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北海道開拓の先覚者達(1) ~島義勇~更新日:2013年06月01日

    

 熊が冬眠から起き出して人里に出没したニュースも一カ月以上前に聞かれた。虫もぞろぞろ穴から出てくる啓蟄も暦の上では3月の始め。「いくら今年の冬が長く厳しかったとしても、お前はいつまで惰眠をむさぼっているのだ」、「どうしたのだ」、「楽しているのか」、「消してしまえばいいのに」というお叱りの声を多くの方々からいただいた。

昨年(平成24年)10月末に“最近号”を発行して以来、ほぼ半年の長きにわたって休眠していた舟本ブログを再開いたします。
 この間、冬眠していたわけではなく、毎朝北海道神宮のラジオ体操の会には参加していた。真冬の間、まだ暗い内に完全防寒で家を出て、吹きだまりの雪をかき分け、寒さに凍えそうになりながら北海道神宮に辿りつき体操を続けていた。驚くことに、冷夏10度を下回る酷寒の中、50名を超えるご同輩が毎日のように参加している。
ようやく凍り付いていた道も歩きやすくなったと思ったら、5月に入り一気に初夏の気配となり、今日(5月31日)は最高気温が26度の夏日になるとの天気で、薄着でも汗が滲むほどだ。今朝の北海道神宮会場には200を越える参加者が晴れやかに体操を楽しんでいた。

 北海道神宮にはパワースポットがあると云われている。本殿に向かって左側、わずかに花びらが残っているしだれ桜と満開の八重桜の前、烏帽子をかぶったさっそうたる武士の銅像が建っている。ここが神宮一のパワースポットだそうだ(噂として流れているだけかもしれない)。
 銅像で顕彰されているのは、「札幌の今日あるは島の経営によるものと評価して誰も疑わない」と云われている島義勇(よしたけ)開拓主席判官である。

 北海道神宮ラジオ体操の会会長で神職の方と懇意になり、高倉新一郎著「北の先覚」を拝受し、島判官を勉強させて頂いた。
因みに「北の先覚」は私の生まれた年昭和18年の6月から100回にわたって高倉信一郎が北海道新聞に連載したのを、戦後の昭和22年に加筆修正のうえ、出版した著書である。
 著者の高倉新一郎は明治35年生まれで北海道大学の名誉教授、北海学園大学学長を勤めた著名な農業経済学者で、昭和40年に発足した札幌市民生協では発起人代表となり、生協活動を推進した方としても著名である。私も、講演を拝聴したことを記憶している。札幌市民生協設立趣意書には「私たちはここ道都札幌の地に隣人を愛し、進取の気性に富み、豊かな暮らしと平和な世界を求める開拓者の子孫、札幌市民の力で生活協同組合の設立を進めることを訴えるものであります。」と書かれている。
 今では我々の意識の中から忘れかけている(忘れてしまっている)「開拓者の子孫」という言葉が、新鮮さと重みをもって問いかけてくる。“北海道”はパイオニアとかフロンティアとか回顧的に使われているが、大事な「開拓者の子孫の意識」はどこにいってしまったのだろうか。

 さて、島義勇は佐賀藩の葉隠れ武士の家に生まれ、才覚が認められ藩公鍋島直道の信認を得ることとなり、35歳の時に藩公の命により単身で蝦夷地探検に赴き、函館、樺太、宗谷、北見、釧路、十勝、日高を2年かけて踏破した。その困難は云うに表し難いものであったという。その紀行は「入北記」として詳細に記載され藩公に献上された。
明治2年、藩公鍋島閑叟公に蝦夷開拓の督務が命ぜられたが、公は病弱のため島義義勇が主席判官としてその任に当たることになった。
 早い冬将軍の到来の中、函館を出発して80里(160キロ)の千辛万苦の行軍でようやく銭函に到着した。その間、義勇は天皇から拝命した大国魂神、大那牟遅神、小彦名神の三柱を自らの背中に負い、部下を激励しながら厳しい行軍を指揮した。時に太陽暦明治2年11月16日である。三柱は円山の現北海道神宮の地に鎮座された。

 義勇は石狩郡に本府を置くべく、円山オコタンペ丘に登り構想をめぐらせた。その構想は驚くべく規模の壮大な都市建設であり、四方300間の本庁舎、その前に長官邸、判官邸、学校、病院、諸官邸、倉庫などを配置し、42間の大通りを隔てて官地と民地に分け、50間毎に12間道路が縦横に走り、東は豊平川、西は円山の麓に及び、その円山に開拓守護神を崇め、その前方に馬場町を設けるというもので、平安京を模したといわれている。

河水遠く流れて山隅にそばだつ(川がとうとうと流れ、山並が近くにそびえ)
平原千里地は膏沃(見渡す限りの平野は肥沃であり)
四通八達よろしく府を開くべし(交通は四方八方に通じ、都として最適)
他日5州第一の都(いつの日か、日本随一の都になるだろう)

 時は12月中旬、極寒で吹雪の荒れ狂う中、義勇は天皇の命でもあり一日も早く首都を竣工しようと、早速、札幌都市建設に取りかかった。旧暦大晦日も休まず非情な氷雪の中で工事を進めたが、その年(明治2年)は天保飢饉以来の大凶年で、米収は無く、東北から送られる兵糧は少なく、貯米は底をつき、輸送船の1隻は難破するという災難にも見舞われた。大規模な工事の上、高騰する食料の確保で予算は底をつき北海道開拓費の増額かなわず、義勇は結局東京に呼び戻されることになった。
 義勇の最期は不幸であった。郷里佐賀士族の政治団体党首にかつぎ上げられ、内務卿大久保利道の逆鱗に触れ江藤新平と共に斬首された。時に義勇53歳であった。
 明治憲法発布の際、大赦により賊名は除かれ、大正に入り佐賀の同志であった大隈重信により贈従四位に叙せられ、名誉は回復された。

 北海道開拓神社には36柱(開拓神社に記されているのは37柱)が祀られているが、その中で島義勇の銅像が本殿に一番近い処に置かれている。北海道開拓の府として札幌を選び、壮大な青写真を描いた上でその工事を始めた功績、ならびに北海道神宮に祭られている四柱の内、後に祀られた明治天皇を除く三柱を鎮座させたことによる功績なのではないだろうか。北海道開拓の第一人者としての位置付けである。

 義勇の構想した開拓ビジョンと、その後の先人たちが北海道の開拓に心血を注いだ歴史を振り返るとき、現在のこの地の低迷が嘆かわしく思われる。
文芸春秋6月号で大前研一は「日本はクォリティ国家を目指せ」を寄稿しているが、その中で「道州制」を訴え、“北海道で120年かけて、日本の官僚機構は何の産業も興すことは出来なかった。鉄も造船もアルミ精錬も炭鉱も、いずれも衰退した”と指摘している。北海道は人口でいえばスイスやデンマークとほぼ同じで、面積は2倍。開拓の先覚者達が基礎を築いて以降、北海道の可能性を120年言い続けるだけではなく、具体的に実現する行動に移るときだろう。

 2010年の1人当たり国民所得では、1位がノルウェー、3位デンマーク、4位スウェーデン、5位オランダ、6位米国、7位フィンランドだ。そして2050年にはカナダが上位に入ってくる。いずれもニューノース(北緯45度近辺以北で今後成長の著しい国々)である。札幌は北緯43度、北海道はまさしくニューノースに位置している。
 今後のブログを通じ、新たな北海道ビジョンについて述べていきたい。