「情報を先取り、タブーに挑戦」を編集方針とし、生活者・企業経営者に
最新かつ有益な情報価値をご提供する、北海道の地域政治・経済誌

ロゴ

トップページ > 社長ブログ > 北海道開拓の先覚者達(2) ~岩村通俊~

長ブログ

このエントリーをはてなブックマークに追加

北海道開拓の先覚者達(2) ~岩村通俊~更新日:2013年06月15日

    

 今年4月、ジャーナリストの船橋洋一氏が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。
 受賞作「カウントダウン・メルトダウン」は、福島第一原発で2011年3月11日とそれに続く数日間に何が発生し、どのような人間ドラマがあったのかを多くの関連する人達に取材してドキュメンタリーにした労作である。その船橋氏と、作家の半藤一利氏の対談記事が文藝春秋6月号に載っていた。
 対談の中で、福島第一原発の吉田所長を“情のリーダー”とし、第二原発の増田所長を“非情のリーダー”と表現している。そして、この二人の卓越したリーダーがいなければ、さらなる悲惨な結果を招く事になっただろうと、船橋・半藤両氏は二人を称えている。

 吉田所長はメルトダウンが発生すると、協力企業の家族持ち従業員を一斉に帰宅させ、毎朝朝礼を開き部下を激励し続けた。最終的には吉田指揮官以下50人余りの現場の人達(フクシマフィフティ)で難局に当たろうと、玉砕の覚悟をしたと言われる。
「被災者達は飲まず食わずで、避難所で雑魚寝を強いられている。それを思うとき、我々現場の待遇を良くすることはできない」
 米国から急遽派遣された支援部隊の部長は「ヨシダの部下達がヨシダに心服している」と、強い印象を持ったとのことである。

 一方、第一原発と同じく全電源喪失に陥った第二原発の増田所長は、津波が来た瞬間に第二原発の門を全て閉鎖し、従業員の誰も外に出て行かないように手を打った。すぐにでも予想されるネコの手も借りなければならないような事態に備え、社員・協力会社作業員全てを閉じ込めたのである。これにより第二原発のメルトダウンは未然に食い止められた。前掲の米国支援部隊部長は「マスダの強さはチーム力であり、危機管理に優れている」と評価している。

 ふと、前回記載した島義勇判官は吉田所長的「情のリーダー」だったのではないだろうか、という思いが浮かんできた。
 主君鍋島閑叟公が天皇陛下より蝦夷開拓の督務を命ぜられたが、公は病弱のため島が主席判官としてその任に当たることになった。主君に代わって大役を仰せつかり、その上天皇から三神を蝦夷地に祀る特命を受け、島の責任感はいやがおうにも緊迫したものであったろう。
 厳冬の中、銭函に到着し、時間を置かず札幌本府の建設に取りかかった。折からの飢饉で食料確保は困難を極め、その上薩摩出身者が仕切っていた現地兵站部からは嫌がらせを受け、調達は厳しい状態だった。島は部下や職人の飢えをしのぐため、ありとあらゆる手を使ったが食料調達はままならず、ついに大幅な予算超過を指摘され東京に召還されることになった。しかし、この様な劣悪な環境の中でも島は仮御宮、官舎、倉庫等の建設や病院の建設を行っている。

 さて、島判官の後継として大事業を継いだのは後に初代北海道庁長官となった岩村通俊である。岩村は土佐藩出身で、武市半平太とも固く結び合っていたとのことだ。
 1869年(明治2年)、開拓使が設置されると島らと共に開拓使判官に任じられた。島判官が札幌建設に当たる間、岩村判官は箱館にて東久世長官を補佐し開拓使の業務に任じていた。その手腕は当時より高く評価されていた。
 島判官が札幌建設の任を解かれると、岩村が副長官として事業を引き継ぐことになった。岩村副長官は島判官の建設作業を一時全面中止し、まず破綻に瀕した財政の立て直しと共に、具体的な準備作業に取りかかった。「情のリーダー」たる島判官の失敗を冷徹に分析し、具体策の積み上げによる再建を図ったのだ。この意味で岩村副長官は福島第二原発の増田所長のような「非情のリーダー」とも言えるのではないだろうか。
 1872年(明治5年)1月、岩村は自ら陣頭に立ち札幌府建設を推し進めた。島判官の大構想を緻密な作業計画と兵站計画で次々に実現させ、6月には札幌を正式に北海道の首都とすることが公認された。札幌首都の特徴としては、整然とした市街区画、東西南北に配置された広大な公園、札幌神社の遷宮、学校の建設、運河の開墾等があり、遊郭の設置も行われている。島判官の構想が岩村副長官により見事に実現したのだ。

 岩村は北海道に4年間余り勤務したが、開拓次官の黒田清隆と意見が合わなくなり、免官となった。故郷に戻った岩村は佐賀県令に就いたがその役を弟の高俊に譲った。
 ここに、不幸が始まったのである。岩村は当時絶対的権力者だった内務卿大久保利通の意を受けた藩運営を行っていたが、当時佐賀に帰っていた島義勇はそれに憤激し、江藤新八らと共に「佐賀の乱」を起こすことになった。
 この乱を鎮めるべく、大久保に指名されたのが岩村である。島と岩村は共に判官として北海道開拓に志を同じくしてあたった者同士である。何という天の巡り合わせだろうか。「佐賀の乱」は江藤・島側の敗北となり、島は斬首の刑に処せられた。

 1886年(明治19年)北海道庁が設置され、岩村は初代長官に選ばれた。1888年(明治21年)に退官するまでのわずか3年間で、岩村は驚くべき実績を挙げている。
 まずは、岩村の長年の主張であった北方開発「北の京」を設けるべく、上川の開拓に奔走した。新道の開墾、鉄道の測量、電話線の設置、農事試験場・測候所の開設など着々と開発準備を整えていった。
 一方、移民政策を抜本改定し、渡航費や農具・種子・米味噌・家作の供与などの個別優遇政策を廃し、移民の直接保護から開墾企業者としての資本家を招致する方針に切り替えた。今でいう農業経営への株式会社参入政策だ。
 資本家が進出する際の判断材料として土地の測量や地質調査などを透明性をもって提供する努力も欠かさなかった。
 さらに将来有望な企業には金利の優遇処置を執り、民間資本の誘致に努めた。官から民への大胆な移管がこの時期に行われたのだ。これら処置の結果、さまざまな事業が起こり、北海道の開拓は急速に進むことになった。道庁の赤れんが庁舎も新築し、札幌農学校も工学・兵学を加え拡充していった。

 北海道神宮の手前、札幌北一条通りに面した円山公園。木々に囲まれた場所に岩村の銅像が建っている。1967年(昭和42年)の北海道開拓100年記念に合わせて建立されたと記録されている。北1条通りには背を向けており、注意深くしないと見落としてしまう場所だ。初代北海道庁長官で実質的に北海道近代化の基礎を築いた人物の銅像としては、いささか寂しい場所との感を抱かざるを得ない。「非情のリーダー」としての印象を持たれ続けてきたのだろうか。

 近くの池には、3日前に生まれた13匹(羽)の鴨の赤ちゃんが元気に泳ぎ回っていた。
昨日から北海道神宮のお祭りが始まった。