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北海道開拓の先覚者達(42)~佐藤孝郷(上)~更新日:2015年03月01日

    

 有珠開拓を進めた亘理藩、当別を開拓した岩出山藩はどちらも伊達の支藩。戊辰戦争に破れた結果、禄高は大幅に削減され土地・住居も没収。藩士とその家族の多くは、生き残りのため藩主ともども北海道に移住せざるを得なかった。塗炭の苦しみを味わいながら開拓にいそしみ、今の伊達市や当別町を開拓してきたのだ。
 その両支藩と同じ境遇に置かれたのが伊達白石支藩である。亘理藩・岩出山藩の士族移住に関しては多くの書物に著されており、亘理藩の伊達邦茂、家老田村顕允、および岩出山藩藩主伊達邦直とその家老阿妻謙は開拓神社に祀られている。その一方、白石藩の士族移民については多くが知られておらず、また、開拓神社にその名を見ることもない。
 白石藩の士族移民について知りたいと思い、白石区役所を訪ねた。幸い、市民部地域振興課の方が親切に資料をご用意下さった。資料は「白石発展百年史」で、白石の開拓100年を記念して発行された貴重なものである。驚いたことに、資料の編集長で百年史の編集委員長を務めたのが、当社「財界さっぽろ」創業者で前会長の故・薩一夫だった。奇遇を感ぜざるを得ない。以下、その資料にしたがって白石藩移住者の労苦と開拓の成果について記していきたい。

 白石藩は、伊達政宗の軍師・片倉小十郎が主君・政宗から与えられた領地を発祥とする。明治元年、陸奥伊達藩13代目藩主・伊達慶邦(よしくに)は、主藩に従って奥羽同盟に加わり官軍に抵抗したが、戊辰戦争が終わる1週間前に降伏する(ちなみに、奥羽同盟の決起集会は白石城でおこなわれている)。
降伏の結果、白石藩の禄高は1万8000石から米55石に減俸。領地は南部藩の手にわたり、藩士の屋敷などすべての不動産が没収された(旧南部藩の内、八戸藩は奥羽連合に加わったが、新政府に対する献金で難を逃れている)。268年続いた白石藩の藩士1406人とその家族を合わせて7459人が、一挙に生活の基盤を失ったのだ。
白石県は角田県となり、按察府(あんさつふ:地域を管轄する役所、昔はあぜふと呼ばれていた)が三陸・磐城を管轄することとなった。

 何とか士族身分を剥奪されず、衣食住を得る方法はないか。旧白石藩の重役2人が上京して情報を集めた。当時、政府はロシアの侵攻を防ぎ、飢饉に困窮する農民を救うため、開拓使を設けて蝦夷地開拓を図っていた。この話を聞いた2人は、蝦夷地移住が最良の策と判断して藩主に建議する。

 藩主・邦憲は蝦夷地への移住をためらったが、家臣を菩提寺に集めて全員の賛同を得た上で、嘆願書を政府に上申する。この嘆願書は藩主名ではなく重臣からのものであり、亘理藩や岩出山藩と藩主の意気込みの違いが指摘されている。
 政府も蝦夷地開拓の方向性と合致するため、申し出を許可。幌別郡(今の登別市)への移住支配を命じる。邦憲は老齢であったため、その子・景範(かげのり)が部下数人を従えて、幌別で調査をおこない、標柱を立てて白石に戻る。
当初、藩士及び家族のほとんどが移住する計画であったが、実際には第1陣19戸、第2陣47戸の合計177人に限られることになった。蝦夷地移住にあたって政府は「家来、その他有志の者を募集して自費で移住し、必ず開拓の実績を挙げよ」と指示をするかたわら、3000両の資金貸与は断るという極めて冷たいものだった。結局藩士たちは自費移住に必要な金を手持ちの財産の売却で用立てた。その後、角田県は移住団の窮状を見かねて、白石城を解体してその資産売却益を当てることを認めた。これらも元手に幌別での開拓が進められた。

 さて、旧白石藩に残った600人を率い、最月寒(もちきさっぷ:今の白石区中央で望月寒と“望”を使用している)を開拓したのが今回の主人公・佐藤孝郷だ。
 佐藤は1870(明治3)年に蝦夷へわたり、かの地が有望であることは確認していた。問題は移住費用。費用の補助を再三にわたり願い出た結果、明治政府は片倉家の家来約600人に「北海道移住開拓使貫属」の役割を与える。開拓使貫属とは、開拓使に所属して開拓に従事する身分。移住費用の心配もなくなり、さらに士族としての身分も保証されたのだ。その後の屯田兵ともほぼ同じ扱いである。旅費、荷物の運送費用、農具、現地での小屋掛け費用、3年間の補助金の支給などが保証される。幌別移住団とは雲泥の差だった。
 なぜ、このような差がでたのだろうか。1つには有珠移住団、当別移住団、そして先発の幌別移住団の苦境が伝わり、政府としてもこのままでは北海道開拓が進展しないのではないかという懸念が上がってきた点。さらには、21歳の若家老・佐藤孝郷の人物、北海道開拓への思い、彼の明晰な頭脳や的確な判断力が角田藩知事や開拓使を動かしたと見るべきなのではないだろうか。
実際、佐藤はその後、岩村通俊、松本十郎、黒田清隆などの開拓使重鎮にその才能を認められ、主要な役職を与えられている。
 北海道への移住準備が整い、あとは出発の命令を待つばかりだった1971(明治4)年9月、ようやく出発の通達が届いた。北海道は冬が訪れつつある季節だ。
 600人の移住希望者は第1陣の398人、第2陣の206人に分かれて北海道に向った。第1陣に用意された船は咸臨丸。1860年、勝海舟が船長となって徳川幕府の遣米使節を乗せ、幕府の船として始めて太平洋を渡った船である。榎本武揚が幕府軍艦を率い品川を脱走した8隻にも加わっていた。その際は途中で故障し、清水で修理を受けた後、艦隊のあとを追って箱館に向う。だが途中で新政府艦隊の砲撃を受け、拿捕された。この戦いで多くの乗員が戦死し駿河湾に放置されたが、侠客・清水次郎長が彼らを砂浜へねんごろに埋葬している。

 さて、咸臨丸は函館に到着してその後小樽に向かったが、現在の木古内付近の浅瀬で座礁してしまう。幸い海岸が近かったので、全員身一つでずぶぬれになって船から脱出する。しかし移住に必要な貨物百個が失われる。何とか生き延びた移住民は、道なき道を8里も歩いて函館まで戻らなければならなかった。
 第1陣に遅れること9日、第2陣は庚午丸(こうごまる)で出港したが、大シケの中、津軽海峡で針路を誤り5日もかかって函館に着く。老人・子供を交えた船中は誠にひどいものであっただろう。
 第1陣は函館で第2陣と合流して庚午丸に乗船。寒風をついて小樽に向かった。当時の小樽はまだ開発が進んでおらず、600人全員を収容する建物もないので、そのうち300人が銭函に宿泊する。開拓使の指示に従い、その後移住民は3班に分かれて石狩を目指した。
当時の石狩は北海道西海岸では最も栄えた漁場だったので、全員を収容する番屋や納屋があった。開拓史は綿入れ、簡単な家具、農具、種子、夜具を支給してくれたが、炉に燃やす薪は生木。煙がもうもうと立ちこめ、眼病に罹る者や、のどを痛める者が続出。浜の人達は「仙台様は死なねばよいが・・・」と心配したという。

 佐藤と会った判官の岩村は「600人の移住については角田県から報告されていないが、心配することはない。これからは雪の季節で開墾は難しい。雪が解けるまで石狩で暮らしなさい」と伝える。しかし、移住民たちは「苦労を重ねてようやく北海道に来たからは、すぐにでも開拓に取り掛かりたい」という満々たる闘志に溢れていた。「風に吹かれ、雨にたたかれ、寒さにも暑さにもくじけないのは、北海道へ移住しようと決めた時からの覚悟だ」。
 移住民の思いに岩村も打たれ、希望する土地を喜んで割りわたししようと伝えた。
彼らが開拓の地として選んだのは豊平川を渡った先の最月寒。雑木林が石狩川の辺りまで続いており、開墾するに格好の地と思えた。
 1872(明治4)年11月、陰暦換算北海道は真冬である。この時期に600人が住む42戸の住居と道路を建設しようとするのだ。67人の男女が名乗り出て、建設が始まった。石狩の納屋に押し込められている家族や仲間を一日も早く迎え入れようと、彼ら大地の侍は命がけの闘志を見せて働き続けた。
この働きぶりは見る人びとを驚かせ、札幌の開拓使にも伝わってきた。開拓使大判官岩村通俊は部下を従え、最月寒まで視察に来た。「諸君の行為は一般移住民の模範とするに足る。諸君の郷里の地名をとって、今後この地を白石村というように」と彼らを激励した。
 同年12月21日(新暦ではちょうど今の時期)、白石村が誕生したのだ。

 以下、次号に続く。