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北海道開拓の先覚者達(48)~水原(すいばら)寅蔵~更新日:2015年06月01日

    

 5月も残り少なくなり、初夏と思わせる気候が訪れてきた。昼食後、近くの中島公園を散歩することもあるが、そこの日本庭園入り口に石碑が建っているのをご存知だろうか。札幌軟石の台座の上に白御影石の碑で「四翁表功の碑」と印されている。
四翁とは、明治初期の札幌開拓に貢献のあった大岡助右衛門、石川正斐、対馬嘉三郎の3人と、今回の主人公・水原寅蔵である。
 ホーレス・ケプロンの勧めによって開拓使は果樹栽培を奨励したが、水原はこれに応え1876(明治9)年、今の「すすきの」から中島公園一帯に至る広大な土地に大規模な果樹園を開設した。南9条西1丁目に社屋がある我が社もかつてはリンゴ園だったのだろう。
このリンゴ園で採れた「水原リンゴ」は全国的にも有名になったが、これが北海道で最初にできた民間果樹園で、その後平岸や白石でのリンゴ栽培に大きな影響をもたらした。
 当社「財界さっぽろ」所蔵の1887(明治20)年5月刊行「札幌繁盛図鑑」(高崎龍太郎出版刊)に、この「林檎園」の図が掲載されている。本図鑑は函館銅板所制作による銅版画で、当時の道庁、札幌神社、農学校から遊郭に至るまで100余りの建築物や施設が細やかな技法で印刷されている。
「林檎園」の図には面積1万坪、木数700本、収穫年均3万個と書かれている。(ちなみに「札幌繁盛図鑑」は当社によって1981(昭和56)年10月に複製発行されている)。

 さて、水原寅蔵についてその人生の歩みを見ていきたい。
 水原は1818(文化15)年1月1日、近江国(今の滋賀県)甲賀郡三村町で生を受ける。13歳のときに郷里を出て京都、大阪地方で土工夫として働き、土木技術を習得。その後、越後国水原(すいばら)に移り住んだ。この頃から土工夫としての腕は確かなものであった。
1856(安政4)年、松川弁之助に同行して箱館に渡る。松川弁之助については本ブログ2014年8月1日号でとりあげたが、55歳で配下数十人を引き連れて箱館に渡り、谷地頭の御用畑(官営の畑)の開墾、野菜の栽培、苗木の育成、谷地1万5000坪に新畑を開くなど、函館開拓に多大な功績を遺した人物だ。水原は松川が引き連れてきた配下の1人として蝦夷地に渡った。
松川は武田斐之助の設計による五稜郭の土塁構築、弁天台場の土木工事を請け負った。そこで水原は弁天台場や海岸埋め立て工事で松川の右腕としてその技量を発揮。その活躍振りは「水原の寅蔵」として一躍名を馳せることになる。

松川は1858(安政5)年、360人の配下を率いて樺太開発に向かうが、13場所の漁場はすべて不漁で大損失を被る。その後も当地での成果は上がらず借金がかさみ、1861(文久元)年には力尽きて郷里に引き上げた。
水原も同じく帰郷するが、その10年後の1871(明治4)年、再度北海道に渡り、存分に土木建築の技量を発揮することになる。
その2年前の1870(明治2)年に開拓使が設置され、判官の島義勇が札幌の地を北海道開拓の本府として開発に取り掛かり、島の後を継いだ岩村通俊がその構想を実現しようとしている時期であった。
水原は札幌に到着すると独立して開拓使御用請負人となり、培った土木建築の腕を存分に発揮する場を得た。勤勉な働きぶりは眼を見張るものがあり、水原の事業は隆盛の一途をたどる。
水原は札幌本府の建設事業を指揮し、岩村通俊の後を継いだ松本十郎開拓使長官からも篤い信認を得ることになる。
1876(明治9)年、開拓使は札幌にビール工場を建設することになり、その総責任者・村橋久成は業者の選定にかかった。工場は水原寅蔵が2773円で入札したと記録されている。村橋は琴似屯田兵村の家屋造営で何度か水原と顔を合わせていたが「実直な男である反面、新しいものを積極的に取り入れるという冒険心を持つ男だ」と評している(田中和夫著「残響」)。

その年、水原に信頼を寄せて庇護していた松本長官が黒田長官と意見が合わず開拓使を辞すが、水原は大果樹園の造成に取り掛かる。でき上がった「水原リンゴ」はすぐに名声を博した。
水原果樹園から始まったリンゴ栽培は、札幌村、琴似村、手稲村を中心にし、白石、豊平、平岸へと広がっていく。平岸には1900本の苗木が水原果樹園から配られた。
1881(明治14)年には天皇陛下行幸の際に水原果樹園のリンゴも献上され、金一封が与えられた。また、1891(明治24)年の第1回果樹品評会では、水原果樹園の「四十九号」が最優秀の一等を受賞。それほどまでに品質を高めたということだろう。
1893(明治26)年、開拓使長官の黒田清隆は水原を果樹園の始祖として認め、それを記念してリンゴを紋章とした黒紋付一式を贈与している。
1907(明治40)年、札幌のリンゴ園総面積は800ヘクタールにも広がり、全国一の生産を誇るまでに成長していった。近年、都市化が進んで札幌のリンゴ園は次第に姿を消し、平岸のリンゴ並木がその名を留めている。

一方、開拓使により札幌市街区の整備が着々と進行し、多くの商工業者が移住してきたが、ここで問題となったのが彼らの住居だ。彼らはいつ引き上げてもいいように草ぶきの簡素な住居に住んだ。
火の不始末による延焼を防ぐため、開拓使は「家作料貸付金制度」を設け、まさ屋根の建築を進め草ぶき屋根を禁止した。しかし、貸付金をもらいながら、なお草ぶき屋根のままの住居が多く、大火事の危険が解消されないままだった。
これに業を煮やしたのが開拓使判官の岩村通俊。1883(明治5)年4月、岩村はまず官庁建物のうち草ぶき倉庫を焼き払い、町家の草ぶき屋根の住居も焼き払うという強硬手段に訴えた。これは「御用火事」と当時いわれていた。
このように開拓使は一般住宅の改良、特に防火住宅の普及に努めたが、成果が上がらない状況で推移していた。こうした状況の中、水原は率先して開拓使の意向に応え、1876(明治9)年、現在の南1条西4丁目に西洋風の家屋と石倉を建築した。これは民間における改良住宅のさきがけともなるものだ。
前述した「札幌繁栄図鑑」にもこの住宅は掲載されているが、大変立派な家屋で、1881(明治14)年に天皇陛下の行幸に合わせて建造した豊平館ができるまで、札幌の迎賓館として使われていたとのことである。
記録によると、黒田清隆、榎本武揚、岩村通俊も宿泊し、これら賓客からの感謝状が多く残されている。
また、1892(明治25)年にはリンゴを貯蔵するため貯蔵庫を札幌軟石で造ったが、今はその一部が南20条西8丁目に飲食店「かしわ亭」として面影をとどめている。

水原寅蔵は札幌神社に大鳥居を奉納したり、御神輿購入に積極的に加わったり善行を施した一方で「四翁表功の碑」に顕彰されている大岡助右衛門とともに、1871年に賭博で捕まり、創成川のほとりで百叩きの刑に処せられたとの逸話も残っている(さっぽろ文庫84中島公園)。実に人間味溢れた人物で、好感が持てる。
なお、水原は「四翁」の1人として表功されているが、篠路の草山清太郎、島松の中山久蔵と共に「開拓率先の三翁」でもある。

水原は1899(明治32)年、82歳で長逝している。