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北海道開拓の先覚者達(14)~近藤重蔵~更新日:2013年12月14日

    

 1800年(寛政12年)、今まで見たこともない大型の船が随行船4隻と共にエトロフ島沖に現れた。近づくと船には日の丸が掲げられ、先頭には鎧・兜に身を固めた武士が紅白の指図旗で指揮を執っている。島民(アイヌの人達)には討伐軍が押し寄せたのではないかと一瞬緊張が走った。しかし、やがて船が上陸すると、その武士が2年前に島を訪れた近藤重蔵であり、船団を率いている船頭が高田屋嘉兵衛だと気がつき、みな小躍りして喜んだ。
アイヌの人達は再度来航した重蔵と嘉兵衛、並びに最上徳内を旧来からの友人のように大歓迎した。5艘の船には米・塩・漁具・衣類などアイヌに与えるべき物資が満載されており、早速彼らにふるまわれた。
 近藤重蔵一行はアイヌと共にエトロフ島の開拓に取り掛かったのだ。東蝦夷地が幕府直轄になった翌年である。

 話を2年前の1798年(寛政10年)に戻してみよう。
 この時期、幕府は松前藩の悪政とロシアの南下政策に強い脅威を抱いており、200名近い幕府役人を調査のため蝦夷地に派遣した。
 この調査隊の先発隊長となったのが近藤重蔵である。当時重蔵は28歳。主要な配下として水戸藩士木村謙次(47歳)、蝦夷地調査経験者村上島之丞(39歳)それに蝦夷探検の第一人者として認められていた最上徳内(44歳)らがつき従った。蝦夷開拓の重要人物が加えられたことからみても、若輩である重蔵の力量がいかに高く評価されていたかがわかる。
 一行は函館を出発し根室に到着、クナシリからエトロフ島を目指した。クナシリで各種調査をし、エトロフへの渡航の機会をうかがっていたが、その1カ月後ようやくその目的を達成した。クナシリからエトロフへの渡航は困難を極めた。その様子を重蔵は、友人に送った手紙の中で以下のように伝えている。
「荒潮の強さは津軽海峡の難所の2倍もある。逆波は四面にわき立ち、うねりは5メートル近く深い水の底をつくり、近くの友舟の帆も見えないほどであった。粗末なアイヌ舟のこと、それに慣れた彼らさえ必死に祈りのことばをささげながら舟を操る有様だ。あわや水死を覚悟したのも一度や二度ならず。」
 エトロフのタンネモイに着くとその丘の上に一本の標柱を建てた。そこには「大日本恵登呂府」と記し、その下にアイヌをはじめ全員の名を書き連ねた。
「この国土と生死を共にしてきたのはアイヌである。大日本恵登呂府の名をもって異邦の侵犯を防ぐものは、彼らアイヌなのである。だから共に名を連ね、その栄誉と責任を明らかにしたものである。」
厳しい北方の地を守り生活しているアイヌ民族に対する尊厳の思いを、近藤重蔵、最上徳内、高田屋嘉兵衛は共有していたのだろう。
 ちなみに、エトロフ島からの帰路、重蔵一行は日高地方の沙流川、鵡川地域を視察し、この地方で源義経伝説(義経は衣川館で亡くなったではなくその後蝦夷地に渡った)が残っているのを知った。重蔵は鎧兜姿で金箔塗りの義経の像を寄進している。この像は今、平取神社のご神体として祀られている。

 蝦夷地巡視後江戸に帰ると、重蔵らの進言もあり東蝦夷地の幕府直轄が決まった。重蔵は一番重要な勘定役となりエトロフ担当を命じられる。
 前回(1798年)のエトロフ渡航では小型のアイヌ船を使い九死に一生を得てたどり着いたので、大型船を利用すべく高田屋嘉兵衛に航路開拓を依頼する。
 高田屋は一人クナシリ島の高台の登り、海流を見定めたりアイヌ舟を流したりして潮の流れを長時間かけて探り、ようやく一本の安全な航路を発見することができた。
 1800年、高田屋は頑健に改造した1500石積みの辰悦丸、さらに4隻の舟には波よけをつけ、重蔵・最上を始めとした幕府役人を乗せエトロフに至った。
 この地では毎年秋大量のサケ・マスが河を上って来る。重蔵一行は持参した漁具をアイヌに与え、網でとる手法を教えた。3年後の1803年には1万8千石(350万トン)の漁獲高になり、金額にして1万両にもなったといわれる。
 また、サケの油やしめ粕は交易の重要な商品となり、大きな船が次々にエトロフを訪れるようになった。アイヌの人たちは、生産・労役に応じて正当に物資を渡されたので、これまで貧窮を極めていた島民の生活も一変していく。
 重蔵は島をいくつかに分け村とし、名主を置き、日本風の生活を勧めた。幕府の指示に従い、アイヌに和人風の生活を奨励。髭を剃らせ、髷を結い、名も日本風に変える者が次々と現れてきた。蝦夷地の中で新政が最もよく行われたところとして、最果てのエトロフ島開拓は賞賛されることになる。
 重蔵はエトロフ担当を務めた1805年から2年後、ロシアの乗組員の暴行事件を調査するため利尻島にも赴く。この事件で重蔵は北方全体を統括する府を建て、対ロシア政策を確立する必要性を痛感した。江戸に帰ると、将軍家斎(いえなり)に蝦夷地警備に関する意見書を提出した。その要点は、
 ・石狩川の本流・支流を利用するならば、容易に全島の要地に達する
 ・北方統括地として函館は南に偏りすぎる。府は石狩平野に建つべし
 ・その適地は当別方面、札幌付近がよく、港ならば小樽である
 北方守備の要地として札幌の重要性を指摘したものである。札幌府の建設に実際に着手したのは島義勇であるが、重蔵の発想と指摘が今の札幌を生み出したといっても差し支えないだろう。

 重蔵は1771年(明和8年)、身分の低い貧しい武士の子として江戸で生まれる。小さい時から神童と言われるほど頭がよく、6-7歳のころ孝経を暗唱したという逸話がある。成人に達する頃には身長180センチ、色は浅黒く、筋骨も逞しかった。その頃老中松平定信は広く人材を登用すべく、湯島にある聖堂で学術の試験を催した。遠山金四郎(当時43歳)を含む3名が合格したが、その中に弱冠26歳の重蔵が入っていた。重蔵はその才が認められ長崎に赴くが、書物を読む中で海の向こうには文化の進んだ国々が多くあるのを知る。
 そして、28歳で蝦夷地調査隊の先発隊長に命じられるのである。
 重蔵は28歳から37歳までのおよそ10年間、北海道開拓のために尽くし、その功により、御書物奉行に任じられ12年間務める。時には寝るのは1時間か2時間、書物を読み続け1昼夜に7冊の本を写したこともあったという。
しかし、御書物奉行12年、大阪弓矢槍奉行2年でお役御免となった。一世の学者として、また探検家として知られた重蔵にどういう欠点があったのか
 晩年の重蔵は不遇であった。「長崎から北地まで遊歴すること25カ国、踏破すること数千キロ。自分ほど足を伸ばした者は数少ないであろう。蝦夷地在勤5カ年の間在宅はわずか10カ月、家族への温情にも事欠き、幕府への忠勤と両親への孝養とは両立しなかった」と記している。
両親への孝養のみか、その息子富蔵との屈折した親子関係が不幸をもたらしたといってよいだろう。富蔵は虫一匹殺せぬひ弱な(やさしい)子供で、武術・学問も際立つものはなく、重蔵に勘当させられもした。
 多分、富蔵はファザコンであったのだろう。父親の探検家・研究者としての名声に自分を重ね合わせ、極度の劣等感を抱くにいたった。そのような時、父親が京都滞在で留守にしていた頃、江戸の邸宅を奪おうと荒くれ者が嫌がらせを続けていた。富蔵はそれに怒り、5人を切り殺してしまったのだ。
 重蔵は富蔵のおとこ気を称え勘当を許したが、殺した中には2人の女性もおり、富蔵は取調べのうえ、八丈島流刑に処せられる。重蔵も家事不行届きで裁かれ、滋賀の大溝藩に幽居され痛風で没することになる。時に重蔵59歳。
 富蔵は23歳で八丈島に流される。76歳で罪は許され江戸に赴くが2年間の滞在のみでまた八丈島に戻る。島民に慕われながら1887年(明治20年)、83歳で亡くなる。実に60年間の流刑生活だった。
 富蔵は子供のころからなまけもの、いくじなしと親にも見られ、自分も世間もそう信じたが、流人生活の中72冊にも及ぶ「八丈実記」を書き上げている。その内33巻は今も東京都都政史料館に残されている。

 次号では最上徳内の師である本多利明について報告する。