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北海道開拓の先覚者達(50)~村橋久成(2)~更新日:2015年07月01日

    

 村橋久成は3度北海道を訪れている。最初は五稜郭に立て籠もった旧幕府軍を攻撃するため、2度目は七重開墾場に新しい農業の先兵たらんとした。そして3度目は、札幌に麦酒や葡萄酒醸造場を建設するためだった。
 今回のブログでは、第1回の北海道渡航について取り上げる。

 1869(明治2)年の旧暦4月13日、蝦夷地に進攻した薩摩・長州・水戸など9つの藩、約2000人の軍勢は乙部に上陸した。
旧幕府軍はこれに対し、榎本武揚総裁のもとで陸軍奉行並に就任していた土方歳三が、300人の兵を率いて増援に駆けつけ、急峻な二股口で薩長軍と対峙した。「第1次二股口の戦い」の始まりである。この戦いはまさに壮絶なものであったと言われている。
 二股口は北斗市村山(旧大野町)に位置している。歩兵の築く塹壕が16カ所もあり、台場山とも呼ばれた。
村橋を含む薩長主体の新政府軍は、乙部上陸後に江差・中山峠を越え、旧幕府軍の2倍超の600人で二股口へ進攻した。
 新政府軍は土方軍の前線を破ると、勢いに乗って台場山を攻撃。一方、土方軍は塹壕から激しく銃撃して抵抗を繰り返す。夜を徹した長時間の戦で新政府軍は攻めあぐみ、死傷者を重ねて撤退を余儀なくされる。土方軍が初戦を制することになった。

 第2次二股口の戦いは同年4月23日から3日の間、死闘が繰り広げられた。
 村橋は「落部(おとしべ)から森へ政府軍が向っているという情報が台場山の旧幕府軍に入れば、敵は必ず撤退する」と考え実行に移すとともに、ひたすら無駄な兵の損失が無いよう自重する戦法を講じた。
 この戦いで長州藩の駒井隊長は旧幕府軍の砲塁を目指して走り出し、左の胸に銃撃を受けて戦死した。無謀な突撃だったが、その勇猛さが讃えられて村橋と比較されたという。
 その後、村橋は旧幕府軍殲滅のため、函館山背後からの上陸も提議した。これは英国留学で学んだ「陸軍学術」によるものであり、総大将の黒田清隆も賛同する。作戦は奏功し、陽が沈むころには函館一帯は弁天砲台を除いて完全に制圧された。しかし、その戦果の栄誉も村橋に与えられることはなかった。

 戦況が完全に薩長軍の手の中に落ちると、五稜郭や弁天砲台に残る旧幕府軍に対し、いつ総攻撃をかけて殲滅するかの段階となった。
 この時黒田は「榎本やその部下で陸軍奉行の大鳥圭介らを失うのは新国家の一大損失である」と、いかに旧幕府軍を恭順させるかに心を砕いていた。

 同年5月12日、村橋は同郷で部下の池田次郎兵衛とともに、黒田の意向を伝えるべく箱館病院を訪ねた。
病院長は高松凌雲。高松はイギリス留学の経験もあり、敵(新政府軍)も、味方(旧幕府軍)も区別せずに治療を施した人物で、後の明治政府では初代赤十字総裁になった。
 村橋と池田は、戦いで負傷して箱館病院に収容されている会津遊撃隊長・諏訪常吉を見舞い、講和交渉を申し入れた。
 しかし諏訪は筆を持つこともできないほどの重症で、病院長の高松が、村橋の降伏勧告を伝える書を榎本に書き送った。
 その書には「榎本軍の海軍は敗れたが、五稜郭と弁天台場では、実に奮闘しており、武士の道として感服の至りである。榎本軍を残らず殺傷してしまえという意見もあるが、朝廷は決してそのようには考えていない。正しく判断して和平の道を選択すべきと思う。死をもって徹底抗戦するつもりなのかどうか、回答するようお願いしたい」という内容が記載されていた。
 14日、榎本から高松宛てに返書が届けられたが、その内容は新政府軍の好意に謝するものの「あくまでも戦うつもり」というものであった。
 この返書とともに、上下2巻の本が添えられていた。この本こそ榎本が英国留学中に手に入れて学んだ、国際航海法の権威ある文献「万国海津全書」である。
 戦火の中で消失するのを憂い、日本海軍の将来のためにと榎本が黒田に託したのだ。
 黒田はますます榎本の人柄に惚れ込み、16日に酒5樽などを贈ったほか、必要なら武器弾薬も提供するという戦場では有り得ない返書を送る。

 そんな最中でも、前線は徐々に緊迫の度を増していた。15日に弁天台場を守っていた240人が投降し、残るは五稜郭と千代ヶ岱陣屋のみとなっていた。
 千代ヶ岱陣屋では、中島三郎助が息子2人を含めた150人ばかりの兵を指揮していた。中島は、1953年にペリーが浦賀へ来航した際、敢然と黒船に乗り込み、ペリー艦隊と折衝した気骨の武士として、その名を天下に知らしめた人物。また長崎海軍伝習所の第1期生で、榎本や勝麟太郎らと最新の兵学を学んだ人物でもあり、真の武士として今も語り継がれている。
 大鳥は榎本の意向を受け、中島に五稜郭に入るよう説得したが、中島は最期まで戦い玉砕する道を選んだ。同陣屋には16日午前3時に攻撃が開始され、わずか1時間で同陣屋は陥落した。
この時、同陣屋の旧幕府軍に止めを刺したのが村橋である。加治木(旧鹿児島県加治木町)砲隊長として、英国で学んだ村橋の距離や着弾測定は確度が高く、どれもが目標に命中した。
 榎本とともに強い使命感から蝦夷地に立て籠もる決心をし、黒田や村橋からの度重なる恭順の勧めを拒み続けた中島は、息子2人と悲壮な死を遂げた。
 中島親子最期の碑は、函館市中島町に建立されている。中島町は1931(昭和6)年の町名変更の際、中島親子の名をとって付けられている。
 翌17日、榎本隊は降伏を表明した。榎本軍の兵器を受け取ったのも村橋であり、降伏を申し入れた決定的な現場にも村橋は立ち会っている。

 さて、榎本から黒田に充てた2度の書状には、降伏を勧めに訪れた人物として、池田次郎兵衛の名が記されていた。
 本来ならば立場が上位である村橋の名が記されるべきだが、これは村橋が「歓降書」の文章に説得者を池田としてその名を入れ、部下にその栄誉を譲ったためである。
 榎本を恭順させ、函館戦争を終わらせた人物として池田は輝かしい勲章を得たことになり、その後明治政府では黒田の側近として重用されることになる。一方、村橋はその陰に沈む。

 函館戦争に勝利した薩摩軍は勇躍、鹿児島に向け同年5月25日に函館を発ち、7月24日に郷里へ帰還した。
長きにわたって戦い、凱旋して帰ってきた父や息子、そして勇士を迎える大勢の人たち。郷里はお祭りのようなにぎわいであった。
 あふれる涙と笑顔で喜びを表す妻、久しぶりの子どもを抱きかかえる藩士。このような中、村橋はただ1人、喧騒の中を通り越え、閑静な自宅に向かった。帰ると年老いた母親だけが玄関で手をついて村橋を迎えていた。
 何があったのかいぶかしげに村橋が仏壇の前に座ると、そこには戊辰戦争の際、越後で戦死した弟・宗之丞の位牌が置かれており、その隣には小さな位牌が。
 母が涙ながらに話すには、村橋が出陣してほどなく息子が生まれたが、その後高熱に見舞われ、父親である村橋の帰還を待たずに幼くして亡くなったとのこと。
 小さな位牌は村橋が会って抱きしめようと、心待ちにしていた息子の変わり果てた姿だったのだ。妻の志津は、薩摩の女としての道を守り、初七日から実家に帰ったとの事である。
 その後、何人かから志津との再縁を勧められたが村橋は断り、残りの人生を一人で過ごすことになる。
 村橋は英国留学の途中で帰国したが、留学に加わることができず村橋たちをねたんでいた一部の者から「現地での勉学についていけず、途中で帰された」という噂を藩中で広げられる。
 村橋はこれらの噂を打ち消すことなく、自ら廃嫡(村橋家を継ぐことを放棄する)し、弟の宗之丞を嫡子とする願いを藩庁に願い出ていた。だがその弟も越後で戦死していた。

 円山公園の池に毎年飛来するカモやオシドリの数がいつになく少ない。今年は、札幌の春が異常に暖かく、北に繁殖地を移したのだろうか。
 先月(5月)、ようやくにして1羽の赤ちゃんおしどりが生まれ、母鳥に離れまいとして一緒に餌さをついばんでいる姿が見られる。
 少子化が鳥の世界にも及んだか。