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北海道開拓の先覚者達(47)~エドウィン・ダン~更新日:2015年05月15日

    

1871(明治4)年、開拓使次官・黒田清隆は当時のグラント米国大統領に懇請し、同国農務大臣の要職にあったホーレス・ケプロンを、開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問として北海道に招いた。その後、クラークを含む5人の外国人を雇ったが、その中に日本人女性を妻とし、日本に永住して在日米国公使も務めた人物がいる。それが今回の主人公エドウィン・ダンだ。
 真駒内泉町に「エドウィン・ダン記念館」があるということで足を運んだ際、同館運営委員会の園家(そのけ)廣子氏から丁寧な説明をしていただいた。驚いたことに、膨大な資料の中に以前、私たち家族が3年間住んでいた米国オハイオ州デイトン市の新聞「デイトンデイリーニュース」があったのだ。
新聞は1952年7月25日付けで、お年を召した上品な女性が2匹の犬と戯れている写真が掲載されている。この女性こそ、エドウィン・ダンと日本人の妻ツルさんとの間に生まれた長女、ヘレン。ヘレンは5歳のとき、米国で教育を受けるべく日本を離れたが、彼女は後に父エドウィン・ダンの伝記を著している。
オハイオ州は、五大湖の1つ・エリー湖に州境を接した豊かな穀倉地帯。ここに住んでいたころの広大で美しい自然と、滞在中に接した心温かい人々が思い出され、懐かしさがこみ上げてくるのを感じた。

ダンは1848(嘉永元)年7月、オハイオ州スプリングフィールドで生まれた。スプリングフィールドはデイトン市に隣接している都市で、現在は両市を併せて、デイトン・スプリングフィールド都市圏を形成している。150万人を超える人口を擁する豊かな農業地域で、自動車・航空産業も盛んだ。
ダンの家は祖父の代に英国からこの地へ移民としてやってきた。ダンの青年期には父親が1万5000エーカーの大牧場を経営するまでになっていた。ダンはオハイオ州立マイアミ大学で法律を学んでいたが中退し、父の牧場経営に参加する。牧畜業全般について習得するとともに、競走馬の育成も学び、これが後の北海道競馬育成にもつながっていく。
1865年、65万人の死者を出して終結した南北戦争は、米国経済に大きな打撃を与えた。ダンの農場経営も経済不況の中、土地や牛・羊を手放さねばならず、残ったのはわずか500ドルの現金のみ。
そんな最中、ホーレス・ケプロンの息子A・B・ケプロンがダンの元を訪れた。ケプロンはダンに、牧畜に関する最新の技術と経験を北海道で生かしてもらいたいと要請する。期間は1年間。ダンは契約書にサインした。
1873(明治6)年、22日間の航海を経て、ダンは80頭の牛とともに日本へやってきた。到着後、ダンは開拓使が東京で運営していた第三官園で起居。一緒に米国から渡ってきた家畜を、北海道に送る前に日本の風土に慣れさせ、牧畜のことなど何も知らない北海道移住予定者に、アメリカ式農法の実習を施した。開拓史は渡島国七重に官園をすでに開設。ダンは黒田長官の求めに応じて北海道を訪れ、官園を視察するとともに野生化している馬の改良に努めた。

1875(明治8)年、ダンは5カ月ほど七重に滞在する間に運命の人と出会う。津軽藩役人の娘で後の妻・ツルだ。彼女は立派な教養と豊かな愛情を持った、典型的な日本婦人。この時ダン27歳に対し、ツルはなんと15歳。6尺(180cm)になろうかという大男のダンに対して、ツルは5尺(151cm)に満たない。
後年、2人は幾多の困難を乗り越えて結婚したが、ダンは「この結婚を一瞬といえども後悔したことはない」と言っている(記念館の説明より)。
“マッサン”とエリーの国際結婚よりもずいぶん前の話。今の私たちの想像を超える、幾多の困難が次々と2人に押し寄せてきたことだろう。
ツルはダンの指導を受けて乗馬は巧みであった。あるとき、ダンは新冠牧場から札幌への帰途、ひどく下痢に悩まされた。そのとき彼は従者の男を先に帰し、仕事の都合で泊まっているとツルに伝えさせた。ところが素早く事情を察した彼女はアイヌの馬に相乗りし、150キロの道のりを15時間走り続けてやってきた。「彼女が私の部屋に元気で入ってきたときは全くびっくりした」とダンは回想している。
1878(明治11)年、2人にかわいい女の子が生まれた。名はヘレン。ツルと手をつないで札幌の街を歩いていると、“あいのこ”ということで、悪童どもから石を投げられたこともあったという。
その後、ダンは病身のツルを残して、5歳になったヘレンを連れて米国に行き、娘の教育を妹のブラキストン夫妻に依頼し日本へ帰った(ブラキストンとダンの関係は本ブログ平成26年4月15日号に掲載)。
ツルは娘に会うべく渡米の準備までしたが、1888(明治21)年に28歳の若さで亡くなる。愛する娘に再会することはついぞ無かった。
ダンはツルが亡くなった後、日本人女性の中平ヤマと再婚。4人の息子に恵まれる。

話は少々戻るが、ダン夫妻は結婚後の1876(明治9)年に札幌へ転勤する。同年7月にはクラークが札幌農学校に迎えられ、札幌官園は同校に管理・運営が移った。
ダンに与えられた新たな任務は、牧場にふさわしい場所の選定とその経営。彼は札幌近郊をくまなく調査し、真駒内(真古間内)をその場所に決める。
当時の真駒内は深い原始林に覆われていたが、ダンは畜舎・家屋の設計、牧柵の設置、各種農機具の購入、種子の調達など、日本最新の「牧羊場」建設に取りかかる。米国から羊毛のメリー種200頭を取り寄せ、北海道の風土に十分適していることを確認している。
「エドウィン・ダン」記念館の近くにはダンの銅像が建っている。背中には子羊を背負っている。今年は未年ということで人気を呼んでいるそうだが、ダンのたくましさと子羊の愛らしさが対照的で印象に残った。

翌1877(明治10)年には、新冠牧場の改良整備に取りかかった。ここで遭遇したのはバッタとエゾオオカミの襲来。バッタは空を真っ黒に覆い、馬の餌であるトウモロコシなど、青いものをすべて食い尽くし、エゾオオカミは10日間で90頭もの子馬を食い殺すなど、牧場を我が物顔で暴れまくった。ダンは毒物のストリキニーネを取り寄せ、肉に混ぜて与えることでエゾオオカミを一掃。この時以降、北海道にエゾオオカミはいない。
新冠牧場では、道産馬の改良と輸入したサラブレッドの飼育を手掛け、競走馬の主産地となった今日の日高の基礎を築いている。「記念館」の資料には「ダンは責任感と動物愛護心が強く、あるとき種馬ダブリン号が急病との報を受け、秋の豪雨の夜、札幌から新冠まで180キロを一気に駆けていった」と記されている。

それと同じ年には、北海道大学の現在の農学部付近に800メートルの楕円形の馬場をつくり、競馬を始めた。そのころ日本には東京・横浜・富山に競馬場があっただけなので、ダンの競馬場は日本で4番目。翌1878年、この競馬場で本格的な春季競馬が開催され、ダンは得意満面でスタートの旗を振っていたそうである。
1882(明治15)年、開拓史の廃止にともなって9年9カ月に及ぶ日本政府との契約期間が満了。先に触れたように、病気のツルを日本に残してヘレンと故郷のオハイオ州に戻る。だがその翌年には駐日米国公使館二等書記官を拝命して再度来日。病身のツルを介護して、その最後を看取っている。
1893(明治26)年には駐日米国全権公使に任命された。現在のキャロライン・ケネディ駐日大使と同じ立場だ。ダンは外交官としても手腕を発揮し、特に日清戦争終結のために努力したことが高く評価されている。
1900(明治33)年には新潟県で石油会社を設立、1912(大正元)年には三菱に勤務するなど、日本経済の発展にも大いに貢献した。

ツルと再婚したヤマに先立たれた後も、ダンはなお日本を愛し続け、1931(昭和6)年5月15日、84歳の長い生涯を閉じた。このブログを更新したその日がダンの命日というのは、何か特別な思いが湧いてくるようだ。
子羊を肩に背負ったダンの銅像の横には、日本語と英語それぞれで書かれた顕彰碑が置かれている。エドウィン・ダン顕彰会が1964(昭和39)年10月に作成したものだ。
そこには「エドウィン・ダン氏は、明治六年開拓使が米国に求めた家畜を輸送して来日してから引きつづきその嘱を受けて北海道農業指導の任にあたり、ことに明治八年以来北海道にあって、七重牧場、真駒内種牛場、新冠種馬場、札幌牧羊場などを開設してその経営にあたり、家畜の飼育、牧草、甜菜、亜麻などの栽培、土地の改良、畜力農具の使用、畜産物の加工などあらゆる新技術を実地に伝えた。北海道は実にその基礎の上に栄えたのである。明治十五年任期満了後も日本に止まり、昭和六年八十四才で長逝されるまで、我国の外交、産業、文化の発展の為に全生涯を捧げられた。その恩澤は永遠に忘るべからざるものである。今その偉大な功績を永遠に伝えんがために、この像を建立する」と記されている。

エドウィン・ダン記念館のすぐ横に植えられているオンコの木には、その木の中で自然に生えた(寄生した)エゾヤマザクラが花を咲かせていた。
今はもう散ってしまったが、大通り公園ではライラック祭りの2週間も前に薄紫の花が芳しい匂いを漂わせており、我が家の近くではマロニエ並木の花が満開になっている。