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北海道開拓の先覚者達(43)~佐藤孝郷(下)~更新日:2015年03月15日

    

 1872(明治4)年11月25日(新暦で12月21日)、開拓使判官岩村通俊は佐藤孝郷ら67人の努力を激賞し、開拓の土地を旧藩ゆかりの「白石村」と命名した。
 元気づけられた侍たちは、真冬の寒さと原始の密林との戦いの中、12月7日(旧暦)には、ついに移住民が住む47戸の小屋を完成させた。雑木の巨木を伐採し、吹雪の中を粗末な服装で努力する闘志のすさまじさは、付近の移住者を驚かせたという。
 石狩に残された同士や家族は寒風におびえ、不安と焦燥にさいなまれていたが、ついに朗報が届いたのだ。67人が出発してからわずか20日間で、開拓の基地である住居と、月寒村から最月寒にいたる3600メートルの道路が完成した。佐藤を中心とする武士の一糸乱れぬ団結と協力の結果であり、新天地に希望の灯がともった。

 同年12月14日に第1陣の135人、翌15日には第2陣70人が出発。残る108人は1月下旬に出ることが決まった。故郷の白石から函館、小樽、銭函、石狩を経て、彼らにとっての最後の旅程だ。大晦日までに移住希望者全員が白石村に引越し、新しい年を迎えることができた。
 翌1月には戸数も73戸と増えたが、開拓使から次のような文書が届いた。「白石村には100戸とし、残りは発寒に繰り入れるべき事」
 白石村の開拓も順調に始まったかに見えたが、佐藤は家老職といいながらまだ22歳。佐藤より年長の者が沢山おり、「若造のくせに」と思う者たちもいた。一部の重臣たちとは渡航する前から意見の対立が続いていたのだ。開拓使はこのような状況をつかんでいたのだろう。
 結局、開拓使貫属移住157戸のうち白石村は100戸とし、残る57戸は発寒に入植することになった。発寒の地は手稲村と名付けられる。従って白石と手稲は兄弟関係にあたる。
 佐藤は子弟の教育にも熱心で、移住後早速取り組んだ。開拓使が設立した資生館(今の創成小学校)に、猫の手も借りたい多忙の中、2人の若者の入学願いを出し許可を得ている。また自宅の隣に「善俗堂(ぜんぞくどう)学問所」という寺子屋式の学校を開いているが、これが白石小学校の前身である。「善俗堂学問所」には5カ条の「定」を置き、厳しく教育した。その中の第2条には「長者(年長者)を敬い、幼者を憐れみ、放蕩軽慢(勝手気ままに慢心して振舞うこと)の義、これなきよう心がけ申すべきこと」とある。
 佐藤は開拓使に呼ばれ、開拓使15等出仕、白石村貫属取締兼戸長を命ぜられる。大出世だ。
貫属制度がなくなると、開拓使本官に任じられ、佐藤は次第に役所の信認が厚くなっていく。貫属とは「士分格(武士の扱い)で開拓使に属し、何らかの身分的な保証を受ける」もの。
 この制度がなくなると、開拓に従事していた士族移住者たちの、武士としての心のよりどころが失われてしまう。佐藤は開拓使に「平常の時は開墾に励み、一旦有事の際は武士として力の限り御用に立ちたいのでございます」と、嘆願書を開拓使に出すが、役所はその書状を戻してくる。
 一同の茫然自失で開拓に対する気力が少なからず落ちていく。同時に、1人出世していく若い佐藤に対する不満も沸き上がっていった。

 その様な中、佐藤は1873(明治6)年に資生館の漢学助教・舎監に任命され、翌年札幌戸長兼白石・雁木村長、そして札幌区初代区長に任命される。その卓越した手腕と実績が認められていったのだろう。
 岩村代判官の後任となった松本十郎大判官の信任も厚く「札幌区長が徒歩ではまずかろう」と、鞍つきの馬を佐藤に与えている。
 1877(明治10)年、西南の役が起こると、移住士族の中から屯田兵の予備兵を募った。「武士として奮戦し戊辰戦争の汚名を晴らしたい」と、多くの元士族が応募したが、開拓作業の遅滞を恐れ、佐藤は10人のみを引率して白石を出陣した。しかし、途中で戦いは終わっていた。その中に選ばれなかった元士族の中に、佐藤に対する不信が芽生えだしたことを彼は気づかなかった。
 その後、開拓使長官となった黒田清隆の信認も厚く、ロシア・コルサコフ視察に際しては庶務掛として随行している。佐藤は帰国後、極寒の地の丸太積み建築、ペチカ、馬そりなどを札幌にもたらしている。

 一方、幌別に入植した白石藩士族移住団は、佐藤率いる開拓使貫属扱いとは異なり、厳しい条件下での移住で、開拓は必ずしも順調ではなかった。
旧城主片倉邦憲は老齢のため仙台におり、幌別郡移住団は邦憲の子・景範(かげのり)が支柱となっていた。
 佐藤は1880(明治13)年、函館大火の際、対策責任者の事務官として出張し2月に帰るが、驚いたことに景範が白石、豊平、月寒、平岸の4村の戸長に任命されていた。景範は幌別での生活が困窮して上白石に移住していた。白石村の移住者たちも旧城主に対する礼儀から景範を戸長に戴こうとしたのだ。
 佐藤はかつての藩主が戸長で、家来の自分が札幌市全部を管轄する札幌区長では気まずいと感じ、1881(明治14)年に区長を潔く辞す。
 景範は4村の戸長になるが、1884(明治17)年に父・邦憲の病気のため仙台に帰ると、その後は2度と北海道に戻ることはなかった。
 景範が幌別から白石に移った(逃げた)後も、幌別移住団とともに苦労を重ねたのがその子・景光(かげみつ)で、今の登別の基礎を築いた人物である。

 札幌区長を辞した後も、佐藤の行政手腕は引き続き高く認められ、札幌郵便取締になり、開拓使が廃止され札幌県が置かれると、県庁の官吏になっている。
 佐藤の性格は曲がったことの嫌いな武士気質そのものであり、彼の活躍の場が広がれば広がるほど、こころよく思わない者も当然出てくる。そのような空気が村内に出てきた1884(明治17)年、札幌を離れ東京の大蔵省への転出を決意する。しかし、白石村への愛着から籍はそのまま白石に置いたままにしている。大蔵省でかなりの地位に進み、国会議員に立候補するが当選することはなかった。
 晩年、佐藤は東京芝の白金町に住居を構え、今の慈恵医大の講師を務めていたが、1922(大正11)年1月16日、白石村のことを口にしながら73歳で生涯を閉じた。
 年月を経て、佐藤孝郷の名も白石の人びとから次第に忘れられていった。前回(1月1日号と1月15日号)記載した小説「石狩川」の主人公、吾妻謙などのような華々しく北海道開拓史上には取り上げられていない。
 しかし、「白石発展百年史」では巻末に、「佐藤孝郷は屯田兵制度以前に雄図を抱いて来道し、白石藩士を率いて白石の基礎を築いた恩人である」と記している。

 先週末(3月6日―7日)東京出張の折、文京区駒込を訪れた。この地域は森鴎外、樋口一葉、夏目漱石など多くの文豪が居住していたところだが、お寺も多く、北海道開拓の先人たちも眠っている。
 今回は、東京都旧跡として指定されている最上徳内と近藤重蔵、及び文京区旧跡の緒方洪庵のお墓をお参りしてきた。いずれのお墓にも各人の功績が日本語と英語で説明板に記されており、旧跡として大事に扱われている。
 何か、北海道と東京都の絆がそこにあるような温かみを感じた。

 白石区では旧白石藩の片倉鉄砲隊を「白石区ふるさとまつり」に招き、甲冑姿で実演しており、その後札幌分隊を結成すべく準備が進められていると聞く。
 また、「白石区中学生の主張発表会」には宮城県白石市からも選ばれた生徒が招待され、白石区の代表と共に主張を発表している。
 このような交流が全国各地で開催されたなら、北海道の開拓者を送り出した地域と、先人のお陰で開拓された地域の人々の絆が一層深まるのではないだろうか。
 
 この4日間、吹雪による土砂崩れ、航空便の欠航、停電など道内各地で被害が出ている。しかし、その雪も淡雪で春の近さを感じさせる。マロニエ並木の蕾も少しずつ大きくなってきている。