【さっぽろ〈マチナカ〉グラフィティー】第13回・4丁目十字街は市内最大の繁華街だった(下)

 月刊財界さっぽろ2020年12月号より、新連載「さっぽろ〈マチナカ〉グラフィティー」が始まりました。

 筆者は札幌市の出版社「亜璃西社」社長でエッセイストの和田由美さん(写真)です。和田さんはこれまで「和田由美の札幌この味が好きッ!」といったグルメガイドブックや「さっぽろ狸小路グラフィティー」「ほっかいどう映画館グラフィティー」といった、新聞・雑誌等のエッセイをまとめた書籍を多数刊行されています。

 今回の連載では、札幌市内の「通り(ストリート)」や「区画」「商店街」「エリア」などの「マチナカ」(賑わいのある場所)を、毎月1カ所ピックアップ。その場所について、名前の由来や繁華街となっていく上での経緯、さらに現在に至るまでの変遷といった歴史と記憶を綴ります。

 今回は第13回「4丁目十字街は市内最大の繁華街だった(下)」です。

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 来年、解体される予定の商業ビル「4丁目プラザ」は、冬季オリンピック札幌大会の前年である1971年9月3日、4丁目十字街にオープンした。しかし、1坪から営業できた7階「自由市場」の開業は、その6年後となる77年7月のこと。

 OL時代の同僚だったM子さんが、ここに七宝焼きのアクセサリー店を出したこともあり、当時の私は自由市場へよく通った。1坪程度の小さな店がぎっしり並び、見て回るだけで楽しいショップ街だった。

 ちなみに、その頃の私はまだ出版社を起こす前で、狸小路5丁目にある古びたビル2階に仲間と小さなオフィスを構え、編集工房を営んでいた。ビルの地下には文化人が集う居酒屋「海へ」があり、画家の国松登さんや彫刻家の砂澤ビッキさん、気鋭の詩人や小説家など、種々雑多なアーティストたちが通い詰めていたのである。

 なかでも、『停留所前の家』(74)で北海道新聞文学賞を受賞し、4回も芥川賞候補となった作家の寺久保友哉さんは、強烈なオーラを放っていた。78年には、文芸誌「新潮」に短編小説『翳の女』を発表し、それを読んだ私はとても驚いた。

 というのも、前出の友人・M子さんが、ヒロインのモデルになっていたからだ。札幌が舞台のこの小説は、87年に「恋人たちの時刻」(角川文庫)というタイトルで映画化。先だって、亡くなられた澤井信一郎さんが監督を務め、脚本は「Wの悲劇」でコンビを組んだ荒井晴彦さんが手掛けている。

 複雑な性格のヒロインを河合美智子が演じ、相手役は野村宏伸。映画では、無機的な地下鉄大通駅や自動改札機の冷たさ、鴨々川のほとりなど、札幌の街の息づかいが巧みに描かれていた。残念ながら自由市場は画面に登場しなかったが、この物語は作家とモデルが、4プラで出会ったことから生まれていたのである。

 さて自由市場のもう一つの魅力は、77年のオープンと同時に誕生した100人も入れば満員の7階「4プラホール」だったと思う。カーテン式のパネルを押すと現れる100平方㍍の空間で、舞台と客席の仕切りもなく、折り畳みイスが並ぶだけ。77年春、コピーライターから転身して4プラの企画宣伝部に入社した飯塚優子さんは、翌年の7月18日から10日間にわたり、この空間で第1回「自由市場小劇場」を開催した。

第2次「駅裏8号倉庫」での劇団極公演「えへらへら」のワンシーン(1985年頃、撮影・小室治夫) ©財界さっぽろ

 滝沢修の劇団「極」、梅津齊の劇団「風車」、植田研一の演劇会「砂」(後の「劇団53荘」)という地元3劇団が参加。「多い日は立ち見も入れて180人も集まりましたね」と飯塚さんは振り返る。以来、この企画は例年、春と秋に10日間3劇団(劇団は多様)ずつ連続公演し、3年ほど続いたそう。

 思えばあの時代、東京青山通の一等地に72年、VANのオーナー石津謙介さんが「VAN99HALL」を造った。「熱海殺人事件」をはじめ、劇作家つかこうへいの一連の戯曲が上演されて大ヒットしたことで、このホールは若者文化の発祥地とまで謳われた。しかし、VANの倒産で78年に閉場したが、札幌の4プラホールはその前年に生まれながら、現在まで残ったのだからあっ晴れだ。

 4丁目十字街という恵まれた立地と、すぐ横に当時の若者たちが集うオヨヨ通りもあったことから、4プラホールは演劇やコンサート、イベントなどで賑わい、数多くの若者たちに支持されたのだろう。それが、後の「駅裏8号倉庫」に繋がったと私は思う。

 今も伝説的に語り継がれる「駅裏8号倉庫」は、81年8月にオープン。そもそもは稽古場を探していた劇団53荘の植田が、明治末期築という軟石造りの倉庫を見つけたのが始まり。前回も書いたが、1団体で維持するのは難しいので、演劇、映画、音楽など各ジャンルに広げ、12人の運営委員によるフリースペースとして産声を上げた。第1次・第2次を合わせて約4年間、このスペースを維持し、86年4月に「駅8」はその使命を終えている。

 飯塚さんは「駅8」運営委員の一人でもあり、4プラを退職する86年2月まで、自由劇場を含めると足かけ10年にもわたり、演劇プロデューサーとしてさまざまな企画に手腕を発揮した。その後、彼女はフリースペース「レッドベリースタジオ」を開設するが、同時に4プラや「駅8」での経験を生かし、道演劇財団や「札幌演劇シーズン」などで、札幌の演劇シーンを支えてきた。その原点が、飯塚さんプロデュースによる4プラの“自由市場小劇場”であるとすれば、時代を切り開いたファッションビル「4プラ」が果たした役割は大きい。

 また、私が命名した「オヨヨ通り」の誕生は、76年発行の『札幌青春街図』に書いたルポがきっかけ。当時、「プロジェクトハウス亜璃西」という名の編集工房を、デザイナーや編集者、カメラマンなど、たった5人で始めた。以来、紆余曲折を経て出版社を創業し、来年で33年になる。さまざまな意味で、4丁目十字街は、私の青春期の原風景でもあったのだ。