「情報を先取り、タブーに挑戦」を編集方針とし、生活者・企業経営者に
最新かつ有益な情報価値をご提供する、北海道の地域政治・経済誌

ロゴ

トップページ > 社長ブログ > 北海道開拓の先覚者達(49)~村橋久成(1)~

長ブログ

このエントリーをはてなブックマークに追加

北海道開拓の先覚者達(49)~村橋久成(1)~更新日:2015年06月15日

    

 1892(明治25)年9月25日、神戸市葺合村(ふきあい村、現在の神戸市中央区)の路上で、警官が1人の行き倒れの男を発見した。所持品はなく、下着だけの裸同然の姿である。男は当初偽名を使ったが、その後「自分は鹿児島塩谷村の村橋久成(むらはし・ひさなり)である」と名乗った。
男は病院に運び込まれたが、3日後に帰らぬ人となった。身元不明のままだったので、縁故者を探すため、神戸市は10月に入って「又新(ゆうしん)日報」に行旅人(いきだおれ)死亡記事を掲載した。
その内容は「鹿児島県鹿児島郡塩谷村 村橋久成 右の者9月25日当市葺合村にて疾病のため倒れており、当庁で救護中に同月28日に死亡し、仮埋葬した 心当たりの方は申し出ていただきたい」というものであった。

この記事を見て、東京の新聞「日本」は「英士の末路」と題した記事を掲載した。以下に、その内容を今風(私風)に綴る。

「明治25年10月12日発行の神戸又新日報の広告欄に一片の記事が出ていた。この行旅人村橋久成はどのような人物で、何故このような哀れな死を迎えることになったのだろうか。この行旅人は数々の功績を遺し、本来ならば高官になるべき人物なのだ。聞くも哀れな物語である」
「村橋氏は鹿児島藩の士族で、加地木島津の分家という由緒ある家柄の出身。家格は『寄合並』、将来は家老職に就く地位で、本人も上級藩士だった。明治維新以前、薩摩藩主は大きな時代の変革が押し寄せるのを予期し、藩内で最も俊才の誉れある若者10数人を選抜し、英国・ロンドンに留学させた。村橋もその一員に選ばれている」
「同行者は鮫島尚信(さめじま・なおのぶ:後の外務省次官)、森有禮(もり・ありのり:初代文部大臣・一橋大学創立者)、吉田清成(よしだ・きよなり:米国駐在公使、農務省官僚)、村松淳蔵(むらまつ・じゅんぞう:海軍中将、男爵)ら、そうそうたるメンバー。一行は勇躍串木野浜から出発し、英国では大望と藩の名誉にかけ勉学にいそしんだ。蛍雪苦学の努力が実ろうとし、前途洋々のロンドン留学であったが、村橋は2、3の学友とともに、1年余りの学業半ばで帰国することになる」
「帰藩後は文武に励んでいたが、間もなく戊辰戦争が始まった。村橋は参謀長・黒田清隆に率いられ、調所廣丈(ちょうしょ・ひろたけ:後の鳥取県知事、貴族院議員)、安田定則(やすだ・さだのり:後の茨城県知事、貴族院議員)両氏らとともに奥羽箱館戦線に出陣。勇名を轟かした。黒田からは厚遇を受け、戦争終了後は恩賞を受ける。黒田が北海道開拓使次官および長官になると、奏任官(明治憲法下の高等官)の立場となり、調所と堀基(ほり・もとい:北海道炭鉱鉄道初代社長、貴族院議員)などと並び称された」
「だが、その後は何を感じたのか友人や家族の切なる引止めにもかかわらず、突然すべてを捨てて遁世する。千の山を越え、万の川を越えたのだろう。その行方はようとして知れなかった。ところが、突然神戸で彷徨の行旅人として行き倒れになり、死亡広告で朋友知己に知らせるという結果になったのだ。何ともはかない思いが込み上げてくる」――

村橋の最期は「観しくれば、栄枯盛衰は夢の如く、功名富貴は幻に似たり。村橋氏の感ずる何のために感ぜしやは知らざれども、その末路を見てうたた凄然(せいぜん)たるものあり」(原文ママ)と結ばれている。
新聞で村橋の死を知った黒田は、神戸から遺体を東京に運び、自ら葬儀をおこなったとされている。

 村橋の北海道とのかかわりは、1873(明治6)年に函館七重開墾場の測量、畑の区割りをし、北海道における勧業・勧農の基盤を築いたというもの。翌1874(明治7)年には屯田兵制度創設にともない、琴似屯田兵村の区割りと開設作業を指揮。今の札幌市の基礎を固めた人物と言える。とくに高い評価を得ているのが、麦酒醸造所を札幌に建設したことである。
 当初、麦酒醸造所はまず東京官園(今の青山学院近く)に置き、その成果によって札幌に移すべきと黒田長官は指示した。しかし、村橋は北海道の気候、産業の振興、さらには経費面を考えると、最初から北海道に建設すべきであると主張して譲らなかった。
絶対的な権力のある黒田長官の意向に反する主張であり、官位を賭しての強硬な意見であった。しかし村橋の意見が通り、札幌に麦酒醸造所が建設されることになった。
「かくて、1876(明治9)年6月27日、現在のサッポロファクトリー近辺に総工費8348円12銭3厘の予算で工事に着手、同年9月8日に竣工。同月23日午後1時から開拓使札幌麦酒醸造所の開業式を挙行したのであるが、これが実にサッポロビールの起源である」(「サッポロビール沿革誌」(1936年発行)より)。
 開拓使が建設した官営工場は、味噌醤油醸造、製塩、木工、鉄工、挽材、麺粉、煉瓦石、石炭、製網、葡萄酒、肝油、缶詰など30余に上る。その中で、昔も今も変わらぬ姿を保ち、歴史を継承し続けているのは麦酒醸造所だけである。

 いつも通る北海道知事公館の庭に、村橋の胸像が置かれている。2003(平成15)年7月、高橋はるみ知事の道政方針演説で村橋の功績が取り上げられ、それがきっかけとなって2005(平成17)年に建立されたもので、その台座には「残響」と記されている。
 「残響」とは、北海道新聞文学賞、北海道文化奨励賞を受賞した作家・田中和夫が村橋を主人公に描いた小説のタイトルである。
 この度、サッポロビールさんのご好意で本書をお借りすることができた。
300ページを越える大作を3度読み返した。読むごとに、1行たりとも気を抜けない作者の圧倒的な文章力に、克明に調査分析した歴史の表現に、そして主人公・村橋のかたくなまでの潔癖性、ストイックと思われるほどの自意識の高さ、さらに歴史に翻弄される姿に胸が抑えつけられるような重圧を感じた。

「残響」には、本ブログで取り上げた北海道開拓の先覚者たちが次々と登場してくる。
旧幕府軍の軍艦8隻を率いて蝦夷地にわたり、蝦夷共和国を創設したが新政府軍に敗れた榎本武揚。
榎本軍の下、二股口で新政府軍を打ち破ったが、戦況はかばかしくなく一本木関門近くで壮絶な最期を迎えた土方歳三。
新政府軍を率いて箱館戦争に勝利を収めた後、開拓使次官・長官として北海道開拓に当たった黒田清隆。
箱館裁判所総督(後の箱館府知事)に24歳の若さで就任して間もなく、榎本軍の攻撃で青森に逃れ、その後新政府軍とともに箱館に戻り、開拓次官になった清水谷公考(しみずたに・きんなる)。
初代北海道開拓史大判官となり、後に黒田と意見が合わず辞任させられた岩村通俊、同じく黒田の怒りを買った松本十郎。
さらに、永山武四郎、外人顧問のホーレス・ケプロンやエドウィン・ダン、ドイツ人実業家のガルトネルが村橋の周りに登場してくる。

次回から2、3回の連載で、村橋の生き様とこれらの人物とのかかわりについて、小説「残響」の流れに沿いながら綴っていきたい。

札幌では、「YOSAKOIソーラン祭り」も始まり、北海道神宮の例祭も14日からだ。いよいよ北の夏が始まる。ビールがいっそうおいしくなる季節が訪れた。