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北海道開拓の先覚者達(41)~佐野孫右衛門~更新日:2015年02月15日

    

 昨年12月の総選挙翌日、久しぶりに釧路を訪れた。以前から釧路・根室の若手経営者たちに講演を依頼されており、ようやく実現したのがこの日だ。
釧路では是非行きたい場所があった。それは、釧路地方の漁場や農業を拓いた功労者、佐野孫右衛門を顕彰した碑が建っている佐野碑園(ひえん)。
 講演に参加した方々にお聞きしたが、その場所を知っているのはお1人だけ。翌日、タクシーで向かったが運転手さんも不案内で、連れて行ってくれたのは米町(よねまち)公園。石川啄木の碑は建っているが佐野孫右衛門の碑は見当たらない。ようやく近くを散歩している方に教えていただき、佐野碑園にたどりついた。釧路開拓の功労者が、意外に知られていないことに驚かされた。

 佐野碑園は小さな公園で、入り口には「この大きな碑は、江戸時代末期から命じ初めまで久寿里(クスリ)場所の請負人(漁場持)として釧路地方の開発にあたった佐野孫右衛門(1841―89)の功績を顕彰したものです。佐野家は、寛政年間に新潟県から釧路に移り、代々場所請負人を任じられていましたが、四代目にあたる孫右衛門は、昆布漁業振興のほか自費による道路開削や川湯の硫黄採掘事業も行い、釧路地方の発展に特に貢献しました」と記されている。
 さて「佐野氏紀功碑」は1935(昭和10)年8月に建立されたもので、高さ4、5メートルの立派なもの。碑陽(表面)には当時の内務大臣、後藤文夫と北大名誉教授の佐藤昌介の顕彰文が彫られている。カメラに収め、拡大しながら碑文の内容を読み取ろうとしたが、年数が経っていて一部解読不能の部分もあり、また辞書にも載っていないような旧漢字も多く、その全体を理解するのに大変苦労した。ここで、参考文献の助けを借りながら、碑文に沿って佐野の功績を辿ってみたい。

 開拓神社に祀られている孫右衛門は4代目で、屋号は米屋(よねや)。代々孫右衛門を名乗っている。初代は天明年間(1781―1788)に越後から福山(松前)へ入り、石狩13場所の漁場を請け負う。
 その後、1805(文化2)年に久寿里(くすり)場所を請け負った。久寿里場所は現在の釧路、白糠、厚岸一帯で、この地で最初に漁場を請け負ったのは、かの有名な(悪名の高い)飛騨屋久平衛であった。
 飛騨屋は久寿里場所で豊富に揚がるニシン、タラ、マス、サケで大金を稼いだが、米屋もまたそのおかげで大いに繁栄する。飛騨屋はアイヌの人々を酷使したといわれているが、初代孫右衛門は「資性卓絶」(その性格はほかに比べるものも無いほど優れている)で「不毛を拓き民利を興すの志有り」と記されている。漁民やアイヌの人たちにも慕われていたのだろう。初代孫右衛門は南部(奥州)地方から馬100頭を買い入れ、アイヌを馬追いとして雇って賃金を与え、物資運送と馬の繁殖をはかったという。
 1825(文政8)年、2代目孫右衛門は久寿里場所を150両の運上金で請け負い、その7年後の1832(天保3)年には3代目が引き継いだ。3代目は早世し、4代目が16歳で米屋をさらに引き継ぐことになった。
 4代目は久寿里場所での商いだけでなく「いつまでも稼ぎ所で同じことをしていてはだめだ」と、次々と新たな事業に乗り出す。
 それまで漁場の働き手は出稼ぎで、漁期が終わると郷里や別の稼ぎ場に引き上げていたが、4代目は南部(奥州)から5戸15人を久寿里に呼び、この地を永住の地とさせた。蝦夷地東部で始めての定住者である。

 1871(明治3)年には奥州や函館から漁民を募り、174戸637人がそれに応じる。彼らは釧路、昆布森、仙凰跡にそれぞれ移住。その家屋、漁具の一切は4代目が私費で与えたものだ。
 当時の釧路は未開の地で、病になっても医者がおらず、治療を施すことができなかった。4代目はそれを憂い、医師を釧路に招いて開拓者を無料で治療した。また子弟の教育にも熱心で、僧侶を招いて教えを説くとともに、寺子屋で子どもの教育にあたらせた。このような心配りに、移住してきた人々は深く感謝し、4代目への忠節は高いものになった(民風厚きに帰す)。
 翌年は釧路市街の開拓に取り組み、橋梁や渡船場を建設して通行(行旅)の便をはかった。また2万円(今の4億円)もの私財を投じ、市内に長さ7町(730メートル)、幅4間(7.3メートル)の道路を開削。市街地としての体裁を整えた。移住者たちは4代目の屋号をとって米町と名づけた。釧路で始めての町ができたのだ。

 だがこの年は、米屋にとって極めて厳しい年だった。流氷が押し寄せ、昆布の多くが流され、にしん漁やしめかす生産も不振であった。さらに、このころには函館港が開港し、外国商社が次々と函館に支店を設けて事業を拡大する。請負人たちはこれらの商社と競合もしくは提携を迫られた。昔ながらの商いでは近代的な経営手法に歯が立たず、交易も不振を極めていく。
 4代目はやむなく、所有の建物、漁具一切を佐賀藩に譲渡し、債務を肩代わりして函館への退去を決める。
 200戸を越える移住者やアイヌの人々は4代目の徳を慕い、彼が釧路川から別れを告げようとすると、小舟を出して引き止めようとする。彼らをなだめた4代目は、酒を振舞って暖かい見送りに応えた(また、以ってその人となりを察するに足らん)。場所経営の経験がない佐賀藩の手法は当然4代目と違い、住民の生活は窮乏に陥る。 各藩による漁場管理はうまくいかず、翌1873(明治5)年、漁場は再び開拓使の所管となる。開拓史は米屋の道東での実績を高く評価しており、4代目を釧路・白糠・厚岸3場所の戸長に任命。これを聞いた移住民やアイヌの人々は大いに喜んで祝宴を張り、数日間踊り明かしたといわれる。

 4代目は釧路に戻るとすぐ村々を巡回し、自費で河川に渡し舟を置いた。また橋を架けて窮乏する漁民の援助もした。住民の借金1万2000円(今の2億4000万円)を免除して、昆布の干し場を無償で提供した。1879(明治12)年には釧路・白糠・厚岸で100カ所以上の漁場と農場を開発している。
 当時、場所請負人は大きな力を持っており「佐野氏記功碑」の碑背(裏面)には以下のように刻まれている。
「請負人が仰せつかっている職務としては、地方行政を司り、その事務所は会所と称して半官半民の役所の如くであり、その居舎(住宅)は極めて豪壮である。しかも、その東側は幕府並びに警備の任にあたる幕臣などの役宅(官舎)を始め、会所付属の建物が相連なっている。今の浦見町9丁目およびその付近数町歩にいたる。」 少しさかのぼって1878(明治11)年、4代目は釧路川上郡跡佐登(あとさのぼり)の硫黄鉱採掘の許可を得て、その事業に取り組んだ。硫黄の運搬のため釧路から跡佐登にいたる27里(80キロ)の道路を整備し、住民および作業員の便を図った。

 4代目の徳について、碑文(碑陽:表面)にはそのいくつかが記されている。第1に、箱館戦争で薩長を中心とする官軍軍艦が箱館港上陸しようとした時、旧幕府軍は海底に鉄製の網を張り、侵入を阻もうとした。4代目は小林重吉とともに、部下の船頭に命じてそれを除去し、官軍の箱館入港を援助した。
 第2に、1865(慶応元)年、箱館で米価が急騰して住民が困窮を極める状況になった際、4代目は自分の米蔵を開いて半年の長きにわたって粥を炊き住民へ施しをしたといわれている。この年、幕府にも2000両(今の3億円)を寄贈し、混乱期における幕府の施策を援助している。
 これにより、4代目は苗字帯刀が許され、佐野を名乗ることになる。そのほか、公益のため多くの私財を提供もしている。
 しかし、彼は必ずしも穏やかな晩年を過ごすことはできなかった。1880(明治13)年、病のため弟の儀一郎に5代目を譲るが、彼は間もなく病没。その息子が後を継いだ。その子はまだ5歳の幼児である。
 4代目は病身を鞭打って家運を戻そうとするが、もはやその力は失せていた。
 1885(明治18)年、佐野家の経営が不振になると、硫黄鉱山は銀行家の手に移る。佐野家の債務はその後北海道庁によって解消されるが、4代目の病気は重く、1889(明治22)年9月、50年の生涯を閉じる。
 
 雪祭りも盛況のうちに終わり、いよいよ春の訪れが待ち遠しく感じられるようになってきた。あと2月は我慢しなければならないだろう。