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北海道開拓の先覚者達(10) ~北海道の先住民族アイヌ②~更新日:2013年10月15日

    

 初秋の真っ青な空を映し、ポロト湖はエメラルド色に輝いていた。森と湖に囲まれた静穏な地に「しらおいポロトコタン(大きい湖の村)」がある。“イランカラプテ(こんにちは)」で迎えられ、アイヌ民族の「祈り」「歌」「踊り」「食文化」そして歴史を体験する機会をもった。
 菅官房長官が先月この地を訪れ、「民族共生の象徴となる空間(象徴空間)」を2020年の東京オリンピック開催前までに建設し、公開する」と表明した。五輪前にオープンさせ、政府が先住民族対策をきちんとおこなっていることを国内外にアピールする思惑があるのだろう。
 ポロトコタン内にある「アイヌ民族博物館」では、「アイヌ民族の概要」なるパネルが掲げられており、ここには以下のように記載されている(抜粋)。
「アイヌ民族は東北地方の北部から北海道樺太(サハリン)南部、千島列島にかけて古くから暮らしていた先住民族です。アイヌモシリ(アイヌ民族の土地)の豊かな自然を基盤として、狩猟・漁労を中心とした生活を営む一方、本州や大陸の諸民族と活発な交易をしていました。しかし、明治時代に入ると、アイヌモシリは一方的に日本の領土に組み込まれました。和人が大挙して入植し、また樺太・千島からの強制移住によりアイヌ民族は土地や資源といった生活の基盤を失い、壊滅的な打撃をこうむりました。アイヌ語や伝統文化は否定され、その多くを失いました。」
 しかし、ここには前回述べた松前藩の非道・横暴に対し立ち上がった「アイヌ3大蜂起」が記されていない。民族博物館の説明員の方にお聞きすると、「この辺りのアイヌの人たちは当時松前藩と友好に取引しており、双方がウイン-ウインの関係にあったのですよ」と話してくれた。本当にそうだったのだろうか。もう一度、場所請負制度から見てみたい。

 幕府はロシアの南下政策の脅威と、クナシリ・メナシの蜂起を通して知ることとなったアイヌ民族に対する松前藩の横暴な振る舞いに懸念を抱き、1785年青島俊蔵ら3隊の調査探検隊を蝦夷地に派遣した。最上徳内は青島の竿取りとして隊に参加している。
「江差の5月は江戸にもない」「元日・節句の有様は京・江戸に劣らず」と、松前・江差は繁栄していたが、これも請負商人がアイヌの人たちを酷使して得たお金を、運上金として藩に上納させたお陰である。松前藩の収入は場所請負制度になってからは4倍にも膨れ上がり、藩収入の95%にも達していた。
 1781年から1788年の天明の飢饉で米価が急騰。藩財政が厳しくなるとアイヌに対する場所請負人の収奪はさらに激しさを増していった。こうした悪徳商人の中でももっとも腹黒かったのは飛騨屋である。1788年、飛騨屋は突然サケのしめかす造りを始め、クナシリ・メナシのアイヌを強制的に使役し始める。桁外れに安い報酬で酷使した上、女たちを辱める。抗議すると皆殺しにすると脅かす。これがクナシリ・メナシ蜂起の背景だった。
 最上は蝦夷地を探検する中でアイヌの人たちからこの状況を聞き、江戸に帰ると「蝦夷草紙」で詳しく報告した。この報告が起点となり幕府は1799年、今の渡島地方の和人地と東蝦夷地を直轄することとなった。
 1807年には蝦夷地全域を幕府の領地とし、松前藩は陸奥の国に移封された。幕府は先住民族が日本人に同化する事でロシアに対し領有権を主張できるとの論理で、日本語の使用、かな文字の使用、風俗の和風化を推進していく。第1次同化政策である。
 高田屋嘉兵衛の努力でゴローニン事件が解決し、ロシア南下の脅威が薄れると幕府は1821年松前藩を復領させた。場所請負制度も復活し、松前藩は以前にも増してアイヌの人たちを過酷に使役したのである。
 松浦武四郎が蝦夷地を探検したのはこの頃で、悲惨なアイヌの人々の生活を「近世蝦夷人物誌」に書き綴っている。

 1869年(明治2年)、榎本武揚率いる旧幕府軍が降伏し、函館戦争が5月に終結すると、7月に明治政府は開拓使を函館に設置。9月には蝦夷地を、判官となった松浦の提案により北海道とした。松前藩による請負制度の弊害を痛感した松浦は、場所請負制度の廃止を主張し、それが認められることとなった。
 松前藩の非道な扱いから解放され、アイヌの人々はかつての生活に戻れるのかと思われた。しかし何ということだろう、長年の使役でアイヌの人たちはすでに生活の場を失っており、請負人の存在抜きには成り立たないまでに追い詰められ失業者になってしまったのだ。
 1871年(明治4年)、新政府は戸籍法を公布し、アイヌの人たちの身分は平民籍に編入され名字が使用されたことで、ほかの一般平民と同様な扱いになった。
  同時に女子の刺青や男子の耳輪が廃止され、日本語を使う一定の土地への定住が義務付けられた。ちなみに、女子の刺青は10歳ころから数年もしくは10年もかけ、少しずつ掘り広げるもので、成人の女性となった証でもあった。そのため、結婚できないと嘆き悲しんだ女子も多かったとのことだ。
 さらに、1876年(明治9年)には伝統的仕掛け弓猟や毒矢の使用を禁止し、畑作に専念するように指導した。狩猟民族としてのアイヌの生命線が断たれた。
 明治政府は北海道の開拓にアイヌの人たちの力が必要であるとし、一家に1万5千坪の農地(開墾地)を付与したが、これは内地から移住する和人の4分の1に過ぎない。
開拓使が推進した狩猟から農耕への生活・風俗習慣の和風化は、アイヌの肉体まで〝むしばみ〟、やがて人口は大幅に減少することになる。
 同年、ロシアとの間で「樺太・千島交換条約」が締結され、樺太に住んでいたアイヌの人たち800名は半ば強制的に対雁(今の江別)に移住させられた。慣れない土地での生活に苦しみ、翌年にはコレラの発生で半数を超える方が亡くなるという悲劇も起きている。
 1878年、開拓使は戸籍上のアイヌの呼称を「旧土人」という差別的表現に統一した。この蔑称は1910年(明治32年)に公布された「北海道旧土人保護法」にも引き継がれている。子どもたちも「旧土人児童教育規定」により「旧土人学校」で学ぶことが義務付けられた。
 先般、静内でお会いしたアイヌのお年寄りから、「子どものころですが、お婆さんがお友達と話しているところに行くと、お婆さんが泣きながら私を怒りました」と聞かされた。お婆さんたちはアイヌ語で話しをしていたのだ。「おまえは絶対に聞いてはいけない」と追い出されたのだ。このように、明治政府は徹底した同化政策を推し進め、アイヌの人たちを日本人化することで、北海道を確固たる日本領土として対外的に主張しようとしたのだ。

 大正に入り、知里幸恵さんの「アイヌ神謡集」など多くのアイヌ文化に関する書物が出版され、少しずつ見直しが始まった。子供たちの教育も一般規定に準拠するようになった。しかし、「北海道旧土人保護法」は生き続けていた。
 変化が訪れたのは1987年(昭和62年)で、アイヌ代表が国連人権委員会に参加し保護法の廃止とアイヌ新法の制定を訴え、ここに「北海道旧土人保護法」廃止に向けた動きがようやく始まった。
 日本政府は1991年(平成3年)、国連人権規定に基づく報告書でアイヌを「少数民族」として初めて認め、1997年(平成9年)アイヌ文化振興法を公布し旧法をようやく廃止した。実に98年にもわたって「旧土人」という蔑称の法律がこの世に生き続けていたのだ。なんと長い時が過ぎたことか。また国連から指摘されてはじめて廃止の決定に至ったのも情けない話だ。
 2007年(平成19年)、国連総会において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択され、国内でもこの宣言を踏まえて「アイヌ民族を先住民族とする決議」が2008年(平成20年)の国会で全会一致により採択された。
 アイヌ民族の優れた文化を残すため「象徴空間」という“箱モノ”を造るという政府の方針に、異議を挟むつもりはない。しかしアイヌ民族の苦難と北海道開拓の功労者としての“歴史”を私たちはもっともっと知る必要があるだろう。
 次回は伊達市の開拓者、伊達邦成について調べてみたい。