで第10代備前国佐賀藩主を襲名することとなった。
 新藩主として直正が江戸から領地の佐賀に赴くとき、その行列は停止せざるを得なかったという。佐賀藩に貸し付けのある商人達が藩邸に押し寄せ、借金返済の実力行使に出たのだ。直正襲名時の藩財政はにっちもさっちもいかない状況に陥っていたのである。
 直正は藩財政の危機を改めて認識するとともに、この屈辱を何とか晴らそうと佐賀に到着するやいなや、父親から寵愛を受けた重臣達を解任し、抜本的な財政改革に乗り出すことになる。
 アベノミクスは既得権勢力の抵抗が少ない第一の矢「異次元の金融緩和」、第二の矢「大胆な財政出動」を打ち出したが、第三の矢「成長戦略」は中途半端であり、1000兆円を超す国と地方の債務残高を改善すべき第4の矢「財政戦略」については、その方向性さえも未だ打ち出していない。直正は180年前に「藩財政改革」を断行したのである。

まず打ち出した直正の第一の矢が役人の大幅削減で、なんと就任前の5分の1にするという大胆な手を打った。その上で質素倹約を徹底させ、歳出の大幅カットを実施した。ひるがえって今の日本に考えてみるに議員定数の削減、官僚の削減の声が一時叫ばれていたがどこへいったのだろうか。
 第二の矢は債務(借金)削減で、一つは利息を全額免除し、元金は最長100年年賦で返済する「利留年賦」、もう一つは元金のごく一部を返済し残額は佐賀藩に献金させて返済する「打切」。民事再生法も顔負けの手法である。現代の経済社会では極めて困難なやり方と思われるが、よく考えると南欧諸国は現に社会保障費や財政支出の大幅削減、消費税(向こうでは付加価値税)増税、公務員の削減と給与カットで財政の破綻を食い止めようと必死になっている。もちろん、国民は失業率の拡大など塗炭の苦しみを味わっている。GDPの2倍を超す政府債務を抱える日本で同じような事態に陥らないとは言えないだろう。
 直正第三の矢は産業育成である。佐賀藩の名産である磁器、お茶、石炭産業の保護・育成と、それらの交易によって藩歳入の増加を図り、また広大な有明海の干拓で農地を拡大し、1840年代には67万石と公称石高のほぼ2倍に米収を増やした。さらに農民が心配せず農作業に専念出来るよう小作料の支払い免除を打ち出すなど農村振興に力を入れた。“休耕地”“耕作放棄地”“農地の不動産用地化”などが紙面を賑わす現在とは大きな違いだ。
 第四の矢で最も力を注いだのが教育の振興である。藩財政困窮の中、教育予算を3倍に増額し、藩校「弘道館」の充実に力を入れた。藩士の子弟は全て弘道館に入れ、朝6時から夜10時まで文武両面の教育を推し進めた。藩校の試験に合格しない者は家禄の10分の8が没収され役職にも就けないという厳しいものだった。
 一方、優秀な人材は身分にかかわらず抜擢された。佐賀の賢人といわれる大隈重信(明治政府の重臣、早稲田大学創始者)、江藤新平(東京遷都を建白、明治政府司法大臣)、副島種臣(明治天皇の学問相手、外務・内務大臣)、島義勇(開拓使主席判官)、佐野常民(元老院議長、商務大臣、蒸気機関車やアームストロング砲を試作)、大木喬任(東京府知事、文部大臣)など優秀な人材が「弘道館」から輩出されている。
 これら人材は北海道開拓の一翼を担った方々でもある。時の右大臣岩倉具視も「弘道館」が高名であることを聞き、自分の息子2人を弘道館で学ばせている。
 ところでNHK大河ドラマ「八重の桜」もいよいよ佳境を迎え、7月21日は鶴ヶ城開城の場面が登場した。会津藩と新政府軍との戦力の違いは圧倒的な火力の差でもあった。新政府軍のアームストロング砲はその破壊力と飛距離で会津勢を圧倒していたが、実はこのアームストロング砲は財政再建で生み出された資金で佐賀藩が購入し、独自技術で製造したものである。八重が使ったスペンサー銃も、一部の佐賀藩兵士が使用していた。

 直正は長崎警備に際し、諸外国の軍事力が日本と比べ格段に違うことを痛感し軍備の強化に努めた。ペリー来航の前年、佐賀藩は長崎に日本史上最大の洋式要塞を完成させている。この要塞には鍋島藩が開発した反射炉で鋳造した14門の大砲が設置され、にらみをきかせた。
 同じ時期、直正は日本初の蒸気機関の製作を命じ、また蒸気機関を採用した軍艦2隻も建造している。その軍艦2隻を率いて上洛した際、直正は近衛関白に対し「殿下、もし我が備前佐賀藩と薩摩・長州・土佐の三藩とを戦場で勝負せしめると、我が藩は足軽縦隊40人で在京三藩の兵力をことごとく打ち破って見せます」と言ったそうである。自藩の火力に絶対的な自信を持っていたのだろう。
 幕府、薩長共に佐賀藩を味方に付けようと様々な画策が講じられたが、直正は頑として受け入れず中立を装っていた。しかし最終的に桂小五郎と会い、また藩士の大隈重信と副島種臣の議会制度採用、ならびに大政奉還の説を受け入れ新政府側にまわった。薩長土備連合の誕生であり、その後の新政府では佐賀人脈が主要な役割を担うことになった。

 1969年(明治2年)5月18日、五稜郭の開城により徳川300年の最後となる戦いは終わった。開城の1週間後にはすでに「蝦夷地開拓の件」が上奏され、6月4日には鍋島直正にその実施計画を作成する命が下された。翌月には早くも開拓使が設置され、直正は初代長官に任じられた。同年10月には家臣島義勇を蝦夷地に向かわせ、その間に作成された詳細な調査報告「入北記」がその後の蝦夷地開拓の基盤になっている。
 直正はかねてよりロシアの南下政策に手を打つ必要があると主張していた。彼の目は南の端にいながら常に北の端に光っていたのである。
 直正は蝦夷地への移住にも積極的で他藩が財政難もあって尻込みする中、佐賀藩から630人を浜中村(現在の北海道厚岸郡浜中町)に集団移住させた。まさに北方領土がすぐ近くにある地域だ。次回では鍋島直正の続きと、北海道の名付け親である松浦武四郎について掲載してみたい。